第三十話 .Lily
老人に案内されて入ったのは、例の背の高い集合住宅の一室だった。この部屋が台所として使われていたということが、かろうじて判断できる。床には皿やカップなどの破片が散らばり、椅子のいくつかは足が折れたまま無残に転がっていた。埃や湿ったにおいが充満し、息が詰まりそうだった。
「ここに住んでるんですか」
アリスが尋ねると、老人はくつくつと笑う。リリーらに信頼され安心したのか、老人の表情は柔らかくなっていた。アリスは笑う老人に合わせて一緒に笑っていたが、唐突に真顔に戻った。
「いや、笑うところじゃないでしょ」
「……ああ、いや、今は住んでいる。だが、元々ここに住んでいたわけではない。エールの奴らにトンネルの近くにいろと言われ、ここに突っ込まれたんだ。我々には力がないから、従うしかない。それに、ここにいさえすれば、生きるのに最低限の食料や水は貰える。味と量に文句言わなきゃ生けてけるのさ」
老人はしばらく俯いていたが、やがて歩きだして、部屋奥の閉じられた扉の前に立った。ゆっくりとその扉が開かれると、向こう側から何かが風に乗って飛んできて、それらはふわりと宙に漂った。目を薄く開いて手を仰ぐと、それが埃だったと分かる。アリスもリリーも顔をしかめていたが、舞った埃のほとんどが散らばって気にならなくなると、目を凝らして開かれた扉の向こう側を見た。
「みんな、もう長くはない」
リリーは目を見開いた。ここまで案内してくれた老人と同じかそれ以上に歳を重ねているように見える老人が五人、そこにいた。横になって動かない人、苦しそうに咳き込む人。狭く、窓も開かれず、日の当たらない、埃まみれの倉庫のような場所に、すぐにでも状態を見なければならないような老人が詰め込まれるようにしている。
「なんでこんな――!」
部屋に駆け込むとリリーは真っ先に窓を力任せに掴んだ。手元が慌て、さらに立て付けが悪いのかうまく動かない、ようやく開くと、それによって埃が風に運ばれて飛んでいったが、それでもあまり意味はなかった。部屋は埃だけではなく、湿気もひどかった。
リリーは全員の容体を確認していく。全員が疲労や心的外傷によって弱っているのが判断できる。ともかく自分などではなく、きちんとした医師に診てもらう必要があることに間違いはない。
「どうしてこんな状態で? エール兵と言っていましたね、彼らの目的は分かりますか」
リリーたちをここに連れてきた老人が、床に座り込む。項垂れながら、口を開いた。
「一ヶ月くらい前から、エール兵が国境を越えミカフィエルに来るようになった。理由は単純だ、信者を増やすためだよ。最初は広場や住宅街の前で勧誘をしているだけだったが、次第に若いものや子供を力づくで連れていくようになった。俺らみたいな、役に立ちそうもない老人はこの有様だ。食事や水はあっても、若い人たちの助けがなければ、俺たちは生きていけない。死ねと言われているようなものだ。ここにいろと言われたからにはそうするしかない。でももし皆が返ってきた時、せめて目立たないところで死んでいたいと、そこにいる全員が、その部屋から出なくなった」
「だからこんな部屋で……?」
空気も循環せず、太陽の光も入らず、誰が世話をしてくれるわけでもなく、いるだけで毒になりそうな部屋。彼らはここを、墓場にするつもりなのだ。唇を噛み締める。なぜマクナイルはこれに気が付かなかったのだろうか。理由をあげればたくさんあるだろう。マクナイルとエールが直接繋がっていないから、それで安心して、ミカフィエルのことなど気にも止めていなかったのだ。関心もなかった、どうでもよかったのだ。奥で寝込んでいる老人が大きく咳き込んだ。リリーは眉を寄せて、申し訳をすることもなく見ることしかできない。リリーがそうして俯いていると、アリスが前に出る。
「ヘイリーという男の子を知っていますか」
リリーがはっとするのと同時に、老人が顔を上げた。そうだ、ヘイリーはミカフィエル出身だった。ここに来たからには真っ先に尋ねなければならなかったことなのだ。
老人の表情に少しだけ色が差す。
「ヘイリーは無事にそっちへ行ったのか! よかった……」老人は目頭を抑え、ほっと息をつく。「よかった……」
顔の皺を寄せ、噛みしめるように何度も「よかった」と繰り返している。そっちへ行ったのかと、彼はそう言った。リリーは消沈している意識を追い出し、老人に訊く。
「まるでマクナイルに行くことを知っていたかのような言い方ですね」
「頼んだんだよ。四日前の夜にエール兵が来て、ずっと身を隠していたヘイリーが見つかりそうになった。よもや俺の孫までも連れ去られてしまうと、急いで逃げたんだ。だが、ヘイリーは逃げることをやめてしまった。そこに翼持ちがやってきて、彼女にヘイリーを安全なところに逃がしてくれるように頼んだ」
リリーはアリスと目を見合わせる。翼持ち、つまり翼を生やした天使が、ヘイリーをマクナイルの森に置いていったというのか。気になることは多いが、その日のことをもっと詳しく訊くのが先決だった。
「なぜ、ヘイリーは逃げるのをやめたんです? それほどに逃げ回ったのですか」
その質問に対し、老人はしばらくの間応えなかった。ぴんと張り詰めるような雰囲気が充満し、奥からは咳が聞こえる。須臾の沈黙の後、やがて、掠れた声で訥々と言い始める。
「……飼っていた猫が殺された。ただ殺されたんじゃない、首を切り落とされて殺されていたんだ。ヘイリーはそいつをひどく気に入ってたから、首の無くなったそいつを見て大声で泣いた。それでエール兵に見つかりそうになった。同時に、翼持ちにも見つけてもらったわけだが……」
老人の話を聞き、まばたきをするたびに、瞼の裏にその光景が想像された。闇の中で首から上の無い自分の猫を見つけて、抱きかかえて泣き叫びヘイリーが脳裏にちらつく。
彼がマクナイルに来る前のことを覚えていないのは、愛猫が死んでしまった衝撃からだろうか。エール兵が攻め入ってきたということは口にしていなかったから、マクナイルに来る全やの記憶がすっぽりと抜けていることになる。アリスと自分の記憶喪失は、何か精神的衝撃を受けた故ではない。しかしヘイリー自身はそういった理由なのだろうか。すると、我々とヘイリーのそれは違うということになる。
そして気になるのは、その翼持ちだ。
「その、翼を持った天使というのは、どんな方だったか覚えていますか?」
「……夜だったから詳しくは分からん。女であったことは分かるんだが」
「そうですか……」
夜で、さらに慌てていたこともあるだろうから、そればかりは仕方がないことだろう。リリーはこれ以上問うことも思いつかなくなって、アリスの様子を伺う。無表情のまま、虚空を見つめている。まばたきはゆっくりとして、呼吸も落ち着いている。そのアリスが、目の前を見たまま、老人を見ぬまま、まるで何も考えていないかのように口を開く。
「もうしばらく、生きて私たちを待っていてください」
「……は?」
素っ頓狂な声をあげた老人を、アリスが見下ろした。
「我々があなた方を救うことを約束します。それまで、皆さん生きていてください。すぐに助けに来ます」
表情を引き締めたアリスが言い放っても、老人は自嘲気味に乾いた笑いを発するだけだった。
「いや、期待しちゃいない。あんたらに罪はないかもしれないが、マクナイルだってミカフィエルをこんな辺境の土地に追いやった国じゃないか。俺らはこのまま死ぬ。変に肩入れするくらいなら、忘れて早く帰ったほうがいい」
老人の声は遠くから聞こえるようだった。今、目の前でうなだれる老人が言ったことを頭のなかで繰り返すと、なぜだかリリーは腸が煮えくり返るような感情に支配された。気がつけば老人の前にかがんで、その手を強く握っている。リリーは頭の中に出てきた言葉を、特に吟味もしないまま老人にぶつける。
「ではなぜ、あなたはここに案内したのですか? あなたにとってマクナイルは酷い国かもしれない。でも、でも、わたし達が助けると言っているんだから、それに縋ったらいい! なにも助けるのはあなた達だけじゃない、エールに連れ去られた人々も助ける。そしてあなたはそれを迎えるんです。死ぬのはそれからじゃありませんか!」息を継ぐ。勝手な話だ。すぐに手助けはできないのに。「どうか諦めないでください、行く末を悲観しないでください。わたし達を希望だと思って待っていてください。ヘイリー君も、そう願っているはずです」
老人の手を離して立ち上がる。そして、頭を下げた。
「どうか、お願いします」
彼は座ったまま、立ち上がったリリーを、呆然とした目で追った。リリーを見つめ、やがて目尻から涙を零す。乾燥し、汚れた肌にそれが伝って跡を付ける。皺のせいで複雑になった表情。
「神はいる。物心ついた頃から一度も礼拝を欠かさなかったが、最近になったやめてしまった。もし女神がいるのなら、何故我々を放っているのだろうかと。でもやはり、見失ってはいけない……」
嗚咽を漏らしながら袖で涙を拭う老人にもう一度頭を下げ、リリーとアリスは彼らに背を向けた。女神だなんだは興味がないが、我々が、彼らを必ず救わなければいけない。胸に誓った。そしてその胸には、もう一つの感情が芽生えている。
紛れもない、エールへの怒りだ。




