『災厄』の襲撃と激しい後悔
しゃくりあげながら、ライジーアは顔を擦って涙を拭う。感情を制御できるようにならないとだめだと痛感したばかりなのに、人間すぐには変われないものらしい。
……みっともないなあ。
泣き喚いてどれだけ取り乱しても、なにも変えることはできないと、二年前に嫌というほど思い知ったはずなのに。
あの日、あのときの出来事が、婚約破棄という名の悪夢が、涙で覆せなかったように。
……もしあの婚約破棄の裏にどうしようもない事情があって、レイノルズの本意じゃないとすれば、嘘をついてまでわたしを遠ざけた、その理由って……?
ライジーアはなんとか涙を止めるのに成功すると、握りしめていたスウィンの服を手放した。
「……ごめんなさい。服、皺になっちゃった」
「いや、それは別に。むしろライジーアの傷を抉るような話題を唐突に切り出した私が悪い。ごめんね、驚かせてしまって」
「ううん。だめなのはわたしなの。もっと心を強く持たないといけないのに、すぐ感情的になるから。なんでも顔に出るなんて、みっともなくて恥ずかしいよ」
自嘲気味に話すライジーアに対し、ところがスウィンはこう言った。
「そうかなあ? 私は素直で可愛いと思うけど。表と裏を器用に使い分ける腹黒い奴らより、よほど好感が持てる。ライジーアは素で話すから言葉を分析する手間もいらないし、表情もコロコロ変わって面白い。少なくとも、私はライジーアのそういうところ、好きだよ」
温かい笑顔のスウィンをぼーっと眺めているうちに、ライジーアも元気が出てきた。
「……うん。慰めてくれてありがとう、スウィン」
「どういたしまして。さて、じゃあ落ち着いたところで、私の話を聞いてくれる?」
軽やかに声の調子を変えて、スウィンがライジーアの眼を見つめる。
ライジーアが頷くと、早速スウィンは喋り始めた。
「二年前、レイは、正確に言うとレイとその両親は、不幸にもある『災厄』に見舞われたんだ。その『災厄』というのが、人伝えに聞いただけではちょっと信じられないような異様な話で、私も自分の眼で確かめなければ今も疑ったままだったと思う」
「『災厄』……?」
なんて不穏な響きの言葉だろう。
「としか、言いようがない。偶然とも少し違うし、必然ではありえない。敢えて違う表現を用いるなら、間が悪かった、かな。レイは領主夫妻の地方視察に同行した、その帰りに遭遇したらしい。ひどい嵐だったそうだよ。雨で視界が悪かったことも災いしたみたいでね、よく『災厄』の姿が見えなくて、声をかけた次の瞬間に襲われた……」
スウィンの声が紡ぐ怖ろしい描写に、ライジーアは震え上がって、つい叫ぶ。
「怪我は!? レイノルズもおじ様やおば様も、怪我はしなかったの!?」
ここでスウィンは蒼褪めたライジーアに、どうどう、と宥める手振りをする。
「物理的な傷は負わなかったようだけど、ただではすまなかった。このときの襲撃が原因で、未だレイは苦しんでいる。――つまりレイがおかしくなったのは、その『災厄』のせいなんだ」
ライジーアはちょっと座って落ち着いてから、頭の中を整理したい、と思った。だがこの部屋に椅子はない。せめて寄りかかる壁が欲しくて、場所を移動しようとしたら、足がもつれて躓いた。
「おっと、危ない」
如才なく、スウィンの腕が意外な力強さでよろめいた身体を支えてくれる。
「大丈夫?」
綺麗な瞳を心配そうに細めて、スウィンが顔を覗き込んでくる。足がふらついたことではなく、心が激しく乱れているのを察して、気遣ってくれているとわかった。
……大丈夫かと訊かれたら、大丈夫じゃ全然ないよ。
レイノルズが自分の知らないところでずっと苦しんでいた、という事実だけで死にたい気持ちになる。
……気づいてあげられなくてごめんね。恨んでばかりいてごめんね。
失った恋が悲しくて、「大嫌い」と振られたことが悔しくて、切なくて、自分を憐れむあまり逃げていた。一度も真意を確かめようとしなかった。
勇気がなかったから。
ライジーアはグッと奥歯を噛みしめた。激しい後悔と慚愧の念で胸が張り裂けそうだ。
自分のことだけしか考えなかった、幼い恋。
相手のことを考えられないのなら、それは独り善がりな片想いとどこが違うのだろう。
涙が溢れる。身勝手な涙だ。泣いたところでレイノルズは救えない。
ライジーアは手の甲で涙を拭く。胸に、ただ一つの熱い思いがせり上がってくる。
……レイノルズを助けたい。
助けたい!
ライジーアはスウィンの二の腕に掴まりながら、縋るように言った。
「ねぇスウィン、その『災厄』ってなに? どうしたらレイノルズの苦しみはなくなるの? 助けるためにはどうすればいい? わたしができることは? 教えて、レイノルズを助けたいの」
スウィンは必死に言い募るライジーアを見つめて、自分も同じ気持ちだ、という眼で頷く。
「私もそう思ったよ。レイを助けたいと、なんとかして力になりたいと思った。だから調べたんだ。嫌がるレイを無視してね。ところが、だ」
スウィンの顔が不意に曇った。苦渋に満ちた声で先を続ける。
「口伝や伝承を聞き回り、書庫を漁って文献をひっくり返し、ようやく『災厄』の正体を突き止めた。レイの急変の理由、苦しみから解放する方法も知り得た。私は喜んだよ。これでやっとレイを元通りにできる、取り戻せるんだって。――でもすぐにそれが間違いだと気づいた」




