私は君に心を捧げる
レイノルズは叫んだ。
「ジア!」
小さな身体から、真剣な瞳から、真摯な想いが伝わってくる。
突然、レイノルズの中に巣食う怪が、身動ぎするのが感じられた。初めての奇妙な感覚に怖気が走る。
……なん、だ?
レイノルズの注意がライジーアから逸れた。ぐうっと、嘔吐したい衝動に駆られる。寸前で堪えたものの、憑依されている実感が襲ってきた。悍ましいことに、なにかが腹の中で暴れている。
そのとき、強風が吹いた。
ライジーアの「わ」という短い呟きを聞きつけて、弾かれたようにレイノルズは彼女を見た。華奢な身体が風に煽られ、斜めになって、今まさに落ちようとしている。
……だめだ、死なせない。死なせるものか!
「ライジーア!!」
レイノルズとアズウィンの絶叫が重なり、ほぼ同時にダッと駆け寄って、宙を泳いでいたライジーアの腕を掴み、思い切り引っ張る。勢いが強すぎたため、三人もろとも、ひっくり返った。
「あの、二人共、大丈夫……?」
おずおずとした声に、レイノルズは我が身の異変などちっとも顧みず、必死の形相そのままで、ただただライジーアを案じて抱きしめた。
なんとか救助が間に合ったことを神に感謝し、ライジーアが無事だったことが嬉しくて、レイノルズはほぼ衝動的に彼女の唇に自分の唇を押しつけていた。
意識して及んだ行為ではない。
だがキスした瞬間、レイノルズを侵していた怪がずるりと抜け出て、一気に身体が楽になった。
ああ、解放されたのだ。と思った。
逆転の呪縛を解く、唯一の方法――相思相愛の相手との、キス。
自由の身になった今、ライジーアの心が自分にあると信じられる。
「……ジア、私のジア……」
レイノルズは腕の中のライジーアにキスの雨を降らせた。愛情をこめて、一つ一つ、口づけを贈る。額や瞼、目元、右頬、左頬、鼻のてっぺん、顎、耳、それからもう一度、唇に。
ライジーアはキスするごとに熟していって、とうとう真っ赤になる。恥じらって、ちょっと涙目になっている顔がものすごく可愛い。
レイノルズはそんな色っぽいライジーアを誰にも見せたくなかったので、アズウィンから見えないように彼女の頭を肩口にのせて、深く息を吐いて懇願した。
「……君を失うかと思った。頼むから、もう二度と私のためにこんな真似をしないでくれ」
黙って去ればいいものを、空気を読まないアズウィンがライジーアに説教する。
それでも『災厄』から逃れることができたのは、アズウィンの協力あってのことなので、感謝を込めて礼を述べたのに、あろうことか、ライジーアに余計なことを吹き込み始めた。
むかついたので、「虫がいたから」と適当な建前を翳して追っ払ってやる。
冷たい仕打ちの代わりと言ってはなんだが、労働で恩を返そうと思う。……ものすごくこき使われそうだが。
二人きりになった途端、ライジーアが逃れようとしたので、レイノルズは腕に力を込めた。
「あの……は、離して?」
離さないよ?
「可愛いから嫌」
レイノルズがにっこり微笑んで言うと、ライジーアは「か……」とその先が続かない。
可愛くて、ほんのり色気が漏れていて、柔らかくて、いい匂いがする。手加減しないと、抱き潰してしまいそうだ。
レイノルズはライジーアの頭のてっぺんにチュッ、と軽くキスした。
幸せをかみしめて、触れるだけの唇へのキスで、そっと伝える。
……君に、私の心をあげる。
命は君と共に。
今言葉にしても、雰囲気に流されただけ、と受け取られかねないので、責任を取る準備が万全に整ってから告げようと誓う。
……そうだな、挙式後の初夜の前など、どうだろう?
まあその前に、祝宴の席で最愛ケーキを花嫁に食べさせてもらうという、一大イベントがあるわけだが。それも楽しみだ。とても楽しみだ。
いや、なによりもまず結婚の許可をもらうため、誠心誠意、非礼を謝罪しないといけない。一度婚約破棄を申し出た身だ。事情があったとはいえ、半端な姿勢では許してもらえないだろう。
などと、レイノルズがやや暴走気味にこの先の展望をあれこれと考えていると、ライジーアが水を差してきた。
「結局、『災厄』ってなんだったの?」
ライジーアを怖がらせるのは不本意だったが、訊かれた以上、答えるのが筋だろう。
レイノルズは詳細を省いて、できるだけ簡潔に説明した。
すると話を聞いたライジーアは「なんだか可哀想だね」と同情的だ。レイノルズは彼女の優しいところは大好きだったが、とばっちりを受けた身としては、嘘でも同意などできない。
改めて、レイノルズはライジーアに心から謝った。一生かけて償うと言うと、「ふふっ」と笑われる。
「仲直りね?」
「君が許してくれるなら」
「もちろん許すよ。だってレイは悪くない。被害者だもの」
危うく、泣くところだった。
ああ、なんて彼女は心が広いのだろう。
もし立場が逆だったら、私は同じことを言えるだろうか?
答えは一秒で出た。無理だ。ライジーアと別れるくらいなら、あらゆる手段を使って阻止に走る。婚約破棄など許さないし、逃げられないよう手を尽くす。
……そう考えれば、『災厄』の犠牲になったのが自分だったのは不幸中の幸いだったのか。
いや、そもそも、もしお互いの立場が逆だったら、逆転の呪縛など稼働しなかったかもしれない。たぶん、可愛くないことを言う口は、すぐにレイノルズが塞いでいただろうから。もちろん、唇で。
しかしその場合、あの悍ましい怪異がライジーアに侵入するということで、それは断固として許しがたい。
……やはり、不幸中の幸いだったのだ。
だが、もう二度とごめんだ。
レイノルズは溢れる想いを言葉にのせて言った。
「今、私はとても嬉しいんだよ。最高に気分がいいんだ。なぜかわかる? あの化け物から解放されただけじゃない。君が私を好きって言ってくれた。てっきり君には嫌われたとばかり思っていたのに――まだこんな私を想っていてくれたなんて、信じられなかったよ。ありがとう、ジア」
ライジーアは泣き出した。抱きしめると余計に涙が止まらなくなったようで、涙で濡れた眼や、しわくちゃな顔に愛しさが込み上げる。
しばらく経ってライジーアが落ち着いた頃、レイノルズは「求婚を受ける」と告げる。時間はかかるかもしれないけど、必ず迎えに行く旨を伝えると、彼女から「ずっと待ってる」と嬉しい答えが返ってきた。
「ありがとう。君の最愛ケーキを食べられる日が、今から楽しみだな」
他に目移りしないでね、と遠回しに念を押しておく。
するとライジーアは可愛く照れながら約束してくれる。
「えへへ……が、頑張って、おいしいケーキが作れるように練習しておくね」
この一言で、レイノルズの本気に火が点いた。
……なにがなんでも婿入りしてやる。
最初の婚約では、ライジーアが嫁入りする予定だった。彼女は一人娘なので、爵位は二人の間に生まれた子供が息子であれば養子に出して継がせ、レイノルズの後継は第二子以降の子供に任せる方向で決着がついていた。
しかし今となっては、ライジーアを嫁にくれと言ったところで、突っ撥ねられるのは眼に見えている。様々な条件を付加しても、ライジーアを嫁に出すことは認めないに違いない。
……私が父親の立場だったら、絶対にそうする。
なにせ、あんなに可愛いのだ。手放したくないに決まっている。
レイノルズは悪い顔になった。あらゆる条件を突きつけられても、すべて呑む覚悟で臨む。
幸い、切り札もある。
これはまだ公になっていないが、レイノルズには弟ができた。二〇歳も年は離れたが、正真正銘、父と母の子供。念願の第二子だ。おかげで実家は赤ん坊一色、両親も使用人も弟に夢中である。
……実家は弟に任せる。
自分はライジーアの家を継ぐ。
これでも幼い頃から領地経営を学び、アズウィンの側近として公爵家にしごかれてきた身だ。たいていの男は返り討ちにできると自負している。おそらく既にライジーアの婿として何人かの候補者がいるだろうが、誰であろうと、押し退けてやる。
その上で、認めてもらえるよう、努力しよう。
レイノルズは目の前のライジーアに微笑みかける。いつまでもこうして抱き合っていたいが、夜も更けた。これ以上は彼女の名誉に関わるので、残念だが部屋まで送って行こう。
柔らかい笑顔を浮かべるライジーアと手を繋ぐ。温かい、小さな手。思わず顔が綻ぶ。
「ジア」
昔のように、愛称を呼べる幸せ。
レイノルズは万感の想いを込めて、ライジーアの額に優しく口づけた。
「愛してる。私の最愛」




