第二話 .Lily
マクナイル城には年に一度、七月上旬に行われる定例行事がある。マクナイル城近衛兵大会と呼ばれるそれは、つまるところの身内試合であり、けして大きな行事ではないが、城下に住む国民は近衛兵のことをよく知っており、これを見に来て好みの兵士に賭けたり応援を寄越したりする。そういうお楽しみもあるにはあるが、一方で近衛兵にとってはかなり重要な意味を持つ。単に近衛兵同士の腕比べということもあるが、勝ち抜き戦で勝ち上がり決勝で勝利すると、近衛兵の隊長を任ぜられるのだ。つまり、姫の側近として働くことができる。この大会は十六歳から出場が可能で、去年のリリーは十六になった途端真っ先に志願した。
――その日、リリーの気合は最高潮と言ってもよかった。優勝する気だった。大好きな姫の横にいられるのだから。お互いに仕事が忙しくなって会うことが少なくなった彼女――シャーリィの横にいられる。リリーはそのために、必死で腕を磨いてきた。
実際、大会では好成績を収められた。最年少で決勝まで辿り着くという、史上初の戦果を収めたのだ。けれど、優勝は逃した。どれだけいい成績を獲得し、皆に褒め称えられようとも、シャーリィの横にいられないのなら、その戦績にはなんの意味もない。
きっと油断していたのだと思う。慢心もしていた。まさかここまで楽々と勝ち上がり、決勝に来られるだなんて、心の底から信じていたわけではなかったのだから、気を抜いてしまったのも仕方がなかったかもしれない。
たくさんの人、王国の姫君であるシャーリィも。さっき勝ち抜いた近衛兵たちもみんなが見ていて、応援していてくれた。
試合の規則は簡単で、有効打を二回、先に討ち取ったほうが勝ち。手や足を使うことも許され、中断はよほどのことがない限り行われない。一本取っても取られてもそのまま続行するというのは、実戦に近づけるという意味が込められている。使うのは竹刀、簡単な防具だけを着用して、試合に臨む。
リリーは今でも思い出すことができる。まるで、記憶の一番新しいところにあるような気さえする。瞼の裏にいつでも映し出すことができる。十五歳の時に入隊して以来、近衛兵としてやるべきことはやってきた。けれどどの記憶よりも、それがもっとも鮮明であった。
決勝、からっとした空気を覚えている。身体の内側はじわりと暑かったが、気分は清々しかった。広い広場に対面しているのは二人だけ、その時は相手がアリスだと言うことを知らなかった。もっと言えば、アリスのことも知らなかった。
対面する相手は凛と佇み剣先を下に向けて、よく落ち着いていた。それに対してリリーは気持ちが逸って仕方がなかった。靴の踵を揃えるように、ずっと足を鳴らしていた。試合開始の合図は唐突で、空砲の音が響くと同時に、リリーは駆けた。相手は動かなかった、きっと合図の反応できなかったのだと思ったリリーは相手の間合いへと一直線に向っていく。だが急に、自分のその体勢が崩れた。理解をするまでに一瞬の時間がかかる。理由は滑稽なもので、相手の剣先がリリーの額に触れただけだった。速さが加わっていたリリーはそれだけで体勢を無様に崩し、よろめいたところを相手の剣がリリーの胴を切り裂いていった。
情けなく、リリーは尻もちをつく。だが、口をぽかんと開けている時間はなかった。追撃を避けるために身体を転がして立ち上がるものの、目の前の敵はリリーが立ち上がるのを待っていたかのように、剣を構え直した。なんの特徴もない、基本的な構え。その剣先がまっすぐ喉元に向ってくる幻覚が見えた。息を呑んだリリーは、今度こそ慎重に間合いを詰めていく。一歩、一歩と近づき、出来る限りの小さな予備動作だけで相手に剣を打ち込もうとする。が、それは相手の小さな動きだけで難なく躱されてしまう。何度も何度も同じやり取りをした。ついに一切当たらないことにしびれを切らしたリリーは頭の上に竹刀を振りかぶった。するとリリーの目には、相手が一回転したように見え、つぎの瞬間には腹部に重い衝撃が走り、身体に自由が効かなくなったかと思うと、身体が宙に浮いていた。背中に地面を打ち付け、リリーは苦しく呻いた。
蹴られたのだ。それに気がついたときには、竹刀の先を頭の上にぽんと置かれていて、試合終了の合図が響いた。
女の目が見えた。じっとそのまま、リリーはその目を見続ける。据わった瞳、リリーはそこから視線を外すことができなかった。会場は静寂に包まれたあと、今までに聞いたこともないような大きな歓声が轟いた。あまりに綺麗な決勝だったのだから、無理もない。リリーは仰向けに倒れたまま、広場に歓声が轟いているなか、動くこともできず、唇を噛んだ。
閉会式も出席せず、失意の中で部屋に逃げ帰り、着ていた防具を脱ぎ捨て、隅で咽び泣いていた。部屋の扉が叩かれても、リリーは無視して俯いていた。しかし扉はリリーの許可なく開く。リリーは慌てて涙を拭おうとしたが、そう簡単に隠せるようなものではなかった。入ってきたのはシャーリィだった。
「……やっぱり、いなくなったから心配したのよ」
そう言いながら、シャーリィは座り込むリリーの横に、同じように座った。彼女のミルクティー色の髪の毛が、床に落ちる。
「……もう、シャーリィの横で仕事ができない」
声が勝手に震える。平静を装おうとしても、感情がそれを許してくれない。
「なに言ってるの、来年だってあるじゃない」
シャーリィは諭すような明るい声でリリーに言うが、リリーにとってその言葉は素直に納得のできるものではなく、励ましにはならなかった。大好きなシャーリィの言葉も、今は無意味に聞こえる。リリーは冷笑気味に答えた。
「見てたでしょ。一年であの人を越せるように見える? もしわたしが相手に一回でも点を取ったならそう言えるかもしれないけど、触れることさえできなかったのに」
リリーは周りの何倍も努力をした。文字通り血が滲むような。リリーはそうして大会に臨んだのだ。だからこそ、その努力の一切は無駄であると、そう嘲るように、リリーは叩きのめされた。一度戦えば分かった。訓練などいくら積んでもあれには敵わない。自分の中の冷静さが、戦っている最中にはもうそれを悟っていた。この人とは圧倒的な差があると。数年で越せるようなものじゃないと。ましてや一年なんて。
「アリス・メイリー。昨晩近衛兵に配属されたばかりなんだって」
「昨晩?」
「お母様が言っていたわ。最近志願してきて、すぐに承諾したって。私たちの二つ歳上って言っていたから、十八よね。もともと国衛軍で研修をしていたみたい」
リリーはそれを聞いて、なおの事これはどうしようもないことだと沈んだ。
国衛軍はマクナイル国そのものの軍隊である。近衛兵は、城の兵隊。そこには大きな差がある。第二の権力と言われるほど、この国での影響力は強い。近衛兵が権力の一つに考えられることはない。国衛軍は武装が許されているゆえに、腕っぷしも問われる。そこで認められていたとなれば、近衛兵など足元にも及ばない。もし、城に敵の大軍が来るようなことがあれば、それは私達の出番ではない。国衛軍の出番だ。そんな場所で認められる十八歳など他にいるだろうか。
「十八でそれだけの腕があるなんて、すごいわよね」
「やっぱ敵わないってことだよ」
「たった十八年で、どれだけの努力をしたんでしょうね」
シャーリィの言葉にぐっと喉が詰まる。
「才能ってのはあるだろうけどね。うん、当然あると思う。一人一人顔も違うのに、好きなものも好きな人も違うのに、能力だけ特別平等なんてことはないわ。でもね、努力する権利は誰にでも平等に与えられている。当然、才能がもともとある人が辿り着いているところに、そうでない人が辿り着くのは大変だと思うし、途方もないと思う。けれど自分を信じていた人は報われるし、諦めた人は報われない。当たり前だと思わない? リリーは、そう簡単に諦める人だったかしら」
ゆっくりと長く言葉を紡いだシャーリィはリリーの顔をじっと見つめていた。リリーもそうしていた。頭の中でいろんな言葉や感情が渦巻いていて、息を吸って口に出そうとした言葉はただの息として出ていってしまう。涙がつと滑り落ちていく。シャーリィは彼女の親指で、その涙を拭って、リリーにぐいと顔を近づけた。リリーの頬を両手で挟んで、泣き笑いのような、まるで誰よりも強い意志を持っているかのような表情でそこにいた。
「リリー、私はあなたを待っているわ。あのアリスという人ではなくて、あなたを。たとえこの髪の毛が真っ白になっても、あるいは、真っ黒になっても。たとえこの顔に皺ができても。ね、待っている私を見捨てないで」
一度拭ってもらった涙が、また溢れてきた。嗚咽を抑えられず、情けなく泣いた。手の甲で拭っても拭っても溢れてくる涙と、口を閉じようとしても出てくる喘ぎを自分で聞きながら、シャーリィが横にいるのを感じながら。
部屋の扉がまた叩かれるのを聞いて、シャーリィは立ち上がった。リリーに微笑みかけると、彼女は何も言わずに、その後に入ってきた人たちと入れ違うようにして部屋から出ていった。
――そのあと、誰かがアリスを連れてきたんだった。きっとシャーリィの言葉を聞く前の自分だったら、その場でアリスのことを追い返していただろう。もしかしたら何か口走っていたかもしれない。でもそうではなくて、何年かかってでも追いつくんだとそう自分に言い聞かせて、アリスと握手を交わしあったのだった。それから一年、アリスとこうして仲良くできているのは、シャーリィのおかげだ。こうして考えてみれば、彼女にしてもらったこと、助けられたことの多さを思い知る。なんとしてでも、アリスに勝って彼女の横に行かなければ。待っている彼女のもとへ。