第二十八話 .Lily
リリーは正直緊張していた。
国が別れた後、マクナイルから外に出るのは初めてなのだ。分割以来、向こうの事というのはできる限り人々に伝えられてこなかったように感じる。なにより、多くの人が知ろうとは思わなかった。トンネルの向こうにある世界が、一体どのような状況にあるかというのはほとんど分からない。想像を巡らせることはできるが、それらが映し出す光景は大抵の場合残酷で、あてにはならなかった。
二人の足音が遠くにいっては、響いて帰ってくる。ここから先はしばらく歩き続けることになるだろう。どれだけ長いのか把握できていないからか、黙っていると気が持たなくなってくる。リリーは一度沈黙を破ろうと口を開く。
「アリスは、サラさんと仲直りしないの?」
が、絶対に話題を間違えた。こんな状況であえてこんな質問をする必要など一切ないのである。これなら黙っていたほうがよっぽどましだったのに、頭に浮かんだ話題がそのまま口をついて出てしまった。リリーは恐る恐るアリスの顔を覗き見る。しかしアリスは気にしていないかのように、真顔のままずっと先の方を見つめて歩いている。
「なんで?」
「あー……だって、昔は仲良かったんでしょ? なにがあったか、わたしは知らないけど、せっかくなんだから仲直りしてほしいっていうか……」
ここで『いやなんでもない』なんて言って誤魔化しても効かないだろう。会話を続けるしかなかった。完全に自業自得なのだが……。
「リリーはサラが好きなの?」
そう聞かれて、リリーは立ち止まる。「それは、そうだよ」
しかし二人分の足音が止まることはなく、アリスは振り返りもせずに歩いて行く。リリーも一度止めた歩みを再開して、また足音がばらばらに反響した。
「仲直りってのはさ、子供のための言葉なんだよ。そう思わない?」
煉瓦を踏む音、砂を蹴る音、それらに混ざって、アリスの淡々とした声が、トンネル内で響いて耳に届く。彼女の声は、トンネルの壁のように無機質に感じられて、それに触れたときのように冷たい。
「毎日毎日飽きもせず、同じ人と遊ぶ子供には、それは必要なことだよ。喧嘩をしたら、仲直りしなきゃ、明日また遊べないでしょ。でも大人になったらそうじゃない。必要がなくなるの。当然、謝罪や愛想は必要なことだよ、何かしでかしたら謝らなければいけない。でもその後に、子供の時のように単純に許す人なんていないじゃない? それが現実で、それはリリーもよく分かってると思う。とりわけさ、過去に仲違いした人に気を向ける必要はなくなっていくんだよ、歳を取る度に」
アリスの言うことはよく分かる。子供は謝ることを教えられ、そして謝られたら許すことを求められる。子供の世界の、大人の世界とは違う、軋轢の少ない和解の方法。それは歳を取るにつれて効果が薄れていくように思える。でも大人になったからといって、それが不可能になるわけではないだろう。仕事上だけで関わる人に対しては、もしかしたら複雑な社交辞令が必要になってくるかもしれないけれど、アリスとサラは、そうではない。正しいことを言っているように聞こえるけれど、穿った言葉だった。
「じゃあ、アリスは何を思って、いまサラさんと協力してるの?」
「簡単なことだよ、リリー」アリスがリリーを見下ろす。「何も考えてないの」
ひどく冷淡な声色で、彼女はそう言い切った。リリーはぐっと黙り込んで、何も言えなくなった。トンネルには、また無機質な音だけが満ちていく。
「その点」がらっと声音を変えたアリスが、リリーに話しかける。「リリーは人付き合いがうまくて羨ましいよ。誰とでも仲良くなれるし、誰にでも気に入られるじゃない」
今までの会話の続きに思えるけれど、話は大きく逸れている。それはアリスが、これ以上その話をしてほしくない……というよりも、するな、と、そう言っているようなもので、リリーはそれ以上追求する気にもなれなかったし、今後も聞かないようにしようと心に誓った。そして、その質問の答えをしばらく考える。
「……もしわたしが好かれようとするのをやめたら、誰もわたしに目を向けなくなると思う」
アリスに対して嫌なことを聞いてしまったという後ろめたさから、というわけではないと思うけれど、その問いに対して口を出たのは自分でも驚くほど正直な答えだった。
「どういう意味? 誰からも好かれようとしてるってこと?」
「というか、嫌われないようにしてるって言ったほうがいい」数秒黙って、話そうかどうか考えて、やがてリリーは口を開く。「怖いんだよ、人から嫌われるのが。子供の頃に仲良くしていた女の子がいて――」
かいつまみながら、リリーはアリスに懐かしいあの出来事を話していく。
まだ子供の頃、ベリタとユッテという名前の、仲がいい女の子の友達が二人いた。ある日、ベリタが自分の絵を見て評価してくれと頼んできて、ベリタが地道に描いていった絵描き帳を、わたしは見させてもらった。その絵の数々は本当に上手だった。子供なので、完璧とは言えないものの、それらは綺麗で引き込まれるものだったのだ。わたしはベリタを素直に褒め、彼女はそれを大いに喜んでくれた。
そしてまたある日、もう一方の友達であるユッテの家に遊びに行った時のことだ。彼女が席を外している間に、ユッテの部屋の本棚に、絵描き帳があるのを見つけた。わたしは先日絵を褒めたら喜んでくれたベリタのことを思い出して、勝手に絵描き帳を取り出して見てしまったのだ。これは本当に、善意のつもりの行動だった。その絵描き帳に描かれている絵もまた素晴らしく、ベリタの絵とは雰囲気こそ違うものの、それよりもずっと熟練した印象を受けた。だからユッテが戻ってきた時、わたしは無邪気に「この絵すごい綺麗だね。ベリタも上手だったけど、わたしはユッテの絵が好き!」というような褒め方をした。
そう、褒めたのだ。けれど、彼女は顔を青くしたあとにすぐ真っ赤にして、わたしを強く押し倒した。その時はまるで状況が掴めないまま彼女の家を追い出されて、押されただけで特に痛くはない肩をさすりながらお城に帰った。その日は眠れなかった。けれどその時間で、何故彼女が怒ったのかをちゃんと考えることはできた。何がどうあれ、勝手に見ることはいけないことだと気づくことができたのだ。次の日、わたしはユッテに謝りに行った。その時彼女の家に辿り着く前に彼女を見つけて近寄ったのだが、横にはベリタがいて、二人はわたしを見るなり明らかに嫌な顔をした。やはりきちんと謝らなければと近づくと、ベリタが前に出てきて、わたしに対して大きく怒鳴ったのだ。
「ユッテから聞いたよ。この前は私の絵、上手だって褒めてくれたのに、嘘だったんだね。 ……もう二度と私たちの絵は見ないで!」
矢継ぎ早に叩きつけられた言葉に、わたしは何も言い返せないまま、そして何も考えられないまま、その場に立ち尽くし、怒った様子でどこかへ向かう彼女たちの背中を眺めていた。この前まで仲良くしていたのに、その背中は一瞬で見知らぬ人のように見えて、ただただ混乱するしかなかったのだ。
「――まあ、今になって考えればユッテは絵を見られたくなくて、わたしに見られてしまったことに怒ったから、ベリタにちょっと話を大きくして話を伝えたんだよね。だからわたしは二人から嫌われちゃった。それから、誰かに嫌われるのが、ひどく恐ろしくて。だから私は、嫌われないように生きてるんだよ。ずる賢く」
アリスは黙って聞いていたが、リリーの昔話が終わると同時に「ふうん」と唸った。
「ずる賢いとは思わないけど。そのユッテって子はちょっと怒りすぎだって思わないの?」
「……誰にでも触れられたくないことって、あるよ」
さっきのアリスのように。
リリーは、それを分かっているはずなのだ。あれ以来、人の顔色を人並み以上に伺うようになった。相手のことを知るようにした。勝手なことはしないように心がけ、嫌われないよう、こちらからは決して波風を立てないようにと、ずっと心がけている。けれど感情が昂ぶってしまう時、例えば王室でターラに口答えをしてしまった時や、どうしても気になってしまう時、アリスにサラのことを聞いた時のように、その決心を破ってしまうことがしばしばあり、あとで強く後悔することがよくある。人との関わり方を変えたら、確かに周りの自分を見る目は変わった。
相手に嫌なことを言われてもこちらからは決して何も言わない、失礼な行いをされても許容する、それで辛抱が堪らなくなってしまいそうになることはあるけれど、我慢をすれば誰からも嫌われなくて済む。鬱憤が溜まることはあるけれど、その生き方が一番自分に合っているような気がする。何より、二度とあんな、谷底に突き落とされるような孤独は感じたくないのだ。それでも気が急いて人の事を考えなくなってしまう自分がいると、まだまだ自分は子供なんだと情けない気持ちになる。
薄暗かったトンネルが段々と明るくなっていく。それと同時に、足元に雑草が見かけられるようになった。マクナイルから来るときは気にならなかったものだ。もしかしたら、ここら辺までの手入れが、ミカフィエルは行き届いていないのかもしれない。出口が近づいてきて、アリスがリリーに待つようにと言う。言われたとおりリリーはそこに立ち、出口の様子を見に行くアリスの背中を見守る。
「誰もいない」
そう言うのでリリーもそちらへ向かう。ミカフィエルに近づけば近づくほど、トンネル内が完全に放置されていることが分かる。雑草は生い茂っているし、落ち葉がひどい。トンネルを抜けて周辺を見ても状態は同じだった。すぐに目に入ってきたのは寂れた煉瓦。振り返ってトンネルを見ると、壁に蔦や苔が繁茂している。頭上には複雑に樹の枝が張っており、足元に枯れ葉を落としていた。トンネルの正面にあった煉瓦造りの建物は、何かしらの倉庫だろうか。アーチ状の入口に、中は混繰で、そこは何も置かれていなかった。そして何かが置かれていた痕跡も残っていないくらいに、埃がちらちらと舞っている。
「なんにもないね」
アリスが言う。全くその通りだった。辺りはまるで静かで、人や動物の気配は微塵もない。自分たちの立たせる音や、風が吹くような音ばかりだ。視界の端に階段を見つけ、リリーはゆっくりと登っていく。閉鎖的な空間から出て、視界がようやく開けたものの、景色の代わり映えはあまりしなかった。灰色の世界。高い建物が多いのは、元々居住地として開拓された土地だからだ。店のようなものも見当たらない。恐らく、高層の建物の中に組み込まれているのだろう。ヘイリーの言っていたとおりだ、観光しに来るにはあまりに物寂しい。
「リリー、あれ」
階段を登ってきたアリスが、向こうの方を指差す。その指の先を見てみると、そこにあったのは看板だった。二人で近づいていって見ると、その看板は異様なことに、周りの寂れて汚れた物とは違い、真新しい木で造られていた。その時点で周囲から浮いてしまっているのだが、何よりも『この先観光地』と矢印が書かれているのが不気味であった。
「観光地、この先みたいだけど」
アリスも同じ気持ちのようで、薄く開いた口から息を漏らす。リリーはその看板の差す方向を見てみるが、何も見物するような場所はない。どこまで行っても灰色で、閑古鳥の鳴くような静けさ。この地帯はすでに捨てられた土地なのだろうか。七年経っているのだから、その可能性は十分にありえる。先に進まないことには何もわからないだろう。
それに、帰ってしまってはここまで来た意味がない。
「行こうか」




