第三十一話 .Lily
来るときはその長さに息が詰まりそうだったトンネルも、帰りはとにかく頭を使うのにいい環境だった。静かで、規則的な足音が響くトンネルの中。アリスもリリーに気を遣っているのか、一言も口を発しない。一歩一歩と足を踏み出していく。目を開いて、足元を見つめてはいるが、急速に回転する思考がすべての五感を鈍らせている。見えているのに見えない。聞こえているのに聞こえない。頭の中を、とにかく働かせる。
――七年前の猫事件は、エール教徒による確信犯だった。そして今回もこのミカフィエル遠征で、猫を殺したのが同じくエール教徒だと分かった。ミカフィエルでヘイリーの猫が被害にあっている以上、そう考えるのが妥当だろう。
問題は、ヘイリーの猫が被害にあった日と、マクナイルで猫事件の起こった日がほぼ同日であるということだ。それが不可解だった。それぞれが独立した別の事件だと考えることもできるが、関わりがあるという見方のほうが自然である。しかし、それは色々な面で実行が難しい。まず、マクナイルにエール教徒がいるにしても、エール教国と連絡を取る手段がないのだ。何度も旅行に出ている人はいなかったし、考慮していなかった出来事により計画を実行に移せない場合だってあるだろうから、七年前からこの時期を狙って事件を起こそうと計画していたとは思えない。であればやはり、関係性はないのだろうか。偶然、日が重なっただけなのだろうか。
頭を振る。普通じゃない。もっと有り得そうなことはないか。
帰ってきていない旅行者についてはどうだろうか。リリーは真新しい看板を思い出す。マクナイルからミカフィエルに来た旅行者を誘導するための看板。マクナイルに繋がるトンネルの前にこれ見よがしに立てられていたあの。最初は「罠にしては分かりやすい」と感じたが、自分が旅行者だったらと考える。観光するため、あるいは休息するために必要な荷物を持ち、番兵との面倒な手続きを済ませ、長い長いトンネルを抜けた先には何もなく、意気消沈したところに看板が立っている。『この先観光地』。普通は怪しいと勘ぐるかもしれないが、だが、なんとかミカフィエルに辿り着いた旅行者はこう感じるのではないか。
帰ってしまってはここまで来た意味がない。
重い荷物を手に、自分ならそう考えて先に進んでしまうかもしれない。それが例えエールに繋がるとしても。
エール教国の目的は、さっき老人が言っていた。『信者を増やすこと』だ。ミカフィエルの環境がよく、旅行が流行っているという噂を流し、最終的にエールに誘導するといった作戦も考えられる。旅行者が帰ってこなくなったのは二週間前。ミカフィエルにエール兵が現れたのは一ヶ月前。それまで、エール兵に動きはなかった。しかしまるで示し合わせたかのように、情勢が動き始めた。
やはり、直接か、間接的に、マクナイルとエールで意思を疎通する方法がある――。
どうやって、どうしてミカフィエルとマクナイルの猫事件が同時期に重なり、さらに旅行者が帰ってこないという異常事態さえ重なったのだろう。
……いずれにせよ、マクナイル国内にエール教徒がいるというのは確実だろうか。『行き来している間に宗教に興味を持った人』という可能性は、何度も行き来している人がいないという書面で否定された。その書面における『命令や圧力、悪意による改ざん』は、番兵の説明で否定され、『連絡を取る方法』は、ない。というか、思いつかない。番兵たちの仕事に対する真摯さを見れば、知らぬ間に国民が何度も出入りした可能性は限りなく薄いように思える。そう信じたいとも思う。すると国衛軍が中途半端に門番をしたという話が最前線に出てくる。国衛軍も律儀な集団ではあるが、近衛や番兵と違って組織の規模が大きい。全員が仕事熱心であるとも言えないし、もっと言えば、その中に小さな反乱分子があったとしても、存在感は薄れているかもしれない。頭がいいだけに厄介だし――。
残る可能性はもう一つ。『元々国内にいた可能性』、つまり、七年前に国が分割された際にマクナイルに残ったエール教徒がいるという可能性である。
いま残存する可能性のうちで、最も三つの事件を重ね合わせやすいのはなんだろう。他にも払拭されていない悩みはある。アナが変な噂を流していたということや、七年前とは異なる猫事件の様。考える材料は揃っているのか、それともそうでないのか。どうにもあと一歩、あと一歩が足りない気がする。
不意にアリスが立ち止まったことに気がついて、リリーも慌てて立ち止まった。気がつけばトンネルも終わりに差し掛かり、出口が望めるところまできていた。すると忘れていた暑さや、喉が乾いていることに気がついて、まさに今目が覚めたかのように、きょろきょろと辺りを見渡す。
トンネルを抜けると、途端に開放感に包まれる。朝よりも気温が高くなっているが、今日は風が吹いて気持ちよかった。すぐそばにいた番兵に身元を確認してもらって、もう一度塔に入り、帰国の印を押した。二週間前に出ていった人以来、初めての帰国だった。
リリーたちは二度目の熱烈な番兵たちによる歓迎を受けたあと帰路につき、いまは城下から城への階段を登っている最中だった。半分ほど登りきった時、顔を上げて階段の終わりを覗こうとすると、そこに人集りができていることに気がつく。アリスと顔を見合わせる。ざわざわと落ち着かない群衆、それを嗜めるように抑える近衛兵がいたが、手が足りていないようである――。




