身辺整理と夜の屋上
この日、ライジーアは朝から精力的に動いた。
朝食をモリモリ食べると、給仕するレイノルズはなぜか嬉しそうで、たくさんおかわりを持ってきた。
仕事もいつも以上に気合を入れよう、と会議開始時刻が迫り、集まり始めた出席者一人一人に、「おはようございます! 今日もよろしくお願いします」と挨拶する。たいていは平坦な挨拶が返ってくるが、中には、「こちらこそ、よろしくお願いしますね。残すは今日を含めてあと二日です。一緒に頑張りましょう」と激励の言葉ももらえた。
予定時刻通り、会議は静かに始まる。そして論戦は段々と熱を帯びていく。
速記者はその煽りを食らわないよう、常に冷静でいなければいけない。ただひたすら集中力を高め、文字と記号で記録する。一五分交代で、ライジーアとレイノルズは互いに互いを支え合う。居ながらにして、少し離れた俯瞰の眼で会議を傍聴するのはスウィン。ゆったりと構えながら耳を澄まし、意見を聞くだけではなく、出席者の表情を見ている。
昼食のとき、レイノルズが厨房に下りたのを見計らって、ライジーアはスウィンを掴まえた。
「今日の夜、屋上に来て。見届け人になってほしいの」
周囲に人がいるため、多くは言えない。声もひそめて、必要なことだけ伝える。
「皆が就寝した頃がいいと思う。二十二時くらいかな。来てくれる?」
「レイを助ける方法がわかったのね?」
スウィンは相変わらず女装しているので、声や口調も作ったものだ。けれどもライジーアを見る眼は真剣で、希望と期待に輝いている。
ライジーアは階段の方を気にしながら、急いで答えた。
「それを確認してほしいの。わたしがレイノルズと話している最中は、絶対に動かないで黙って見てて。なにが起こってもわたしは受け入れるから、スウィンも受け入れて。あと、レイノルズにも受け入れるように言って? お願いできるかな」
『災厄』を排除する策は、スウィンしか知らない。ライジーアが導き出した答えが、正解か不正解か判断できるのはスウィンだけだ。
そして忘れていけないのは、失敗すれば罰が下るということ。ライジーアは危険を承知で挑むのだから、その責任は全部一人で負うつもりだが、スウィンやレイノルズの性格を考えると、自分を責めそうだな、といくぶん気懸りだ。
ライジーアの覚悟を見取ったのか、スウィンは表情を引き締めて頷いた。
「わかったわ」
「ありがとう」
「お礼を言うのは私よ。――あなたの答えがレイを救ってくれると、信じてる」
スウィンの祈りのこもった静かな眼とライジーアの決意を宿した眼が通じ合う。
ライジーアは目礼して、レイノルズに見つかる前に席へと戻った。
夕食後、ライジーアはレイノルズを引き止めて、湯浴みを断った。レイノルズは「なぜ?」と訊いてきたが、明日の午後には帰宅すること、報告書を作ることを説明し、納得してもらう。借りていた政治裁判の記録の本も忘れずに返却する。「勉強になったよ」と感想を述べたら、物も言わず微笑まれた。優しい笑顔が眩しくて、胸がドキドキした。思わず顔が熱くなる。
「それから……後で少し、時間もらえる? レイノルズに話があるの」
そう言うと、レイノルズがやや身構えた。警戒するような眼つきに、ちょっぴり怯えも混じっている気がする。
それでも断らないのは、レイノルズの優しさだと思う。彼は強張った顔で、ただ頷いた。
「よかった。じゃあ、二十二時頃までは書き終えるように頑張るよ」
「わかった。……私が来るから、君は部屋を動くな」
「うん、ありがとう」
「礼はいらない」
素っ気なく言って、レイノルズが使用済みの食器を載せたトレイを手に持ち、出ていく。
ライジーアは物入れから用紙と封筒、筆記用具を机上に揃え、椅子に座った。今夜の展開次第では、困ったことになる可能性も大なので、万一のために報告書と各人宛ての手紙を書き残しておくことにする。
女王陛下には備忘録を参照にした会議報告書と挨拶状。
父には会議内容には触れず、速記者として務めを果たした旨の報告書と「誰も悪くないけど、ごめんなさい。今まで大切に育ててくれてありがとう」という概ねそんな感じの手紙。
スウィンには親切にしてもらったお礼と、最悪の事態を想定して、家族への説明をお願いしておく。
レイノルズには正直な今の自分の気持ちを綴る。はっきり言って、恋文だ。
これらは一通ずつ宛名を書いた封筒に入れて、蝋で封をし、机の上に並べて置く。もしもなにか不幸があったときのための備えだ。なにごともなければ、手紙だけ破棄すればいい。責任の所在を明らかにしておかないと、『災厄』を排除するのに失敗した場合、スウィンやレイノルズが罪に問われるかもしれない。
……それは避けないとね。
時計を見れば、約束の時間まであまり余裕がない。ライジーアは手早く荷物を整頓して、鏡を覗き身支度を整える。これで準備万端。やれるだけのことはやった。あとは、挑むだけ。
トントン、と小さなノック音が響く。次いで、「私だ」とレイノルズの声が届いた。
ライジーアは扉を開けて外に出た。部屋で話さないのか? と眼で問うレイノルズの先に立ち、彼に止める隙を与えずに階段を上っていく。目指すは屋上だ。
最上階の扉に鍵はかかっていなかった。押し開くと、最初に見えたのは晴れた夜空に冴え冴えと輝く乳白色の月。雲は少なく、柔らかな月光が辺りを照らしていた。
塔の屋上は最初に注意を受けたように柵がなく、見通しはいいが、建物の縁と空との境界を見誤ると真っ逆さまに落ちる。この高さでは即死だろう。そう懸念してか、レイノルズの警告がかかる。
「むやみにウロチョロするな。足場をなくして落ちても私は知らないぞ」
そんなに心配そうな声で言われたら、もう嫌味とは思えない。
ライジーアの耳には、「ウロチョロすると危ないから足元に気をつけて」と聞こえる。
そう解釈して、ニコリと笑って答えた。
「うん、気をつける」
普段なら屋上には見張りがいるはずだが、人払いされていた。
慎重に歩いていく。レイノルズは少し遅れてついてくる。
強い視線を感じて振り返ると、屋上の入り口横に立つスウィンを見つけた。二人の側仕えも一緒だ。三人はゆっくりと影から出てきて、淡い月光を浴びて佇む。
レイノルズはスウィンの登場に不審そうな顔をして、ライジーアへ注意を戻して訊く。
「スウィンが、どうしてここに?」
ライジーアは縁までの距離を眼で測り、安全圏で足を止めた。レイノルズと正面から向かい合う。彼の方がだいぶ背が高いので、ちょっと見上げる格好だ。
「わたしが立ち会いをお願いしたの。これから起こることを、見届けてもらうために」




