第二十九話 .Lily
「行こうか」
聳え立つ高層建築の間を歩いて行く。マクナイルではあまり見ない形の建築物だ。これが倒れてきたら助かりはしないだろうと、意味のない想像をしてしまう。建物達が足を引きずり自分たちを挟み込んでくる光景も想像した。そんなこと起こりはしないと分かりきっているのに、そんなことを考えてしまうのは、周囲からの圧迫感からだろうか。それは建物の高さ故でもあるけれど、どこから何が出てくるか分からないというのが一番大きい理由だろう。
リリーのような想像はしていないだろうが、隣を歩くアリスも周囲を警戒してやまない。リリーも同じように目を光らせて見張る。突然誰かが襲ってきても立ち向かうことはできるが、腰の短剣では少し心細い。
行って、誰も帰ってきていない国。リリー達が足を踏み入れているのは、七年前とは全てを翻したように変わり果てた異国の地なのだ。古色蒼然とした世界に、緊張は頂点に達そうとしていた。
そしてまた、さっき見た看板と同じような看板を見つける。辺りに気を配りながら、その周りの空気とまるで協調していない看板に近づく。書いてあるのは同じことだった。
『この先観光地』
矢印の指している方向を見てみると、そこにあったのはトンネルであった。リリーたちが通ってきたものではない。あれは、エール教国へと繋がるトンネルだ。そのトンネルから、異様な空気が流れてくるように感じる。その暗がりの向こうが見えるわけでもないのに、向こうまで続く闇に目を凝らす。最初の看板を見た時から抱いていた危虞は確かなものに変わってしまった。
「分かりやすくない?」
アリスが言う。リリーもそれに同意見だった。『この先観光地』などと白々しく書かれてはいるが、この先は観光地ではなくてエール教国だ。そしてこの、周りの古びた雰囲気と調和しない、取って付けられたような新品の看板。胡散臭さは尋常ではなかった。だがこれがアリスと自分が思うように、分かりやすい罠と断定しきることはできない。ミカフィエルは土地として見捨てられ、住民は皆エールに越し、街が空になったということが考えられるからだ。
しかしこっちに行って帰ってきていない旅行者が何人もいることは無視できない。ここか、あるいはエールで何かがあったことは間違いないのだ。
「これに釣られてみんな行っちゃったってこと?」
「そうなると思う」
他に調べられるところはないかと足を踏み出そうとした時、アリスに肩を掴まれる。アリスはリリーを抑えたまま、腰の剣を勢い良く引き抜いた。鋭い金属音が、耳と閑散とした周囲に響く。
「リリーも」
何が起こったのかは分からないが、リリーはアリスに従い短剣を抜く。リリーが抜刀したのを確認して、アリスが声を上げる。
「いるのなら丸腰で私の前に姿を現してください。そちらが武器を所持していたら容赦はしません」
静かなアリスの声が響き、辺りがしんと静まり返る。そのとき、リリーにも物音が聞こえた。アリスの見ている先にある民家からだ。数秒後、そこの扉がゆっくりと開く。姿を現したのは、腰の曲がった老人だった。彼は俯きがちに、ゆっくりと口を開く。
「マクナイル兵か? お前らまで、何の用だ……」
憔悴仕切った表情、そして声色、こちらを見る目は呆れていた。アリスを睨みつけたあと、リリーを見て前髪に視線を止めるのが分かった。リリーはさして気に留めず、アリスがどうするのかを待つ。
「あなただけですか?」
アリスが剣を構えたまま問うと、老人は親指で自身の背中を指差した。
「俺と似たようなのがまだいるよ」
「なぜこんなところにいるんです」
「別に、好きでいるわけじゃない」
「若い人や子供は? 一体どこに」
「エールの兵士が連れて行ったよ」
彼は、弱々しく、繰り返す。
「エールの兵士が、みんな、みんな……」
みんな、みんな。
リリーも、老人が繰り返したその言葉を何度も頭のなかで反芻する。あの老人の言うことを信じるのだとしたら、ミカフィエル国民は、鳴りを潜めていたわけでも、エールに越したわけでもない。この先の観光地とやらへ連れ去られてしまったのだ。老人は改めてリリーとアリスの二人を睨みつける。皺の寄ったその顔には恐怖が滲んでいるように見える。
「あんたらも奴らと同じか? もうここには俺たちみたいな奴しか残っていないだろう。連れて行ったって、何もない。早死にするだろう、働けもしないだろう、もう、静かにさせてくれれないか」
「アリス、剣を」
リリーは言って、握っていた剣を下ろし、鞘に戻した。アリスも従う。
「わたし達は、あなた方をなにか酷い目に合わせるために来たのではありません。話を聞かせてください。他の方も一緒に」




