第一話 .Lily
蒸し暑さが恭しく頬を撫でる。柔らかな温度は段々と蓄積されていくもので、耐えられないと気づくころには取り返しがつかなくなっている。それでいて世界は恐ろしいほどに純白の様相を呈していて、誰からも口出しされることのないように佇んでいるのだ。
大きな鐘の音が鳴り響いているのを聞いて、リリー・エウルは目を覚ました。眠い目をこすりながら閉じられたカーテンを勢い良く開くと、朝陽が入ってくるとともに、窓の向こうに城下町が望める。城の入り口に立つ近衛兵の姿、陽光に当てられる広場。ぐっと身体を伸ばすと、眠気が飛んでいくような感覚がした。
リリーはベッドから下りて洗面台へ向かう。顔を洗って、薄着のまま廊下に出て、自室に鍵をかける。まだ陽が差し込んでいない静かな廊下を歩いて行く。靴裏に感じる柔らかい絨毯、初夏を匂わせるじわりとした暑さ、窓の外を見ながら歩く。眼下には使われない裏庭、草花が生き生きと茂っていた。
しばらく歩くと、マクナイル城近衛兵専用の更衣室が見える。ここの鍵は夜勤の近衛兵が着替え終わった時に閉められ、朝の解錠を任されているリリーが鍵を開けるまで、開くことはない。重い扉を押して中に入ると、乾いた空気がリリーを出迎えた。
――聖域には三つの国が存在している。マクナイル王国はそのうちの一国であり、リリー・エウルが住んでいるのがここである。ミカフィエル共和国、神聖エール教国とが存在し、それぞれは天にまで届くような壮大な山脈を国境にして別れている。リリーはここマクナイル王国のマクナイル城や、その城下町で警備をする仕事を請け負うマクナイル城近衛兵として働いていた。
自分用の戸棚から制服を取り出すと、できるだけすばやくそれに着替えた。夏には少し暑いが、純白を基調とした制服のことは気に入っている。ワンピース型の制服。あまりひらひらとしないスカートに足を通して、その素足を隠すようにソックスを履く。ボタンを閉め、腰の上にベルトを巻き、短剣を差し込んで、全身鏡を見つめた。
身だしなみに問題はない、顔色もいいし、身体に痛いところもない。いつもどおりだ。そう思ったけれど、前髪が少し伸びてきているような気がする。リリーは気になって、前髪をちょんと摘んだ。
リリーの髪は産まれた頃から綺麗な銀髪だった。他の天使と同じ銀髪。天使の生まれつきの髪色は、銀色の率が高い。次点で金髪が多く、髪の薄いおじさんを含め、聖域の天使たちは陽に当たると頭が眩しい。
肩まで伸ばしたショートヘア、髪の先はすっと下に向いている。きれいな銀髪だとは、自分でも思う。そう、前髪の左側を除けば、基本は同じなのだ。
そこにだけ、生まれつきひと束の黒い髪が生えている。前髪全体に生えているのではなく、指で摘んでしまえるようなひと束だけ。しかしそれだけであっても、煌めく銀色の毛の中に黒い毛が生えていると浮いてしまう。他に黒髪を生やしている天使は見たことがないし、おそらく聖域を探し回ってもわたしだけなのだろうと思う。
問題は、恥ずかしいだとかそういうことではなかった。もちろんそれもなかったわけではないけれど、聖域において黒という色が、悪魔の象徴とされていることが厄介な問題なのだった。基本的な色なので染色に使われるようなことは当然あるが、好んで使うような物好きはいない。悪魔の象徴で、さらに野蛮だと信じられている人間たちにも黒い髪が多いことから、今となっては面と向かって言われるようなことはなくなったけれど、リリーは恐れられたり貶められたりするようなことが、昔からしばしばあった。
言われることが少なくなったのは、自分自身が気にしなくなったということもあるだろう。どうしても自分に劣等感を抱いてしまう時期というのは誰にでもある。顔立ちや、体型、果ては声や家柄までもそうで、当然リリーにもそういう時期があったし、いまも完全にその強迫観念に似た考えを断ち切ったわけではないと思う。しかしとりわけ髪の色については、気にしなくなった。気にするなと言われたし、もし自分の髪を卑下にしてくるような輩がいたら、私がなんとかしてあげると、大好きな友人に言われたから。
実際、幼いころ、わたしが言われているところを目撃した彼女は、リリーとその輩の間に立ちはだかって、強く言い返してくれたのだった。それを繰り返すうちに、髪の毛のことを憂うことはなくなった。
着替えを終えたリリーはまた廊下に出て、今度は城の入り口へ向かった。城が大きいので当たり前だが、城内の廊下はそれぞれが長い。何かと考え事をしているリリーにとっては苦痛というわけではなかったが、急いでいるときなんかは鬱陶しく感じるものだった。
巨大な城はその入り口も大きい。早朝なので人は少ないが、日中は城で働く人やら国民やらで賑わっている。扉が備え付けられてはいるのにあまり閉じられることはないのは、一般の人々も自由に出入りすることができるからだ。大浴場、食堂、図書館、あらゆる施設が解放されていて、これらを利用するために訪れるのはもちろん、中庭や広場で遊ぶために子供たちが来ることもある。城は広大なマクナイル王国の高い位置に存在しており、登るには三百段の階段を利用しなければならないが、それでもほぼ毎日、賑わっている。何よりも国民が大事に思っているのは、女王に時間がある時であれば、謁見して話をすることができるというところだろう。
リリーは外の眩しさに一瞬目を細めたが、慣れてくると玄関口に立つ近衛兵を見やった。彼女もまたこちらを見ていて、二人で軽い挨拶を交わす。
「今日も早いわね」
夏も近いので太陽は完全に顔を出しているが、時刻は早朝だ。
「お疲れ様です、大丈夫でしたか」
「うん、何事もない。いつもどおりね」
いつも優しそうな表情をしているお姉さんのような存在。彼女は夜勤のチェリだ。リリーとは一回り歳が離れている。そんな彼女と共に、リリーは数段の階段を降りた。そこには広場が備えられていて、朝はここに近衛兵達が集まり、朝礼を開く。
一番下の段に二人して座り込むと、チェリが眠そうにあくびをした。
「夜勤、つらくないですか?」
朝になって気が緩んだのか、うとうととしている彼女の姿を見ているとそう思ってしまう。近衛兵の仕事はけして多くない。夜勤であろうと昼勤であろうと、やることと言えば『城や城下を警備する』だけ。リリーはそれらを見回る役割はあるけれど、それでも他の組織のように仕事はなく、暇ができてしまう。ここマクナイルでは犯罪と呼べるような犯罪は盗みが一番大きいようなもので、そのほかにこちらから言い咎めるようなことは、ちょっとした喧嘩のようなものしかない。城でなにかをしようだなんて考える人はそもそもいないし、リリーは近衛兵になって二年ほど、見たこともない。何も起こらないのに、何かが起こらないように見張る。大事なことなのだろうけれど、やり甲斐があるかと言えば首を縦に振ることはできなかった。リリーには目標があって続けられている。けれど、他の近衛兵はみながそうなのではない。仕事のことをどう思っているのかと、ふと考えたのだった。
「私は休んでもすることがないから。何か適当なことでも考えていれば、夜なんてあっという間に更けて日が登ってきて、リリーちゃんが起きてくるわよ。その点、リリーちゃんは真面目にやってて感心するわ。ねえ、今日よね」
リリーは「今日よね」と聞かれて、神妙に頷いた。彼女の言葉に、自分で緊張するのが分かる。チェリもまた、リリーのその目標を知っているのだった。
目標。それは、近衛兵の隊長となること。とは言っても、リリーは隊長になって近衛兵という組織をどうこうしたいわけでもなく、皆をまとめる指揮官になるつもりもない。もし仮に自分が近衛兵の隊長になることができたら、そういうことはそういうことが得意な人に任せるだろう。リリーの目標は単純な欲望だった。近衛兵の隊長になる。そうすれば、マクナイルのお姫様の側近として、警護にあたることができるのだ。それがリリーにとって、これ以上なく魅力的なことなのだった。
今日はその、いわゆる試験のようなものがある。何度も頭の中で考えていたはずなのに、気持ちがまだ追いついていない気がしている。その一方で身体は強張って緊張していて、このちぐはぐさをどうしたらいいのか分からなかった。
「応援してるからね」
「はい、がんばります」
チェリの応援を胸に、リリーはすくりと立ち上がる。すると、鐘の音がまたマクナイルに響き渡った。特別な行事がある日に鳴る大きな鐘の音。リリーは今一度気持ちを引き締めていると、鐘の音に起こされたかのように、ぞろぞろと他の近衛兵達が顔を見せ始めた。みな思い思いに挨拶を交わしたり談笑したりを始め、リリーもまた手を挙げて挨拶をしてくれる人たちに会釈で返す。
少し遅れて、この近衛兵隊長がやってくる。彼女――アリスは、チェリの横に立っているリリーを見て、眠そうな顔で手を顔の横でひらひらと振った。リリーから声をかけに行く。
「おはよう」
「ん、おはよ。元気そうでよかった」
アリスはほわっとしたあくびをもう一度だけして、むにゃむにゃしながらリリーに微笑んだ。彼女の歳は十九で、リリーの二つ上だ。リリーよりも少しだけ短い金髪、もみあげは耳の後ろに掛けて、前髪は適当に流している。彼女は、美人というよりも、綺麗といった方がしっくりくると思う。その表情には強気な性格が見え隠れするようで、さっきリリーにしたように安心するような微笑みも持っているが、無表情でいるとものすごく冷たい印象を受ける。今はまさに無表情で、近衛兵たちのことを見ていた。
「今日、憂鬱でなんていられないよ」
アリスの横顔を見つめながらリリーがそう言うと、背の高いアリスはリリーを見下ろして不敵に笑みを浮かべた。
アリスは、誰よりもリリーの努力を知っている。彼女に出会ったのは一年前、彼女に出会った日、リリーはひどい屈辱を植え付けられたのだ。今でこそいい理解者ではあるが、その屈辱を植え付けたのは、紛れもなく、このアリス・メイリーなのだった。