世話役は譲れない
それから五日間、ライジーアは仕事に没頭した。その集中力は凄まじく、レイノルズも呆気にとられたほどだ。速記者として優秀、と評判に違わず、二日目にはアズウィンの補助もいらなくなる。
脇目もふらず資料を読み漁り、出席者たちを掴まえては声質や話し方の癖、発音など記憶し、清書は教えた通り一糸乱れぬ文字で、議事録は完璧に仕上げる。
レイノルズはここに至るまでのライジーアの努力を思って、胸が熱くなった。一度やり始めたことは、一途に頑張る彼女のことだ。妥協を許さず、どこまでも真剣に学んだのだろう。そうでなければ、こんな熟練の書記のような仕事はできない。
……君のこういうところが好きだよ。
健気で、ひたむきで。
……口に出しては言えないけれど。
一心不乱に過去九年分の議事録を読み耽るライジーアの小さな背中を見つめ、切なく焦がれる想いを注ぐレイノルズの横で、アズウィンが無粋なことを言う。
「いいな」
「なにが」
「ライジーア嬢。今回限りの代理にするには惜しい。ぜひ、今後とも協力してもらいたいな」
……そう言い出すと思った。
レイノルズは思いっきり嫌そうな顔でアズウィンに眼を遣った。
長い付き合いだからわかる。一度こう言い出したら、よほどの事情がない限り、後には引かない。
「むりやりはよせ」
努めて冷静に牽制しておく。アズウィンは軽い調子で応じる。
「わかってる。本人の意思を尊重した上で、然るべき対応をさせてもらうよ」
やり手のアズウィンに眼をつけられたとも知らず、ライジーアはひたすら黙読した。
寝食を惜しむライジーアが心配で、レイノルズはあれこれと世話を焼いた。
食事をしようとしないライジーアの口元へ、一口大にちぎったパン、細切れにした肉や魚、野菜をゆっくりと順に運んで食べさせる。
湯浴みの手伝いはさすがに無理だったので、せめて顔だけでも、と温めた浴布で目元や額、頬、鼻筋、顎、と順に拭く。ライジーアはむずかったが、かまわず続けた。
就寝時間をだいぶ過ぎても一向に眠ろうとしないので、強制的に文書を没収し、着替えを命じる。ベッドに参考資料を持ち込もうとしたので、それも没収し、寝かしつけた後、角灯の火を消す。抗議の声が上がったが無視した。
無茶して身体を壊しでもしたら、本末転倒だ。自分が傍についていながら彼女が寝込むなど、あってはならない。
そんな具合にレイノルズは付きっきりでライジーアの面倒をみた。
書記としての務めとアズウィンの側近としての役割。二重の仕事に加え、ライジーアの世話があれば時間などいくらあっても足りない。レイノルズはとても忙しかった。
見かねたアズウィンから、「部屋の掃除くらい、側仕えに任せればいい」と言われたが、断る。
「ジアをよく知りもしない赤の他人の手に委ねるなんて、できない」
するとアズウィンは、「まるで子煩悩な母親のようだね」とからかうように笑ったが、レイノルズがクソ真面目な調子で「悪いか?」と言い返したら、絶句していた。
……どう思われてもかまうものか。ジアのためなら、なんでもする。
そんな気持ちで彼女を支えながら、五日間が経った。
ライジーアは我に返った瞬間、この五日間の記憶がないと言ってうろたえたが、レイノルズが動じなかったので、おとなしく食事を続けた。厨房へ料理を取りに席を外した隙をついて、アズウィンがライジーアに余計なことを話したようで詫びと礼を言われる。
……そんなに申し訳なさそうな顔をしないでくれ。
迷惑だと思われなければ、それで十分だ。
言葉にこそできないが、レイノルズは好きでライジーアの世話役を買って出ている。
実際のところ、自分がしなければ他の誰かがやるわけで、それは少し考えただけでもざわりと胸が騒いだ。形容しがたい黒い感情が這い上ってくる。
ただでさえ、この狭く窮屈な、閉鎖された塔に突如現れた、若く可愛いライジーアは注目の的だった。アズウィンが「彼女は私の知人なんだ」と暗に『手出し無用』を宣言してくれなければ大変なことになっていただろう。主にレイノルズが。
「レイノルズ様! 湯浴み用の湯を運ぶぐらい、俺がやりますよ」
「いえ、それは私が。側仕えの仕事ですから」
そう声をかけてきたのは、どちらも真面目で仕事熱心な男たちだが、如何せん、若い。おまけに塔に来てまだ日も浅く物慣れていないライジーアを心配しているのか、チラチラと様子見をしていることを、レイノルズは知っていた。
レイノルズは湯を張った大きな盥を持ちながら、二人に微笑みかける。
「ありがとう。気持ちだけいただいておくよ」
逆転の呪縛がなければ、「不用意に近づいたら、ただではおかないよ」とやんわり脅し文句を言えたのに、残念な。
……本当に油断も隙もない。
ムカムカしながらライジーアの部屋に戻れば、驚いたことに、彼女が泣いていた。
レイノルズは「なにかあったの?」訊こうとした矢先、ライジーアに「こっちに来ないで」と拒まれてしまう。
ライジーアが「顔を見られたくない」と言うので、レイノルズは上着を脱ぎ、彼女の頭に被せた。顔を見ないように横抱きにしてベッドまで運ぶと、混乱した口調で「わたし、重たいのに!」と叫ぶ。
……重いわけがないだろ。君一人ぐらい、その気になれば担いで走れる。
だが案の定、口をついて出た言葉は正反対で、レイノルズは内心頭を抱えた。女性に対し「重い」と言うなど罵詈雑言のなにものでもない。男として、恥である。
……くそっ、またか。これじゃあますます嫌われる。
だったら口を利かなければいいものを、と思うのだが、ライジーアの傍にいると、それもなかなか難しい。どうしてか、優しい言葉をかけたり、触れたり、構いたくなるのだ。
なにをされるのかとびくびくするライジーアに「足を貸せ」と告げ、やや強引にではあったが、彼女の足を湯で丁寧に洗ってやる。最初は怒っていたライジーアも徐々に落ち着きを取り戻す。
……もし困ったことや辛いことがあるなら、私に話してほしい。自分だけで抱えず、頼ってくれ。必ず君の力になるから。だから、一人で泣かないで。
そう慰めたい気持ちも、やはりひねくれた言葉に変換される。
ライジーアはなんて思っただろうか。よくは思わなかったに違いない。涙を流して泣くほど辛く、悲しんでいるというのに、「泣かれると面倒くさい」なんて冷たく突っ撥ねる男、誰だって嫌うに決まってる。
レイノルズは自分に嫌気がさした。恥じる気持ちでいっぱいのままライジーアの部屋を出る。
……とうにわかってはいたが、この呪縛は心を抉る。
感情とは真逆の言葉を強制される屈辱。苦しみ。この憤りをどう晴らせばいいのかわからない。
……陰惨な呪いだ。
先に待つ結末は、悲劇しか想像できない。それもすぐ間近に迫っている。ライジーアは遅くとも来年の誕生日を迎えるまでには、新たな婚約者を決めているだろうから。
レイノルズは荒んだ心境で残っていた仕事に始末をつけると、倒れるように眠った。
翌朝、ライジーアが起きた気配を見計らって洗顔用の水を汲み、桶を持っていく。使用した盥を片付けようとしたとき、貸した上着を返すと声をかけられた。昨夜の去り際の気まずい空気を思い起こされるのが嫌で、つい「着て遊んだりしなかっただろうな?」と軽口を叩くと、ライジーアの顔が真っ赤になった。この反応にはレイノルズの方が驚いた。
「……着たの?」
「……ちょっとだけ」
恥ずかしそうに頬を赤らめ、眼を伏せるライジーアが愛くるしくて、微笑ましい。
ここまでなら、まだ耐えられた。
だが続きがあり、信じられない台詞が返ってくる。
「でも湯浴みした後で裸の上に着たから、大丈夫。汚してないよ」
一瞬、頭が真っ白になった。
理性や自制心がどこかに吹っ飛んで、ライジーアの白い裸身と、素肌にぶかぶかだろう自分の上着を着用した姿を想像してしまい、悶絶する。
―ーなんだ、それは!? 可愛すぎるだろう!? 私を殺す気か!?
抑え難い劣情を催して、一気に顔が火照る。
……まずい。まずい。まずい。めちゃくちゃに甘やかしたい。
レイノルズは人格崩壊寸前の危ういところで踏み止まり、無防備にしょぼくれるライジーアを涙目で睨み、「男をからかうな」とだけ注意した。
上着は「返却不要」と突き返す。
……少しもったいなかったか、とチラッと思ったことはレイノルズだけの秘密だ。