届かない心
遡ること五日前より、レイノルズは領地経営を学ぶため、両親の地方視察に同行した。
帰路を急ぎ、丘陵地帯を二頭立ての馬車で走行している途中、天候が急変する。暗雲が垂れ込め、細い雨がポツポツ降り始めたかと思うと、あっという間に本降りになった。雷も二度、三度と轟音を響かせ、時折白い稲光がカッと弾ける。
母は怖がって父に縋りつき、父は懸命に母を宥める。
刻々と夜が近づくにつれ、風はごうごうと勢いを増す。道がぬかるみ、馬車の速度も落ちる。
ひどい嵐の中、御者が小窓を開け、強張った声で大声を上げる。
「旦那様! 道に人らしき影が」
「なに?」
レイノルズは父と顔を見合わせた。半信半疑だったが馬車を止めるように指示を出す。車窓から確認したところ、黒いフード付きのマントを被った男女不明の人影が道の端に蹲っていた。御者が声をかけても動く気配がなく、この悪天候では手綱から手を放すわけにはいかない御者に待機を命じて、レイノルズが馬車を降りた。
外は思った以上に暗かった。御者台に吊るす角灯の小さな灯りがなければ、なにも見えないほどだ。雨も激しく、たちまちびしょ濡れになる。
「そこの方、どうしました? 具合でも悪いのですか?」
レイノルズが怯えさせないよう、声をかけながら近づく。
「私はこの土地の領主の息子です。怪しい者ではありません。お困りでしたら、手を――」
お貸しします、と続けようとした声は途切れる。
ゆっくりと振り返った人影は、ぽっかりと眼窩の空いた黒い髑髏だった。
「キャアアアアアッ」
車窓から外の様子を窺っていたのだろう、レイノルズより先に母が絶叫した。
即座に、レイノルズは逃げようとした。本能的に「これはまずい」と思った。恐怖よりも戦慄を覚える。肌が粟立ち、ざわっと不快な悪寒が全身を走り抜けた。
「近寄るな!」
鋭く罵声を浴びせ、飛び退こうとしたレイノルズの心臓めがけて、髑髏は風を切って襲ってきた。黒い歯に噛みつかれる、と覚悟した瞬間、胸に激突した黒い髑髏が吸い込まれるように消えた。そして黒のフード付きマントを下から押し上げ、体形を保っていた物が崩れる。見たくもなかったが、恐る恐るマントを摘み、その下を見てしまう。
禍々しい、黒い骨が散乱していた。
レイノルズはぞっとして馬車に引き返し、一部始終を目撃した御者は狂ったように馬を走らせた。
母は失神していて父に抱えられ、父は恐怖を隠しもせずにレイノルズを見て訊く。
「大丈夫か」
問われても、答えを返せなかった。ただ「大丈夫」ではないことは確実だった。
「屋敷に戻ったら、すぐに医者に診てもらいなさい」
レイノルズは鷹揚に頷いたものの、医者で解決する問題ではない、と感じていた。
あのとき、確かに黒髑髏はレイノルズの身体の中に侵入したのだから。
夜半過ぎ、屋敷に戻ったレイノルズは入浴の際に胸元を見て衝撃を受けた。
「……なんだ、これは?」
心臓の真上に、黒い噛み跡のような痣がくっきりと浮き出ている。
大概のことには動じないレイノルズも、不気味に思う。今のところ痣以外の異変はないが、不吉な未来を暗示するようで、とても嫌な気分になった。
医者の診断結果は異常なし、だったが、残念ながら異常はあった。父の命で数日間様子見をしたところ、ふとした拍子に言葉が乱れる。大概は普通に話せるのに、どういうわけか、時折心にもないことを喋って、母や父を愕然とさせた。
レイノルズは父と相談し、もしかしたら他にも異常が発覚するかもしれないと考えた。それが万一にもライジーアに悪影響や危害を与えたら、と思うと、非常に不本意ながら、しばらく会わない方が互いのためだと結論づけた。
……ジアの顔を見られないことは寂しいが、仕方ない。
なんとか社交シーズンが始まる前に解決策を見つけないと、この口の悪さではあっという間に噂が立ち、地道に築き上げてきた評判も地に落ちる。それは避けたい。
そこで、レイノルズは両親と共に、挙式に関する話し合いの延期申し込みと当面会いに来られない事情を説明するため、ライジーアの元を訪れた。
「いらっしゃい、レイ!」
型通りの挨拶を済ませた後、ライジーアはレイノルズを見て喜びの笑顔を向けてくる。
惚れた欲目なのか、会うたびにライジーアは眩しくなっていく。レイノルズを見つめる瞳は恋する少女そのもので、一途さと純粋な好意がキラキラと溢れている。
……クソッ。こんなに可愛くて、大丈夫なのか?
思わず心配になる。
結婚するまで誰にも見せず世間から隠しておきたい、というのが偽らざる本音だ。
……一日も早く結婚したい。
そのためにも今は会うのを辛抱し、この異常な状態をなんとかしなければならない。
レイノルズはまずは自分の気持ちを伝えてから、一言詫びようと思い、口を開いた。
ところが、口を突いて出てきたのは「婚約を破棄したい」という真逆の台詞だった。
「私と婚約解消してほしい。……心変わりしたんだ」
レイノルズは耳を疑った。
……は? なんだって? 今の言葉は、私が喋ったのか!?
目の前ではライジーアが呆然としている。
「……心変わり? だ、誰か、他の人を好きになったの?」
……違う! そんなわけがあるかっ。
レイノルズは心中で叫ぶ。だが信じられないことに、心とは正反対の返答をする。
「そうだ」
ライジーアの大きな瞳に薄い涙の膜が張る。
「嘘よ」
……嘘に決まっている! 信じるな、ジア!!
しかし無情にも口が勝手に動く。
「本当だ」
ライジーアがうろたえる。今にも涙がこぼれそうだ。
「わ、わたしのこと、もう好きじゃなくなった?」
……そんなわけがないだろう! 君が好きだ。誰よりも、誰よりも、私は君が好きなんだ!!
必死にそう訴えようとしたレイノルズだが、紡がれた声は残酷な言葉を吐き出す。
「そうだ。……君のことが、大嫌いになったんだ」
ライジーアは真っ青になり、信じられない、という顔をした。可哀想なくらい震えながら、小さく首を横に振り、裏切りを責める眼でレイノルズを凝視する。
……違う。誤解だ。信じないでくれ。私は君を裏切ってなどいない。
そう叫びたいのに、叫べばきっとまた心にもない台詞に変換されると思うと怖くて、レイノルズは二度と口を開けなかった。
ライジーアの眼から大粒の涙がボロボロと溢れる。とても傷ついた様子で、彼女が叫ぶ。
「――上等よ。大嫌い? あ、そう。いいわよ、婚約解消するわ。浮気男なんて、こっちから願い下げよ! たったいまこの瞬間から、わたしだって、あなたなんて大嫌いよ!!」
レイノルズは最愛のライジーアから拒絶され、絶望感で目の前が真っ暗になった。
掌に爪が食い込む。血が滴ったが、拳を解くことができない。
……こんなにも、好きなのに。誰よりも大切に想っているのに。
気持ちが届かない。
―ーそしてこの日を限りに、二人の婚約は破棄された。