言葉や行動の齟齬とひと悶着
ライジーアの常識では『否』だ。レイノルズは次期伯爵位を継ぐ、れっきとした子爵。側仕えがいるのに、彼が使用人のような真似をする必要がどこにあるのだろう。
レイノルズは、なにかにつけ「面倒くさい」と言いながら、甲斐甲斐しくライジーアの世話を焼く。その反面、突き放すように話し、ひねくれた言い回しや冷たい一言を向ける。
「わたし、全部真に受けていたけど……よく考えたら変じゃない?」
言葉と行動がまるで嚙み合ってないように思える。
ライジーアの知るレイノルズではない。少なくとも、二年前までの寛容な優しい彼では。
「二年前になにかあったのかな……」
人格が変わるほどの、『なにか』。
ライジーアの知らない、『なにか』が。
これまでもなんとなく、おかしいな、と思ったことはあった。
ただ婚約破棄した直後から関係を断っていたので、変化を不審に思いながらも、追究は避けてきた。
冷たくされるようになったのも、「大嫌い」な相手なら仕方ないのか、と悲しくも納得していた。
「でも本当に嫌いなら近づかないし、無視するはず。わたしなら無関心になるかも」
だけどレイノルズは違った。彼はライジーアの近くにいて、彼女のことをよく見ていた。
去年の社交界を思い出す。
いつかの夜会では、殺気を浴びせられ、追いかけられ、侮辱された。あのときの腹立たしさと悔しさはいまも忘れていない。
「あのときも意地悪だったけど、助けてくれたし……」
考えれば考えるほどわからなくなって、しまいには頭が痛くなってきた。
ライジーアは途中で考えるのをやめた。自問自答したところでなにも解決しない。
……明日、レイノルズに直接訊いてみようかな。
二年前になにかあったのか。
答えてくれないかもしれないが、そのときはそのときだ。
そう決めた途端、気持ちが楽になったライジーアは、レイノルズの上着を脱いで寝間着に着替えた。脱いだ上着はきちんと畳み、机に置く。
それから借りた本を持ってベッドに横になる。眠気がさすまで読むつもりだった。頁を捲ると、あちこちに読み跡がついている。きっと繰り返し読んだのに違いない。
……すごく勉強してるんだ。
それは記憶の中のレイノルズに重なる。
同じ本を読めることがなんだか嬉しくて、つい遅くまで読み耽ってしまったライジーアだった。
塔生活八日目の、翌朝。
ライジーアの身支度が済んだ頃を見計らったかのように、レイノルズが現れた。そして彼女の顔を一目見るなり、すうっと眼を細めた。無言で角灯を持ち上げ、重みを測る。
「……徹夜はするな、と言ったはずだが?」
「してません! でもごめんなさい!」
徹夜はしてないけど、夜更かしはした。
油の減り具合から見破られてしまう、と思ったら案の定で、ライジーアは怒られる前に謝った。
だがレイノルズは許してくれず、「今朝はデザート抜きだ」と無情な判決を下す。
「ひどい! 横暴!」
「自業自得だ。さっさと顔を洗え。ほら、桶。しっかり持てよ。私は食事を取ってくる」
ライジーアの抗議など歯牙にもかけず、レイノルズは水の入った手桶を彼女に手渡すと、昨夜の湯浴みに使った盥を持って出ていきかけた。
その背中に向かい、ライジーアが呼びかける。
「待って、昨夜借りた上着を返すから」
「まさか、着て遊んだりしなかっただろうな?」
僅かにからかいを含んだ声。おそらくレイノルズは冗談のつもりだったのだろう。
ところが図星を突かれたライジーアは瞬間的に真っ赤になり、「え!?」と息を呑んでうろたえる。
思わぬ反応にレイノルズはまじまじとライジーアを見た。
「……着たの?」
「……ちょっとだけ」
白状させられたライジーアは、「ごめんなさい」と詫びて付け足す。
「でも湯浴みした後で裸の上に着たから、大丈夫。汚してないよ」
ライジーアとしては、正直に告白して弁解と許しを求めたつもりだった。
だがそれを聞いたレイノルズは、信じられないものを見る眼でライジーアを捉えた。うっすらと頬を染め、ギリッと奥歯を噛みしめて言う。
「なにが大丈夫だ。……男をからかうな」
レイノルズは他にもまだなにか言いたそうだったが、湧き上がった激しい感情をねじ伏せるように唇をきつく結び、盥を持って出ていく。足運びがいつもより乱暴だったため、縁から跳ねた水が床にこぼれた。
その後、結局、上着は返却不要と突き返され、ライジーアの私物になってしまった。
その日の会議も激しく論戦が繰り広げられた。
ライジーアはレイノルズと一五分交代で速記に集中する。
ひたすら打ち込み、一声も漏らさず記録する。このときばかりは、雑念は欠片もない。
消耗は依然激しいものの、だいぶ慣れてきたので効率は上がっている。文字を起こす処理時間が段々と短縮されてきたのがその証だ。
昼食はとにかく気まずかった。
ライジーアが朝の上着の一件を改めて謝ると、レイノルズに、「蒸し返すとは、なかなかいい度胸だね」と氷点下以下の寒々しい笑顔を向けられた。
その場で凍結するかと思った。それくらい怒り滾った冷笑だった。一目で臆したライジーアは、黙りこくって食べることに専念する。彼女にしてみれば、ちょっとした出来心だった。ほんの戯れで着てみただけなのに、こんなに本気で嫌がられるとは思わなくて、落ち込んでしまう。
レイノルズはレイノルズで、ひんやりした笑顔をそのままに、終始無言で給仕をする。
とてもではないが、「二年前、なにかあったの?」なんて繊細な話を切り出せる雰囲気ではなく、ライジーアは縮こまり、ビクビクしながらレイノルズの顔色を窺う羽目になった。
そんな憤怒に満ちた沈黙と険悪な空気にどっと気疲れした休憩後、会議が再開。
忌憚のない意見がガンガン飛び交う。
ライジーアとレイノルズは気力を駆使し、無心で速記する。
一六時でお開きになり、疲れ切った出席者たちがぞろぞろと部屋に引き上げていく。
すぐ下の階では、料理人たちが夕食の準備を始めたようだ。側仕えたちは会議終了と同時に動き出し、担当の賓客をもてなすため、お茶やお菓子の用意を急いでいる。
螺旋階段を忙しなく行き来する足音を聞きながら、ライジーアとレイノルズは黙々と議事録をまとめた。
余談を挟まず、コツコツ進めた作業は順調に捗り、一八時過ぎには終わった。
ライジーアはホッと一息ついた。上着の件などコロッと忘れて、レイノルズに話しかける。
「今日は早く終わったね」
「君の手際が多少ましになったからな」
レイノルズの嫌味も、言葉と行動が一致してないと気づいた今は、あまり腹が立たない。
……どうして変わったの、って訊いてもいいかな。関係ないって、突っ撥ねられるかな。
ライジーアが質問をためらっていると、そこへ、二名の側仕えを連れたスウィンが現れる。
スウィンは手にコルク栓をした小瓶を持っていた。ライジーアの前まで来ると瓶の栓を抜き、中の物を器用そうな指で摘み出す。
「ご苦労さまぁ。今日も頑張ったわねー。はい、ご褒美。あーん」
ほとんど反射で「あーん」したライジーアの口は、向かい側に座っていたレイノルズの掌で強制的に塞がれた。