初恋の爪痕と女王陛下の依頼
ライジーアはしばらく泣き暮らした。食事がとれなくなり、労せずして痩せた。ほとんど無気力状態で、なににも関心が持てず、なにもかもが億劫な、そんな生活だった。
レイノルズと別れて間もなくライジーアは一六歳になり、無事社交界デビューも果たしたが、華やかな王宮の大広間でデビュタントの一人として主役を張っても、少しもときめかなかった。むしろつまらなくて、「早く終わればいいのに」と考えていた。
欝々としたまま現実逃避し、気がつけば無心で勉強に励み、あっという間に一年が経つ。
一七歳になったライジーアは、二度目の社交シーズンを迎えた。
両親の勧めで出席を促されたお茶会や夜会、舞踏会に渋々ながらも出席する。まったく気乗りはしなかったが、新しい結婚相手を見つけるために。
貴族社会では、女性はデビューから三度目の社交シーズンを終えるまでに結婚するのが良いとされる。即ち、タイムリミットは一八歳だ。それを過ぎたら、もれなく『売れ残り』とレッテルを張られる。それは外聞がよくないので、皆なんとしても期限内に相手を見つけようと必死だ。
だがライジーアはあまり真剣になれなかった。理由の第一に、しばらく恋愛はこりごりと思っていたし、第二に、認めるのはものすごく癪だが、出かける先々でレイノルズと遭遇し、そのたびに振られたときの腹立たしさが蘇り、とてもにこやかに社交を楽しむ気分ではなくなるのだ。
……まだ胸がちょっと痛いなんて、気のせいなんだから。
ごまかしきれない恋の傷を抱えるライジーアにとって、社交シーズンは苦痛だった。
なにせ、レイノルズとは同格の家柄ということもあり、招待される屋敷や催しが頻繁に被る。それだけではなく、不思議なことに、やたらと彼が近くにいることが多い。食事の席が近かったり、テーブルが同じだったりする。もちろん社交上の挨拶や、必要最低限の会話を除いて、できるだけ口は利かないけど。
……でも、見てる。
レイノルズの意図は読めない。彼がなにを考えているのか、ライジーアにはさっぱりだ。だけど見られている。それも、無表情のときもあれば威圧的な場合もあり、たまに嫌そうに、ときには苦しげだったり、心配そうだったりと複雑な表情を浮かべて、レイノルズの眼はライジーアを追う。
ライジーアが他の男性の招待客と一緒にいるときは、特にひどい。値踏みするような、威嚇するような鋭い眼で、凝視してくるのだ。
この夜の催しもそうだった。
ライジーアは主催者の友人を名乗る男性に声をかけられ、少し二人で話をしていたところ、背後から視線を感じた。何気なく振り返ると、数人の男女に囲まれたレイノルズが険しい表情でこちらを睨んでいる。眼が合って、ぞっとした。背筋が凍るくらいの殺気を浴びせられ、怖さのあまり、思わず逃げてしまった。
ところが、びっくりしたことにレイノルズが追いかけてきた。それも血相変えて。
意表を突かれたライジーアは動揺し、慌てるあまり足がもつれて前のめりになる。
転ぶ――と思った瞬間、背後から胴部に逞しい腕がまわり、身体を支えられた。
「……」
腕一本で軽々とライジーアを抱えたレイノルズは、そのままの体勢で彼女の耳元に唇を近づけた。いたぶるように、じっとりと濡れた声で囁く。
「……逃げられると追いかけたくなるのが男の性だ。私を煽って楽しいか?」
とんでもない誤解だ。ライジーアは真っ赤になって反論する。
「あ、煽ってなんていないわ。離して!」
「言われずとも離すさ。本当は君なんて放っておいてもよかったんだが、この先は温室でね。今頃は秘密の逢瀬を楽しむ方々でいっぱいだろうから、邪魔するのはさすがに野暮だろうと思って仕方なく引き止めたんだ。別に君を追いかけたくて追いかけたわけじゃないから、君に気があるとか、都合のいい解釈をしないようにね?」
偽りの笑顔を浮かべてチクチクとさりげなく侮辱してくるレイノルズは、かつての優しく誠実なレイノルズではない。加えて、口では「離す」と言いながら、なぜか彼の手は未だにライジーアの腰をしっかりと抱いている。
「……そんなのわざわざ言われなくても、今更誤解なんてしないわ」
ライジーアは身を捩ってレイノルズを突き放した。転ぶところを助けてもらったので、礼だけは述べておく。
「助けてくれて、ありがとう」
眼を見て感謝を伝えたかったのに、レイノルズは顔を背けてしまう。
「助けたくて助けたわけじゃない。私は君の心配など……してないから」
嫌な言い方だ。
ライジーアはサッと踵を返す。悔し涙がこぼれた。意地悪なレイノルズ。どうして。いつから?
――婚約破棄を申し込まれた、あの日からだ。
面と向かって「大嫌いだ」と告げられ、怒りにまかせて同じ言葉を叩きつけた、あの決別の日から、レイノルズは変わった。人好きのする穏やかな口調は一転し、人を傷つけるような言葉を口にするようになった。いったい彼はどうしてしまったのだろう。
おかしいと思いつつ、訊くに訊けない。それがいまのライジーアの立ち位置だ。
レイノルズの変化を不審に思いながら、ライジーアはライジーアで、レイノルズの周囲を眺めては彼が「心変わりした相手」を一目見たいとひそかに探っていた。
……悔しいけど、レイが好きになった女性がどんな人か気になるんだもの。
美しい人だったらいい、と思った。自分が完敗だと認められるほど、綺麗な女性だったら。
恋は勝ち負けじゃないし、あのレイノルズが容姿で人を好きになるとも思えないけど。
……わたしって未練がましい。
不意に、ライジーアは自分が嫌になった。とうに振られたくせに、それも心変わりなんてひどい裏切り方をされたのに、まだレイノルズのことを諦めきれない心が残っている。
砕け散った初恋の爪痕が深すぎて、彼の好きな人が憎くてたまらない。羨ましくて、妬ましくて、恨めしくて、叫びそうになる。
……わたしの大好きな婚約者を返して! って。
その都度、「もう婚約者じゃないんだっけ」と寂しくなる。悲しくなる。辛くなる。
そしてわかってはいたけれど、レイノルズは女性にとてもモテる。
いつだって女性たちに取り巻かれ、ちやほや甘い誘いを受けている。そんなレイノルズを視界に入れることが苦痛で、泣きたいくらい切なくて、でも彼がいるところで涙を見せたくなくて、我慢すればするほど、ライジーアは社交の場に参加することが心の負担になっていった。
恋の消失の痛みから逃げるように、再び勉強に没頭する。そのまま、また一年が過ぎた。
ライジーアは一八になり、三度目の社交シーズンを目前に控えていた。ドレスや靴、身の回りの支度品の準備を整えている最中に、執事から父の執務室へ来るようにと呼び出しを受ける。
「女王陛下が、わたしに?」
父から手渡されたのは、王家の紋章を捺された書状だった。
ライジーアは驚き、戸惑いながら女王陛下から送られた自分宛ての書状を読む。
文面の内容は、『ある仕事』を依頼したいというもので、それも急を要していた。
「……『ある仕事』ってなんでしょう?」
父は執務机の席についたまま、両手の指を組み、気難しげな顔で言った。
「……私の口から口外はできぬ。それほど重要な案件なのだ。秘密厳守と秘密保持の両方の理由から、おまえにも誓約を求められるし、また向かう先に侍女や従僕を連れてもいけない。荷物も必要最低限の身の回りの品だけ、華美な服装や装飾品の類も認められない。完全に世俗からは隔離された状況下に置かれるらしい。身の安全と尊厳、名誉、それに衣食住は保証されるものの、謝礼金や褒美はなく、無償奉仕だ。だから嫌ならば断ってくれていい、と女王陛下は仰られた」
「お受けします」
ライジーアは丁寧に書状を元の形に戻して胸に抱いた。
「女王陛下直々のご依頼ですもの、お断りなんてできません。それにわたしが陛下のお役に立てるなんてとても名誉なことです」
無償奉仕、というならば、これは貴族の義務だ。
伯爵令嬢として育ったライジーアにとって、女王陛下は敬愛する主君であり、幼い頃から憧れの女性で、こんな風に頼られるとは嬉しい喜びだった。
……参加したくもない社交シーズンの支度を嫌々するより、よほど有意義よ。
こうしてライジーアは、女王陛下の頼まれごとを引き受けた。
結果、その後の追加の知らせで、二週間の拘束を余儀なくされることとなる。