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Lily in Black  作者: 小佐内 美星
第二章 砂の踊り子
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.Lila

 世界の端にいた。


 比喩でもなんでもない。本当の意味での端。ここから飛び降りれば、下の世界までそのまま落ちていってしまう。そういう意味での端だ。


 背中には立派な翼が浮いている。この日のために、わたしは翼を授かったのだ。生涯を失ってしまうかもしれないという信じられない程に大きな賭けを飲み込んで、たくさんの勇気を振り絞って手に入れた翼だった。だからか、少し愛着が湧いているような気がしたし、頼もしくも見えていた。


 翼を欲した理由は至って単純だった。下の世界、つまりは人間が住まう世界への好奇心。わたしが生まれるよりもずっと昔、天使と人間は争った。という話が残っている。その伝記に書かれていることが本当かどうか、今となっては確認できないし、残っている痕跡もない。そして当然、その時に生きていた人はもう誰一人としていない。しかし天使たちは人間を畏れ、忌み嫌っている。それがわたしにはどうしても不可解だった。話を信じるだけならいい。しかしよもや罪もない人間たちを、下等なものだと言ってしまうのはどうだろう。よく知りもせずに嫌味を吐く天使もその下等なものと変わりないのではないか。姿形だって似ているのに。仲良くするならともかく、嫌い合うのはもったいない。そう思っていた。


 とはいえ、わたし自身にも恐れがないわけではなかった。人間が攻めてきたという話は本当かもしれないのだし、なにより幼い頃からずっと、大人たちに聞かされていたことだから、常識という感覚で、わたしの中には下界に対する恐怖がある。


『人間は悪魔。人間は殺しを愉しむ生き物だ』と。


 大人の言うことを信じて疑わないような初な時期というのは誰にでもあって、わたしにも当然あった。その頃に聞かされた人間の悪口というのは、どうしたってなかなか取れない汚れのようにこびりついてしまっている。


 だからわたしは、自分の信じるものを確かめに生きたいと思い始めた。下に行って、人間が噂通りであれば、それはそれでいいし、また自分が思うように、われわれ天使と同じならもっといい。真実はなんでもいい、納得さえできればよかった。


 聖域の端。ここから飛び降りる。目の前には終わりを知らない夕焼けが広がっていて、連なる雲々がその光りに包まれて、眩しさと切なさの両方を兼ね備えていた。明るいところは何よりも明るく、暗いとこは何よりも暗かった。闇と陽が織り成っている様を見て、胸いっぱいに広がる心地よさを覚えた。何かに遮られずに見える空というのは、こんなにも凄まじいものなのかと、圧倒される。色と雲しかないはずなのに、その光景を見て感じるものというのは果てしない。人智を超えた自然を目の前にして、今一度深く呼吸をした。


 倒れるように、無へ飛び込む。


 身体が浮遊しているのを感じる。周りにあまりになにもないので、ここが空なのかどうかの区別がつかなくなり、いつの間にか落ちているということも忘れていた。頭上の聖域が小さくなっていくのを見てようやく、下に向っているということを確信する。ふと姿を消す聖域。落ちていく。耳を横切っていく風を切る音が、下の世界に落ちていくわたしを非難する声に聞こえて、耳を塞ぎたくなった。目に入ってくる空気が、次第にわたしの瞳を乾かしていって、瞑ると涙が溢れてくる。でもその涙が、それだけのものだとは思わない。拭う。涙は行き場のない雫となって空に浮くと、わたしに置いてかれてしまう。


 ばっと、突然視界に大地が映った。慌てて翼を羽ばたかせ、体勢を整える。近づくまでその存在を認識できないのだ。不思議な現象だった。まるで逃げ隠れるかのようだった。落ちている時間は長くなかったと思う。こんなにも近くにあるのに。


 地上に降り立つと、まずはその光景に息を呑んだ。一面にたくさんの花が咲いている。ふと足元に目をやると、一輪の花を踏みつけていた。足をどけると花はひしゃげてしまっていて、地面にぴっとりと張り付いて潰れてしまっている。


「……ごめん」


 花を拾い上げると、花々の中に放り込んだ。その瞬間に強い風が吹いて、幾ばくかの花びらが散った。それを目で追いかけて、一点に目が止まる。


「――天使」


 ――人が立っていた。時間が止まって、散り散りに舞う花びらが宙に留まる。わたしたちの間をぐるりと廻るように数え切れない花びらと色が包む。やがてもう一度風が吹いて、時間が動き出すと、彼とわたしは見つめ合うようにして固まっていた。


 同い年くらいなんだろうか。身につけている黒い服は何かの制服のように見える。短く切られた黒い髪の毛。聖域では服に黒を使われることが少ないし、黒い髪は見たことがないので、じっと眺めてしまう。しばらく見つめ合った。彼も天使などは見たことがないだろうし、わたしも人間を見ることは初めてだった。その姿形の変わらなさは、わたし達が天使とか人間とか、そういった概念では選り分けられないことを伝えてくる。


「人間?」


 彼はわたしの顔を見つめたまま小さく頷く。ふとその視線がわたしの後方を見たような気がして、わたしもそちらを向く。天使だとばれたのは髪色のせいかと思ったが、それだけではないようだ。わたしの背中にはいまだ、白い翼が付いてきている。翼をばさりと振ると、たちまち糸が解けたように、それは辺りに散らばる。恥ずかしくなって、えへへとはにかんでみた。すると彼も緊張が解けたのか、溜め込んでいた息を吐いた。


「リーラ」彼に近づく。彼の方をしっかりと見て、胸に手を当てて名乗った。なんだか、俳優がするような態度を取ってみたかったのだ。この出会いがあまりにも劇的だったから。「リーラっていうの、わたし」


「淡崎、楓」


 しどろもどろに楓と名乗った男の子と出会うところから、わたしの下の世界での生活は始まった。――気温の高くない夏のことだった。

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