第十六話 .Lily
懐かしい日の夢を見た。お爺の言葉の意味は分かっていたが、幼心に納得はできていなかったように思える。いろいろなことを知るにつれて、なぜあんな脅しめいた言葉を告げたのかが分かって、そしてそれが、単なる脅しではないということも知った。
この聖域には神聖出産を始めとして、神話に当てはめなければ説明のしようのない事象が多い。いくつかある中でもとりわけ有名なのが、翼であった。それがあれば恐らくはすごく便利だし、現在に名を残しているような天使の大体は翼を有している。だから、ちょうど過去のリリーたちが羨望していたように、憧れる人も少なくはないだろう。
しかし神聖出産に本物の愛が必要なように、翼を授かるためにはなにか一つの代償を支払わねばならなかった。それは声かもしれないし、手足の自由かもしれない。あるいは重い病気にかかってしまう可能性もある。一方で悪いことばかりでもなく、常人には使うことのできない能力を同時に授かったり、なにかの才能を授かることもあると、かつてリリーは文献で読んだことがあった。聖域で興った宗教なども、本来の教祖が翼と共に神託を授かったところから始まったと言われている。
翼を手に入れる事自体は魅力的だ。しかしそのために、その後の生涯を運に任せられる人がいるだろうか。少なくとも、リリーには無理だった。シャーリィがどう思っているか今となっては分からないが、彼女は大人びているし、もう翼なんて考えもしないかもしれない。周りで翼を授かっている人も、その予定がある人も、リリーは見たことがなかった。
リリーは少し寝ぼけながら夢の余韻に浸っていたが、頭を覚ますために「あー」と声を出した。そのままベッドから勢いで起き上がり、近頃城下で流行っている吟遊詩人の歌を口ずさむ。
昨晩はすっと眠りについて、今の今までぐっすりと眠ることができた。太陽の位置を見て、寝坊をしていないことに安心する。
さっさと支度を済ませてから、部屋を出た。少し急ぎ足で、アリスの部屋に向かう。昨日は無断で仕事を休んでしまった。そのことを謝罪しなければならない。いくらアリスと個人的に仲がいいとはいえ、近衛兵の業務はれっきとした職務であり、アリスは自分の上司なのだ。それに、仲の良さを免罪符にしたくはなかった。色々と迷惑をかけたかもしれないのだ。怒られることも覚悟しつつ、頭のなかで何度も謝罪の練習をする。
ぶつぶつと言いながら廊下を歩いていると、不意に頭が重くなった。一瞬何が起こったのか分からなかったが、頭が誰かに掴まれているのだということが分かった時には驚いて、何度も頭を振ってようやく振りほどく。リリーが勢いよく顔を上げて変ないたずらをした犯人の顔を見ようとすると、そこにはアリスがいた。
「あ」
彼女はリリーの慌てようがよほど面白かったのか、腹を抱えて笑いまくっていた。リリーはただ肩を縮こまらせてアリスの笑いが収まるのを待つしかなく、ようやく収まったかと思いきや、また思い出して笑っていた。そんなアリスを見てもリリーは笑う気にはなれず、身長の高いアリスをただ見上げるしかない。
ここで出くわすとは思っていなかった。考えてみれば、彼女は朝早くからターラたちのところへ行って、一日の予定を聞いてくる必要があるのだ。頭のなかで想像されていた謝罪の段取りが一瞬にして崩壊してしまった。リリーは逃げ出したい気持ちを堪える。
「おはよう、リリー」
「あ、お、おはよう……ございます……?」
「あは、なにそれ」
無断欠勤のことが罪悪感になって、まともにアリスの顔を見られないどころか、挨拶すら普通にできなかった。こうなればもう仕方がなかった。ええいままよって、こういう時に使えるんだ。
「あの、アリス。昨日はごめん。調子が悪くて、その、とはいえ無断で休むなんてこと、副隊長としてあるまじき行為だし、それになんかアリスなら許してくれるかな、みたいな甘えみたいなのもわたしの中にあって、そういう精神でいるのも本当によくないし、昨日のうちに謝るべきだったかなとも思うしでも調子が良くなかったのはある意味で本当で――」
何度も脳内で反芻した謝罪の言葉は結局出てこず、無意味な言葉の羅列がべらべらと口から発され続ける。自分で止める方法も分からないほどだったが、恐る恐るアリスの顔を見ようとすると、目の前に手のひらがあっって、リリーは身を固まらせた。
――首が折られる!
その矢先、リリーの頭の上に優しく手のひらが置かれた。
「昨日の夜は寝られた?」
「お、折らない……?」
「え?」
「あっ、いやなんでもないです! うん、よく眠れた……」
そう言うと、アリスは表情を綻ばせた。
「ならよかった」
アリスはリリーの頭を乱暴に撫でると、じゃあ私は行くからとリリーから離れる。少し行ったあと、彼女は思い出しかのようにこちらを振り向いた。背中を見つめていたリリーはびくっと震える。
「リリー、今日も休んでいいよ」
「そんな、昨日の分今日はちゃんとやるよ」
「なに言ってんの。昨日は来たところで、どうせ私が追い返してたよ。いまリリーに必要なのは休息。そして私たちに必要なのは、休息して快復したリリー。分かったね? じゃ」
アリスはリリーにそう言い残して、こちらが何かを言う間もなく去っていってしまう。段々と小さくなっていく背中を見つめながら、リリーは唇を噛んだ。――きっとアリスだって混乱しているはずなのに、わたしだけが休むだなんて。自分が情けない時ほど人の優しさは傷にしみる。
リリーは俯いて考える。もしこれで言うことを聞かずに出ていっても、本当に追い返されてしまうだろう。そして、彼女の計らいに傷を付けることになってしまう。でも、昨日の埋め合わせをしたい気持ちは収まらない。少し考えて、決心を固める。
せっかくもらった休みだ。一日使って頭を働かせよう。




