第三十二話 .Lily
「こんなところで集まってたら危ない」
リリーが言う。急な階段だ。一人が倒れでもしたら、後ろの人が巻き込まれてしまう。アリスはリリーの言葉に頷いて、声を上げる。
「死にたくなければ詰めないで!」
アリスの声に気が付き、彼女を見た群衆は水を打ったように静まり返る。アリスが剣を抜いて頭上で振り回しているからだ。さっきまでの騒ぎは一瞬にして落ち着き、その場にいた人たちがゆっくりと散らばっていく。アリスの大胆さに慣れっこなリリーはそれを横目に、群衆を抑えつけていた近衛兵に話しかける。
「なにかあったんですか?」
彼女は小さな声で言う。群衆に聞こえないように、というよりも、言うのが憚られるかのように。
「……城内で、猫の死体が発見されたって」
「え」
リリーは思わず聞き返してしまう。
「猫の死体、王室で」
聞き返しはしたが、しっかりと聞いて意味も分かってはいたのだ。信じられなくて逃避しようとしたけれど、それは無意味な試みだった。城内と聞いた、次に王室だと聞いた。徐々に、徐々に鼓動が速くなっていく。三日前に城下で見つかったかと思えば、今度は王室で?
「少し騒ぎが大きくなっちゃったね。多分彼らの何人かは聞いてる」
ちらと群衆を見た彼女はそう言い、首をゆっくりと横に振る。
「ありがとうございます」
言い切る前に、リリーは力任せに地を蹴って駆け出した。しばらくして、後ろからアリスが付いてくるのが分かった。ターラは、ヘレナは、シャーリィは大丈夫だろうか。耳の横で風を切る音がなる。髪が全部、後ろに靡く。広場から城内に入り、曲がり際に手すりをひっつかんで角を曲がり、いくつもの階段は一段飛ばして駆け上がった。喉の奥が乾いて、咳が一度出る。
王室で猫の死体が発見されたと、近衛兵はそう言った。ターラたちは、見てしまっていはいないだろうか。リリーもアリスも吐き気を催した、あの酷い光景を彼女たちには見てほしくなかった。もし見てしまっていたら、どう忘れさせてあげればいいだろう。
リリーは数十秒走って、ようやく王室の前に辿り着く。そこには近衛兵が数人と、嗚咽を漏らしながら泣くメイドがいた。鳴り止まない激しい鼓動を深呼吸でゆっくりと鎮めていく。
「隊長、リリーさん……」
近衛兵が近づいてくる。その子の表情は困惑と恐怖に包まれていた。だが神妙な声音で、状況をすぐに報告してくれる。
「王室で猫の死体が発見されました。発見したのは、あそこのメイドです」
「死体は? 見た?」
後ろから付いてきていたアリスが近衛兵に訊く。アリスは息を切らしていなかった。
「中にあります。ごめんなさい、見ていません……」
痛々しそうに言った彼女は、扉を視線で示したが、すぐに逸した。
「ううん、いいの。そもそも、準隊が来るまでは動かせないから」
見たところ、ターラたちはいないようだった。ひとまず安心したリリーは、扉に近づく。
「アリスはそっち見ててよ、わたし中見てくるから」
そう言い残して、扉を自分が入れるくらいの最小限に開く。王室に入り、扉をそっと閉めようとするとアリスが身体を滑り込ませてきた。
「ばか言わないで、なんで私だけ外なの」
リリーは押し黙る。アリスから目を逸らし、床に目を落とすと、そこにはかつて生きていたとは思えない姿の猫の死体が、三つ転がされていた。そもそもこれは猫という生き物だったのだろうかとすら思えてしまうような状態。首から上が無いだけで、そう見えてしまう。
リリーは気付かぬ内に手を伸ばして、その体に触った。生きているときはきっと触り心地のがよかったはずの体毛は傷んだ髪の毛のようで、使い古した絨毯のようで。その体はすっかりと固くなって、軽く押しても石のように動かない。
「リリー、触らないで」
四日前に猫の死体を見た時、初めて見る死体の“気持ち悪さ”に、思わずえずいてしまった。けれど今、目の前で固まっている死体を見ても、吐き気を催すことはなかった。なぜだろう。
この死体が生き物だったように見えないからだろうか。
……違う。
殺された猫に対する哀れみと、犯人に対する憤りが、すべての感情を押し退けて、喉の奥まで来ているからだ。悲しいような虚無感と、煮えくり返るような怒りがひたすら体内を渦巻いている。
「リリー!」
「アリス?」
「リリー、触ったらいけない」
腕を掴まれて、猫から引き離される。アリスはかなりの力でリリーを引っ張ったが、意識は眠る前のように朦朧としていて、口から出てくる言葉は寝言のように浮遊していた。
「……この子達がなにをしたんだろう」誰に言うでもなく、聞いて欲しいわけでもなかった。「犯人は何を考えながら猫を殺したんだろう。生きている猫の首を斬り落として殺したのかな。殺してから、斬り落としたのかな。なにがしたいんだろう」
なにしろ、王室でこんなことが起こってしまったことがつらかった。もどかしさが襲ってくる。城下町の警備を増やすことが重要なのではなかった。マクナイル全体の警備を強くする必要があったのだ、城内も例に漏れず。七年前も、四日前も、城下町に死体が捨てられていたから、視野が狭まってしまっていた。儀式だけが目的ではないかもしれないと考えた時に、アリスに言って方針を変えてもらうべきだったのだ。
突然の事件に、自分の思慮の浅はかさに、犯人の残虐さに、思わず鼻で笑った。そんなリリーの肩を、やさしくアリスが撫でる。
「そんなことは考えなくていいの、リリー。私たちは一刻も早く犯人を見つける、今はそれだけでいい。分かってるよね」
「……うん」
何か居心地の悪いものに支配されそうになっていた感情が、アリスの手のひらに拭われていく感覚がした。ほんのすこしだけではあったけれど。
「少しだけごめんね」
リリーはアリスの手から離れて、顔のない猫に話しかける。死体を横にずらして、その下を確認する。――絨毯には血がついていなかった。それを発見して、脳内の歯車がガチガチと音を鳴らして回転し始めた。血が流れていない、猫はここで殺されたのではない。つまり死体から血が出なくなるまでの時間、犯人は死体をどこかに隠していたということになる。
そうなるとやはり、七年前の事件とは根本的に違ってくるのだ。もし首を斬り落とすという行為で、儀式を遂行したいだけだとすれば、隠し持っておく必要も、こんなに目立つところに置く必要もない。城下、城内、これらは確実に人目につく。
「見せつけてる……」
ぼそっとひとりごちる。
そういえば、ターラやヘレナは運良くここにいなかったのだろうか。近衛兵はメイドが見つけたとしか言っていなかったから、恐らくそうなのだろう。犯人はこの機会を狙っていたのだろうか。
何か他に痕跡はないかと床に目を走らせていると、王室の扉が開かれた。現れたのは準国事隊だ。
「何をしている」
鋭い声で、リリー達を準隊の女が叱咤する。リリーは突然のことに肩を強張らせるが、アリスが前に出た。
「見ていたんです。さすがに城であったことなんで、私たちも無関係ではないでしょう」
「……近衛兵隊長か。そっちはリリー・エウルか。いじっていないだろうな」
「ええ、そりゃ当たり前ですよ。まあ気づかないうちに当たっちゃったとかはあるかもしれないですけど」
そう言ってアリスはリリーの手を取り、準隊の睨むような視線の中、王室を抜け出した。




