意思疎通の困難とブサイクでヤケクソ
翌朝、レイノルズはライジーアの顔を一目見るなり、「おはよう」の挨拶もせずに言った。
「……湯を持ってくる」
そしてライジーアに洗顔用の桶を手渡し、使用済みの盥を抱えて出ていく。
ライジーアはノロノロと動いて水で顔を洗い、浴布で拭いた。昨夜泣きすぎたせいで頭が痛い。眼も痛い。喉も痛い。でも一番痛いのは胸だった。忘れるはずの恋心が未練がましく悲鳴を上げている。我ながら、バカだと思う。
……だけどいっぱい泣いたら、ちょっとすっきりしたかも。
勘違いしちゃいけない、と自省する。レイノルズもスウィンも悪くないのだ。
……悪いのは、八つ当たりした、わたし。
レイノルズに一言謝ろうと決め、ライジーアは「よし」と気張る。
頭を切り替えよう。モヤモヤは晴れなくとも、朝が来たからには仕事だ。仕事に私情は持ち込まない、これは鉄則。そして仕事が終わったら、レイノルズを捕まえて話を聞くこと。
ライジーアがざっくり今日の予定を立てたところへ、レイノルズが戻ってきた。
「椅子に座れ」
抗いがたい声で言われて、ライジーアはおとなしく椅子に座る。
レイノルズは新しい浴布を湯桶に浸け、絞り、ライジーアの目元にのせた。
「そのまましばらくじっとしていろ。私は朝食を持ってくる」
不機嫌そうに言って、しばらくすると、おいしそうな匂いと共に戻ってくる。
レイノルズは無言で温くなった浴布を取り上げ、再度湯で温め、絞って、瞼の上に戻す。
「えーと、あの、レイノルズ? このままだと食事ができないんだけど……」
「私が食べさせてやる。ほら、口を開けろ」
「え!? じ、自分で食べるよ。こここ、子供じゃないんだから、遠慮します!」
それはさすがに恥ずかしい、と思い辞退したのに、レイノルズのひんやりした声がライジーアを揺るがせた。
「……そのブサイク面で人前に出るつもりか?」
ライジーアはショックを受けた。
……ブ、ブサイクって言われた。
「そ、そんなにひどい?」
「ひどい」
一刀両断である。
ばっさり判決をくらったライジーアは抵抗する気力を失う。口で勝ったレイノルズが給仕するまま、パンから始まり、スープを啜り、卵を食べて、野菜を噛む。チーズを齧り、ベーコンをもぐもぐし、お茶を飲み、果物を頬張る。最後に果汁を飲み干した。
食事中は一言の雑談もなかったレイノルズが、食器を片付けながら口を開く。
「昨夜、スウィンになにを言われた?」
ライジーアは心の裡で答える。
……『災厄』からレイノルズを助けてほしいってお願いされました。
などと、正直に言えるはずもなく。
……だってレイノルズが黙っているってことは、わたしに知られるのが嫌だってことだよね?
婚約破棄して、距離を置くほど。
だったら、とライジーアは考える。
『災厄』のことは知らないふりをして、レイノルズを救う。どのみち『災厄』を排除する策は探れないのだし、自力で正解に辿り着くしかない。
……スウィンはレイノルズを救えるのはわたしだけだって言ってた。
つまりスウィンの言葉を信用するなら、ライジーアには『災厄』を祓う資格がある。
……資格ってなんだろ。よく考えたらなんでわたし「だけ」なのかな?
そんな具合に頭の中だけ忙しいライジーアは、傍目的には黙秘しているようだった。
レイノルズは苛立ちを抑えて続ける。
「……それとも、なにかされたのか? 顔が腫れるほど泣くくらい、嫌なことを?」
……あれ? でもわたしは遠ざけておいて、スウィンはいいの?
「おい、聞いてるのか?」
痺れを切らしたレイノルズが言い、乱暴な勢いで浴布を奪う。
「はい、ごめんなさい!」
つい条件反射で謝る。
「なにが『ごめんなさい』なんだ?」
ジロリと睨まれ、ライジーアは咄嗟の判断で昨日の件を詫びた。
「昨日、『バカ』って罵ってごめんなさい」
「……そんなことより、君はずいぶんと身持ちが緩くなったんだな」
聞き捨てならない台詞に驚き、ライジーアは眼を剥いた。思わず反論する。
「身持ちは固いよ!? これでも淑女ですから!」
うっかり「それにモテないし!」と続けようとして、慌てて口を噤む。
レイノルズは怒りを押し殺した声で言う。
「淑女が薄い寝間着一枚で真夜中にふらつくか。私は忠告したはずだ。スウィンがその気になったら、意のままにされると。まさか忘れていたわけじゃないだろうな?」
「寝間着だったのは湯浴みした後でもう一度服を着るのは嫌だったからだし、会う相手はスウィンだから別にいいかな、と思って。なんでレイノルズが怒っているのかわからないけど、なにも嫌なことはしてないし、されてないよ? ……レイノルズの好きな人に、変なことなんてできないよ」
「は?」
あまりに野太い声の「は?」が返ってきたことにライジーアの肩がビクリと跳ねる。
唖然という顔をするレイノルズの反応を不思議に思い、ライジーアはおずおずと訊ねた。
「……好きなんでしょ? スウィンのこと」
「好きに決まってる」
「うん、知ってる。恋人、なんだよね?」
「そうだ」
レイノルズははっきりとスウィンとの恋愛関係を認めながらも、顔色が真っ青だった。かつてないくらい激しく動揺していて、きつく唇を結ぶと、なぜか頭を抱えてしまった。
ライジーアはショックだったが、それを隠して、「えへへ」と小さくごまかし笑いをした。
「だよね。そうじゃないかな、と思ってたんだ。二人共すごくお似合いだよ。スウィンは綺麗でいい人だし、レイノルズのこと真剣に想ってくれているから、きっと、し、幸せになれる、よ」
なんとか泣きたい気持ちを抑えて、作り笑いを浮かべる。
「あの、わたし、先に下に行って、会議の準備をしてくるね。ご、ごちそうさまでした!」
涙腺が切れる限界まで喋り、脱兎の如く部屋を飛び出す。
そのまま一階の厠に駆け込み、勝手に流れる涙を拭う。せっかく少しはましになった瞼の腫れが、またひどくなってしまった。
結局、会議開始時刻ギリギリまでそこで粘り、ライジーアは腫れぼったい顔で速記者席に着いた。
……もうブサイクでいいや。
ヤケクソである。
だが人間ヤケクソなときほど集中力が増すもので、この日のライジーアは鬼気迫る仕事ぶりを発揮した。
昼食時、レイノルズは黙々と給仕をし、ライジーアも黙々と食べた。
食後のお茶を淹れて、レイノルズが沈黙を破る。
「今日、仕事が終わったら話がある」
ライジーアはコクリと頷いて、言い返した。
「うん。わたしもレイノルズに話があるんだ」
会議終了まで、今日を除けばあと五日しかない。最終日は午前で解散予定のため、実質残り四日である。実家に帰れば絶縁状態のレイノルズと会える機会などないし、すぐに社交シーズンが始まる。夫候補を探さなければいけないので、とても忙しくなるだろう。
……それまでに、なんとかレイノルズを助けないと。
そして午後の討議も終わり、出席者たちがくたくたになって引き上げていく。
いつも通り議事録をまとめて、ライジーアは一足先に部屋へ戻った。
それから三〇分後、ライジーアは驚愕の事実を目の当たりにする。