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赤い人力車の男

作者: 三井葉介

  京の町が紅く染まっている。

 正確には街路樹の木の葉がその色を変えているのだが、町が赤いと言っても過言ではない。

  紅葉は真っ盛りを迎えていた。さらに人々の喧騒が町に華を添える。

  大声で客を呼び込む八百屋、笛を吹き鳴らす豆腐屋、時間を忘れて談笑する婦人達、急ぎ足で駆けて行く運び屋。

  老若男女の声と足音で満たされた町の活気は、秋の肌寒さを吹き飛ばす。


 慌ただしく行き交う人々の間を、紅く着飾ったもみじが舞い踊るように落ちてゆき、静かに地に落ちた。

  一人の少女が学生服の裾を抑えながら、葉を拾い上げ、凝視する。裏返し、細い指で葉脈をなぞる様に撫でる。


「綺麗な葉っぱやねえ」


 少女の背後から仕立て屋の婦人が声をかけた。少女はぱっと振り向いて、その目に婦人の姿を認めた。

  おそるおそる唇を動かし、喉から声を絞り出したが、結局「そうですね」と返しただけだった。


「お嬢ちゃんは…あんまり見いへん制服やね」


 婦人が微笑みながら言った。婦人は鮮やかな紫の着物を着ていて、小太りで色が白く、愛嬌のある女性だった。少女は、「はい、その」と少しどもって、


「今日着いたので」


 とやや硬い声色で言った。少女は初対面の相手に緊張していた。婦人は優しい調子で少女と話を続ける。


「一人で来たん、どっからや」


「はい、家は北陸の田舎に」


「こっちに親戚がいはるん?」


「いえ」


「ほな、観光かいな」


 婦人の問いに、少女は少し目を泳がせて、


「そんな感じです」


 と言った。

  婦人は「へぇ」と感心の声を上げた。

  少女が北陸から京都まで一人で。汽車を使ってか分からないが、人並みの行動力では出来ないことだった。


 あの、と今度は少女が婦人に語りかけた。


「うん?」


「人力車に乗ってみたいんです。どこで乗れますか」


 婦人は人力車の停車場への行き方を丁寧に解説してやった。馬車が主流のこの時代、人力車業は衰退しているが絶滅した訳ではない。

  京の町にはまだ人力車がちらほらと見受けられた。


 少女は婦人に礼を言って、その場を去ろうとした。


「お嬢ちゃん、一つ覚えといてや」


 足を止めた少女に、婦人がにこりと笑いかける。



「『赤い人力車に気をつけて』」


 

 ◇

 


 『赤い人力車』の話は少女の既に知るところだった。

  噂は流行病のように、京都から少女の田舎へと伝わっていた。

  人力車は少女の故郷にもあった。噂に敏感な若者たちは人力車を見るなり話題にしていたものだった。

 

「京都には赤い人力車が走ってるのよ」


「車輪も屋根も全部真っ赤なのさ」


「人力車に乗ったっきり行方不明の人が何人もいるらしい」


「間違えて乗ったが最後」


「地獄に連れてかれるんだって」

 


 ◇

 


  この少女もまた、噂好きの若者の一人。素敵な怪談話を聞けば、怖いもの見たさに好奇心が揺すられる。

  少女はつい数分前の婦人の警告を無視して赤い人力車を捜した。


 少女は乗り場から乗り場へ渡り歩き、町を走る人力車を眺めた。

  身一つの見慣れない少女が徘徊しているので、町の人々が何度か少女に声をかけた。少女はその度に自らの人見知りな気性を抑えて、自分はただの観光客であると説明しなければならなかった。


 椅子の座布団が赤い人力車はざらにある。

 しかし車体の赤い人力車には、どの乗り場でも出会うことは叶わなかった。

  所詮、噂話。

少女には、

  婦人の忠告も観光客を喜ばせる歌い文句だったように思えた。


 日が沈みかけて、空がもみじ色に染まっていた。少女は河原沿いの道を歩いていた。

  川面が夕日を受けて輝いている。赤とんぼがすいすいと少女を追い越してゆく。

  急に少女の体に疲れが押し寄せて、少女はその場に座り込んだ。ふつう馬車で行く距離を歩いた足は、これ以上酷使されることを拒んでいた。


 どこからともなく、カラカラという乾いた音と、砂利を踏む足音が聞こえてきた。

 音はだんだん少女の方に近づいて、止まった。

 少女が顔を上げると、夕日を遮る真っ黒な車体が目の前に現れた。座っている少女の角度からは、ひどく大きく見えた。

 車を引いていた車夫は傘帽子を外した。人力車を引いている割に細長い男で、座り込む少女を見てあっと驚いた顔が純粋さを伺わせた。男が遠慮がちに口を開く。


「大丈夫ですか」


 少女は座ったまま頷いた。それを虚勢と受け取ったか、元々そうするつもりだったのか。

 男は、

「もう営業は終わりですけど、良かったら乗ってください。お金は要らないですから」


 と握っていた柄を下ろした。

  そして車の後ろから小さな踏み台を出すと、乗れと言わんばかりに車の前に置いた。

  元々少女は持ち金が少ない。車夫にそこまでされては少女も断る理由が無かった。少女は重い腰を上げて立ち上がり、ありがとうございます、と会釈をしてから人力車に座った。赤い座布団がちょうど良い柔らかさで心地良かった。

 男は再び車の前に立って、柄を持ち上げた。少し首を少女の方に傾けて、


「どちらまで」


 と尋ねる。少女は数秒考えた後、


「この町で一番安いお宿へ」


 と答えた。男は、分かりました、と言いながら傘帽子を被り直し、


「おれと同じですね」


 とくすくす笑った。車夫らしく、人懐っこい人だと少女は思った。


「揺れますよ」


 男の声と共に、人力車はゆったりと動き始めた。車輪がカラカラと軽快な音を立てて回りだす。

 からす色の人力車が、人気のない夕暮れの町を進む。遠くで鈴虫が鳴いている。

 涼しい風が吹いて、車夫の紺色の法被がはためいた。

 

  人力車に揺られて十五分は経っただろうか。周りの景色はますます人気がなくなって、山道に入っていた。

  日は沈んで、空には星が瞬き始めていた。

  男は出発してから、時折訪れる揺れを忠告する場面でしか喋らない。少女も口数が少ないので、ほぼ無言のまま時が過ぎていた。


「お宿、結構遠いんですか」


 少女が初めて自分から口を開いた。


「もう少しです」


  男は少女を励ましてか、元気よく応えた。

  少女はこの車夫がだんだん可哀想に思えてきた。

  代金も貰えないのに、この男は少女を乗せた人力車を連れて、山道を歩いている。

現金以外で何か報酬になるものは無いかと、少女は学生服のポケットをさぐった。すると手に何か硬い物が当たったのでそれを取り出して、掌を広げて見た。

  桃色の和紙に包まれた飴玉だった。

  しかし少女は飴玉よりも気になるものがあった。飴玉を載せている自分の手のひらが黒く汚れている。少女は煤を広げたような汚れをまじまじと見た。何かに触れた時に付着したらしかった。

  少女はふと人力車の手すりに目をやった。漆黒の塗装から、霞んだ赤が露出していた。


 少女は飴玉をポケットにしまい、何食わぬ顔で人力車を引いている男の背中に目をやった。そして一度唾を飲み込み、意を決して再び男に声をかけた。


「お兄さん」


「はい、なんでしょう」


 男は息切れ一つせず、流暢に応える。


「赤い人力車の話、知ってますか」


「ええ」


 少女の問いに、男はあっさりと頷いた。


「赤い人力車に乗ると、地獄へ連れてかれるって。最近じゃ、お客さんは皆その話をされますよ」


 少女は男の言葉に戸惑った。もしこの人力車が噂の赤い人力車だったとして、どうしてこの車夫はこうもあっけらかんとしているのだろうか。

 しかし、少女の好奇心は止まらない。戸惑いを振り切って少女は言った。


「あの、お兄さんの人力車も、赤いですよね」


 男は珍しく返答に迷ったか、しばらく何も答えなかった。

 その間にも人力車はカラカラと音を立てて山道を進んでいく。

  数秒黙り込んでから、男は口を開いた。

 


「一人で逝くのが、怖いんです」

 


 少女は男の言葉を聞いて、黙ったままだった。もう少し男の話を聞きたいと思った。

 背を向けているから、少女には男の表情が読めない。男はそのまま話を続けた。

 

「神様に、おれは地獄行きだって言われて」


「地獄って、どんなところですか」


「すごく怖いところです。おれは一人で逝きたくないから、誰か一緒に行ってくれる人を探しているんです」


「天国へはどうしても行けないんですか」


「ええ。おれは昔盗みをしました。英雄のように人命を救いでもしなければ、天国へは行けないでしょう」


「行方不明になってる人は、お兄さんが殺したんですか」


「殺してはいません。皆を人力車に乗せて、仲良くなって。おれは連れて行きたくなってしまう。けれど皆、おれの話を聞いたら、おれを嫌いになる。だから一緒には来てくれない」


 そりゃそうだ、と少女は心の中で呟いた。男は先程まで無口だったのが嘘のように話すことをやめない。

  少女は静かに、男の話に耳を傾けていた。


「行方不明になった人は、おれに連れ回されていた時期に、一時的に行方が分からなかったのでしょう。今はちゃんと家族の元に帰っているはずですよ。けれど、おれは期待してしまう。誰かが一緒に来てくれるんじゃないかって。そして、おれは明日には地獄へ行かなければならないんです」


「神様の命令ですか」


「そう、神様の命令です。だからおれは誰かを殺して、力づくでも連れて行きたい」


 不意に男が人力車を止めて、振り向いた。

 両者の視線がかち合う。

 男は不敵に目を細めた。

 片腕が、ゆっくりと少女の方へ伸びる。


「おれは今夜、貴女を殺して地獄へ…」


 

 男の腕が伸びたまま、空中で静止した。

  少女はその手を見つめて、目を瞬く。


「怖くないんですか」


 男は苦笑して腕を下ろす。少女は返答に困った様子で、少し逡巡した後、「はい」と答えた。

  男の大根芝居では、喋れば喋るほど事の信憑性が欠けていくようだった。また少女がきく。


「噂は、観光客を喜ばせるための作り話ですか」


「そう率直に訊かれると困りますねえ」


 男は少女から背を向けて、人力車を押し出した。再び車輪の規則的な音が鳴る。


「うちの作る人力車は元々真っ赤なんです。派手なほうが目立つからってことでしょうね。これが結構人気で、繁盛したんですよ。と言っても、もう十年くらい前の話ですが」


 男は事の真相を語り始めた。少女の好奇心を掻き立てた噂は所詮おとぎ話であった。

 しかし今、その本当の姿が明かされようとしている。

 少女は、自分だけが真相を知ることが出来るという新たな好奇心を抱きつつ、男の話を聞いていた。


「うちが売れたら、今度は普通の黒い人力車の会社が嫉妬しまして。そこの人間が赤い人力車の売上を下げようと企んだんです。そのための小細工が、怪談話。それだけの話です」


 男はさもつまらなそうに語った。少女も壮大な話を期待していた訳ではなかったが、ただの商売敵同士のいざこざが原因とは、余りにも拍子抜けだった。


「今じゃ、こうやって赤の人力車に黒の塗装を施してやってるんです。噂が広まりすぎて、赤色の人力車じゃ商売になりませんからね。相手側も、ここまで広まるとは思っていなかったでしょうが、おかげでうちは塗装代がかかって仕方がない。塗装は剥がれますから、作り直したものもあるんです。大赤字ですよ」


 男は嘆息した。少女は黙って、見飽きた山道の景色を眺めていた。ぴゅうと冷たい風が吹いて、木々がざわめく。


「蹴落として儲けようなんて、汚いですよね」


 男の呟きは少女の耳に届いていた。

 少女は、商売なんてそんなものだ、という言葉を押し殺した。木の葉の音に遮られて聞こえなかったというふりをして、何も応えなかった。


 それから少しの間沈黙が続いた。

  数分もすれば男が「着きました」と足を止めて柄を下ろした。しかし人力車の周りは木々が取り囲むばかりで建物らしいものは見えない。人力車の黒が溶け込むほどの夜闇が辺りを包んでいる。


「少し歩きますよ」


 男は踏み台を少女の足元に置いた。少女が人力車を降りると男は台をしまい、「こっちです」と藪の茂る方へ進んでいった。少女は男の後に続いた。

 数歩進めば開けた芝生に出て、少女は男の肩越しに背の低い木造建築を見た。点々と窓から光が漏れている。ここが男の言う宿らしい。

 男に続いて宿に近づくと、その古さが伺い知れた。木材は傷だらけで、窓にもところどころヒビが入っている。

 男は玄関の引き戸を開けた。ガラガラとやかましい音が鳴る。内装はお世辞にも広いとは言えないが、靴箱や勘定台に艶があり、よく掃除されていた。

  二人は靴を脱ぎ、靴箱へ入れた。靴下で床に上がると、ひんやりとした感触が足裏に伝わる。


 「ごめんください」と男が声を張ると、奥から床をきしませて、小柄な老女が現れた。老女とは言えど足腰は丈夫なようで、杖無しでしっかりと立っていた。


「はいはい、お二人さんね。二階の奥とその隣が空い

 とりますから、そこに入ってくださいよ」


 言いながら、老女は勘定台からメモを取り出して、何やら記した。

 男は「分かりました」と応えて階段を上がって行く。少女も続いた。

  宿の廊下にはほとんど灯が無く、二階は暗かった。

  部屋の前に来ると、男は少女の方を向いた。暗くて男の顔は見づらかった。


「お嬢さん。また明日」


「はい。今日は有難うございました」


「どういたしまして」


 少女に微笑してから、男は「そうだ」と何か思い出して続ける。


「明日、朝になったら人力車で山を降りますから、置いて行かないでくださいよ。それから、良ければ町を案内させてください。代金は頂戴しません」


 男の言葉に、少女は目を丸くした。


「悪いですよ」


「いいえ。これはおれの我が儘ですから」


 男のきっぱりとした言葉に、少女はそれ以上抵抗出来ずに「そうですか」と曖昧に応えて、学生服のポケットを探った。飴玉を探り当てると、遠慮がちに腕を伸ばして差し出した。


「せめてものお礼です。受け取ってください」


 男は頷いて、「ありがとうございます。お腹が空いたら頂きますね」とそっと飴玉をつまみ上げた。


「明日、朝餉を食べたら下へ来てください」


 頷いた少女を見て、男は「では、おやすみなさい」と告げて部屋へ消えた。

  少女は無欲な男にある種の危うさを感じていた。男は決して裕福には見えないが、彼の親切は、彼自身を苦しめてはいないだろうか。

  少女は男が入った部屋の襖を眺めながら、「おやすみなさい」と呟いた。



 ◇

 


 木の葉の間からちらつく朝日が、きらきら輝きながら少女の横を通り過ぎてゆく。

少女は再び人力車に乗せられていた。上り坂だった昨夜に比べて、今朝は山道を下っているので車輪の回りが速い。顔に受ける風が涼しかった。


「町に下りたら、どこへ行きましょうか」


 男の声は心なしか昨晩より元気があった。まるで彼が観光に行くようだ。


「お任せします」


「そう言うと思っていました。大船に乗った気持ちで、任せてください」


 ふわりと男の法被が風をはらんで翻る。少女は男の後ろ姿を眺めながら、存外広い背中だなと思った。

 

 二十分もすれば町に着いた。町は昨日と同様に活気づいている。この町に居ると、もうすぐ冬が来るということを忘れてしまいそうだった。

 少女を乗せた人力車は、何度か他の人力車とすれ違った。少女は紅葉で色づいた京の景色を楽しんでいた。


 やがて、男が人力車を止める。少女が人力車から降りると、そこは大きな鳥居の下だった。空の青に、鳥居の赤が映える。

 男は帽子を車にかけて、「お参りして行きましょうか」と足を進めた。

 二人は一緒に鳥居をくぐり、石の参道を通って境内を見て回った。

幾百年の歴史を経た荘厳な社殿が、どっしりと少女を待ち構えていた。

  お賽銭は二人で一円ずつ、賽銭箱に投げ入れた。軽い一円玉は、擦れるような小さな音を立てて落ちていった。鈴を鳴らして、少女は手を合わせ、目を閉じた。時が止まったような沈黙。


 目を開けた少女は、ふと男の方を見た。彼はとっくに参拝を済ませたのか、背後からこちらを眺めていた。少女は男の元へ駆け寄った。


「綺麗な神社ですね」


「そうでしょう。人の行き交いも少なくて、おれのお気に入りですよ」


 少女は男の言葉を聞きながら、無意識に自分の手で腕をさすっていた。

  男は自分の紺色の法被を脱いで少女の肩に掛けた。

  守り神のように佇まう社殿が、去ってゆく二人を見送った。



  神社を出て、人力車に揺られること数分。次の目的地に着いた。

  店先に椅子が並べられて、数人の客が茶菓子を食べながら談笑していた。のれんには大きく『甘味』と書かれてある。

男は少女を降ろして、店内に招き入れた。少女を椅子に座らせ、傘帽子を脱いで隣に置く。そして何やら店員に注文して、少女のもとに帰ってきた。

  手には白い皿に乗った串団子が二つ。

  男は少女の隣に腰掛けて、一つ手に取って少女に渡した。小ぶりな三色団子だった。


「可愛いでしょう。味も良いですよ」


 男が桃色の団子を一口で食べて見せる。少女も真似をした。もちもちとした食感と、桜のほのかな香りが口いっぱいに広がる。ゆっくり噛み締めて味わえば、何かとても贅沢なものを食べている心地がした。


「おいしいですか」


 少女は頷いた。


「なによりです」


 男は満足気だ。


「お嬢さん」


 また男に声をかけられて、少女は白い団子に齧り付こうとしていたのを止めた。男は微笑して、


「おれたち、友達だと思いますか」


 と尋ねた。少女は目を瞬く。


「お兄さんは、友達にもそうやって喋るの」


 今度は男が目を丸くする番だった。


「いや」


 男は咳払いをして、


「団子、美味しいな」


 と白い団子に齧り付いた。


「うん」

 少女が笑った。


 二人はいたずらに時間をかけて、ゆっくりと小さな三色団子を食べ進めた。

 


 ◇

 


 その後も二人は観光を続けた。旧跡を巡り、紅葉狩りを嗜んだ。しかし楽しい時間は短いもので、気づけば空に橙色が掛かり始めていた。


  男はふと人力車を止めて、水筒が空になったので水を汲んでくると言った。少女は人力車に座ったまま、男の帰りを待っていた。見渡すと、自分が見覚えのある通りに来ていた事に気づいた。


「あら、お嬢ちゃん」


 声の方を見ると、前方から紫色の着物を着た婦人がいた。先日の仕立て屋の婦人だった。少女は人力車から降りて会釈をした。婦人は少女の傍へ来て、少女の顔を覗き込むように見る。


「お嬢ちゃん、昨日そこの河原で一人で歩いてたってほんまか」


 まるで帰りの遅くなった子供を諭すような口調だった。少女は「はい」と答えた。

  あの日の少女を見て、少女に声をかけた人々の誰かが、この婦人に話をしたのだろう。町は広いようで狭かった。


「あそこ、あんまし一人で通らんほうがええよ。人気ないやろ。昔に人が殺されたんよ」


 少女はその話を聞いても「そうなんですか」と頷くことしか出来なかった。


「とにかく、あんまり一人で出歩かんときよ。お宿がないんやったら、私んとこ来たらちょっと働いてもらう代わりに、寝床はあげるで」


「ありがとうございます。困った時が来たら、お邪魔します」


 婦人の親切に、少女は丁寧に頭を下げた。婦人が店内に下がるとほぼ同時に男が帰ってきた。


「仕立て屋のおばさんと話してたのか」


「知ってるの」


 男は頷いた。


「いい人だよ。世話焼きだけど。この町で何か困ったら、あの人に相談すれば何かしら助けてくれる」


 男が踏み台を出し、少女の足元に置く。少女は人力車に腰掛け、男は傘帽子を被り、柄を握った。少女はこの一連の動作がこれで最後になる気がして、羽織っている紺色の法被を無意識に握り締めた。


「もうお宿に行くの」


「その前に、もう一箇所だけ」


 

 ◇

 


 終わらない一日など無い。

 京の町にも、夕暮れが再び訪れていた。

 辺りをオレンジ色が包み、川が夕日を照り返す。二人は出会った河原沿いの道を歩いていた。

 視線を下げれば、地上で憩う龍のような、立派で静穏たる水流が視界に広がっていた。

 

人力車は道を曲がって、川を跨ぐ橋を渡った。

 橋は円柱の木材を組み合わせて作られたもので、車輪がガラガラと音を立てた。

 橋の真ん中まで来ると、男はおもむろに人力車を止めた。

  男は柄を下ろし、傘帽子を脱ぐ。

  踏み台が出されると、それが合図かのように少女も人力車を降りた。

 男は手すりにもたれて眼下の水流を眺めた。少女は男の隣で、その横顔を見つめていたが、男は難しい顔をしたまま何も言わなかった。

 少女は目線をずらして、男の横顔越しに無人の黒い人力車を見た。あの人力車も、最早少女の友達と言っても過言ではなかった。

 少女は川面を見下ろした。川岸の両側の所々にもみじが立っている。紅葉が鏡のように川面に写って幻想的な風景を創り出していた。


「こんなに楽しいのは久しぶりだ」


視線は川を眺めたまま、男が呟いた。


「私も」


 少女は男の横顔を見つめながら答えた。


「ずっとこんな日が続けば良いのに」


「私も、そう思う」


 少女と男の目が合う。少女には、男の瞳が夕日のオレンジを宿して輝いて見えた。男にもまた、そう見えているはずだった。


「一緒に来てくれるか?」


「どこへ」


 一瞬の静寂を、流れる水音が満たした。



「地獄へ」



 その瞬間、突風が吹いて少女は思わず腕で顔を覆った。

 唸るような風音が辺りを支配する。

 やがて突風が収まり、少女は腕を解いた時、どこからともなく、小さな赤が舞い降りるのを見た。

 もみじの葉だった。

  少女の目は吸い寄せられるようにもみじを目で追った。

  一枚のもみじは、風に弄ばれて、火の玉の如く不規則に降下し、人力車の屋根に落ちた。

 少女は目を疑った。

 人力車は燃えるような赤をしていた。屋根、車輪、椅子、柄の全てが、夕日にも負けぬ濃い赤を纏っていた。


「おれはここで死んだ」


 少女の間近で声がした。いつの間にか、目の前に男が立っていた。


「突き落とされた」


 少女を見下ろす目は、悲しみとも怒りとも言えぬ、強い感情を宿していた。

少女は見たことのない男の表情を目の当たりにして、言葉が出なかった。


「本当なんだ」


 少女は「え」と小さな声を漏らした。


「おれは今日、地獄に」


「私は、地獄なんて」


 少女の声が震えていた。


「分かってる。連れて行かないよ」


 男は苦笑した。そして「騙してごめん」と呟いた。

 その時、人力車のある方角から、橋が木材の一本一本に分解して、ばらばらと崩れた。木材は遥か下の川へ叩きつけられ、激しい水しぶきを上げる。

少女はそれを目の当たりにして初めて、この橋が昨日は無かった事に気づいた。崩落は徐々に進行して、こちらへ迫っていた。


「会社同士の小競り合いは嘘。怪談話が本当の話だ」


「嘘」


 少女の目には涙が浮かんでいた。


「本当だ」


「嘘!」


 少女は絶叫した。ぽろぽろと涙がこぼれて法被に落ちる。少女は何か話そうとするが、嗚咽に遮られて叶わなかった。


「最初は、君も連れて行くつもりだった」


 男の声も微かに震えていた。


「けど、出来なくなった」


 崩落が進んで、とうとう人力車がバランスを崩して落ちていった。一際大きな水しぶきが上がる。


 少女の脳裏に、この二日間の出来事が走馬灯のように浮かんだ。男の驚いた表情。世を憂う呟き。優しい声色。広い背中。彼の隣の暖かさ。明日も傍にあると思っていた幸せの、その全てが永遠に奪われようとしている。


「行かないで」


 少女がしゃくり上げながら訴えた。涙をたたえた強い眼差しが男を捉える。男は指で少女の涙を拭って、微笑んで見せた。


「ありがとう」


 男は少女の方を見たまま、一歩一歩後退し、両腕を広げて地獄へと続く水底へと吸い込まれていった。


 辺りを元の静寂が包む。

 橋の崩落は少女を目の前にして止まった。変わらぬ水流の音と、少女の嗚咽だけが取り残された。

 


 ◇



 生きている限り、朝は平等に訪れる。

 清々しい秋晴れが町を照らして、朝露を乗せた草花が輝いている。町の一角の小さな仕立て屋は、開店前の準備を終えて、一時の暇を持て余していた。


「おばさん、少し出かけて来ますね」


 店先で、紺色の法被を着た少女が呼びかけた。少女は片手に、和紙で包装された一輪の秋桜を抱えていた。


「はいよ、開店時間には戻ってきいや」


 店の奥から婦人の声がして、少女は「はい」と答えて店を出た。


 少女はあの後、一人で呆然と町を歩いているところを婦人に引き取られた。紫色の着物の、例の婦人だった。少女は今後婦人の家で暮らすことを決め、代わりに仕立て屋で働くことになっていた。


 少女はあの川原に来ていた。昨日の橋は跡形も無く消えていた。

 川原を降りて、水際まで歩く。

 昨日かかっていた橋があったであろう場所にしゃがみこみ、そっと献花した。

そよ風に撫でられた秋桜の花弁が、肌寒そうに震えた。

静かだった。

 川面を一枚のもみじが流れてゆく。


 遡ること、十年前。ここで事件があった。

 被害者は、ごく普通の人力車稼業を営む真面目な男だった。

 犯人は男から金を奪って男を突き落とした。川は餌を撒かれた巨大な鯉のように、男の命を飲み込んで流れ去った。目撃者は居たが助けに入ることは無かった。

 事件以後、橋は別の橋の建設に伴って取り壊された。

 これは少女が婦人から聞いた話だった。


 少女は目を閉じ、手を合わせて黙祷した。そして祈った。


 ――天国へいっても、私のことを忘れないで


 

 ◇



 私は田舎から逃げてきた。

 家、学校、友人。全部が嫌で、苦しくて、耐えられなかった。この世界の全てが私の敵なんじゃないかとさえ思った。

 世間は私に真面目で優しくあることを求めるのに、この世界ではいつも真面目で優しい人が損をする。

 それは受け入れるべきなのだろうか。私の心が弱いのだろうか。甘いのだろうか。こんなことではこの先、生きていけないのだろうか。


 私にはきっと、生きる才能がない。


赤い人力車の話を聞いて、私はこんなに素敵な話は無いと思った。

法律と無縁の幽霊が、喜んで私の命を地獄へ連れて行ってくれる。

私は僅かな稼ぎを、赤い人力車に出逢う為に投資することを決めた。もし出逢えなかったら、大人しく自分の手でこの命を終わらせようと決めていた。

私は死ぬために京都に来た。

 

 けれど予定が狂ってしまった。狂わせたのは皮肉に も、赤い人力車の男だった。

  彼は無償で私を人力車に乗せて、私を騙して、連れ回した。

  一緒に神社でお参りをして、美味しい団子を食べて、とりとめのない話をした。

  隣に人が居るということが、こんなにも暖かいなんて知らなかった。いつの間にか私は明日を望んでいた。彼とまた会える明日を。

 彼は私の命を救って消えた。

 ご丁寧に居場所まで紹介して。だから彼は地獄へは行けない。

 

 彼は私を友達と言った。私もそう思う。けれど少しずれていると思う。


 もし、今も彼が傍に居たとしたら、私は。


 その先は考えてはいけない気がした。

 彼は確かに、私の友達だった。そこに間違いは無い。


 

 ◇

 


 少女は黙想を止め、目を開けて立ち上がった。

 すると、くしゃっという紙の擦れる音がした。少女は法被のポケットに手を入れた。手に紙のようなものが触れて、そっと取り出した。


 桃色の小さな正方形の和紙。


少女が男にあげた飴の包み紙だった。少女はなんとなくそれを裏返してみる。

 小さな手書きの文字が、端正に並んでいた。

 

 

 ――君が好きだった

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] ツイッターから失礼します。 現世に残る彼は霊。霊なのに地獄へ招き入れられない優しいギャップに心温まりました。 霊を怖がりそうな少女ですが、ここに登場する少女は好奇心があり度胸もある、だか…
[良い点] ・怪異譚好きとしてはかなり好感度高かったです。 ・京の町の描写が綺麗です。 ・一回怪談であることを否定しといて、あとで回収しなおす手法は短い文中で見事でした。 [気になる点] ・恋愛経験…
[良い点] 怪談がキーワードに入っていたのでホラー要素があるお話なのかな、と思い乍ら読んでいたのですが、予想を良い意味で裏切って下さり、温かい物語でした。切ないというよりは、諸行無常の儚さを感じました…
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