優しくて素敵ないい人と想定外の本題
「お迎えに上がりました。……大丈夫ですか?」
「え?」
「頬に涙の跡が。お一人で泣いておられたのですか」
痛ましそうに見つめられてライジーアは恥ずかしくなった。
「少し。少しだけです」
うまい言い訳ができないライジーアを、彼女は問い詰めることなく、そっと促して外へと連れ出す。足音をできるだけ立てないよう、誘導されるまま、二人が向かった先は五階だった。
「主人は間もなく参りますが……ちょっと失礼を」
彼女は持っていた角灯を足元に置き、懐から櫛を取り出すと、ライジーアの髪を梳いて撫でつけた。片方の手で前髪を整え、もう一方の手はハンカチを握り、目元と頬を押さえる。
「これでよろしいでしょう」
「あ、ありがとうございます」
ライジーアが礼を言うと、彼女は真面目な調子で、「いえ。お嬢様のような可愛らしい方に涙は似合いませんよ」と恐ろしく甘ったるい慰め言葉をかけてきた。クスリと失笑してしまう。どうやら主人が甘いと側仕えも甘くなるみたいだ。
「優しいですね。やっぱりスウィンが優しくて素敵だから、側仕えの方も似るのかな……」
喋りながら、ライジーアは窓辺に近づいた。掛け金を外し、ゆっくりと窓を開ける。途端、冷たく新鮮な夜の空気が舞い込む。久しぶりの外の風だ。とても気持ちがいい。上空を見上げれば、満月よりやや欠けた白く大きな月が夜空に煌々と輝いている。
窓辺に立ち、綺麗だなー、と月に見惚れるライジーアに、背後から彼女が話しかける。
「……ちなみに、主人のどの辺りが『優しくて素敵』なのでしょうか?」
ライジーアは、例を挙げるときりがないのに、と考えながら、素直に答える。
「スウィンは知人でもないわたしに初対面からずっと親切です。会えば明るくて、おしゃべり上手で、レイノルズのことや他のことも、訊かなくたって教えてくれる。時々気を遣って様子を見に来てくれるし、お菓子の差し入れも嬉しかったし、それに……」
脳裏にスウィンの屈託ない笑顔が思い浮かぶ。
……レイノルズのわたしに対する態度で思うことは色々あるはずなのに、一度も悪意をぶつけられた覚えがない。
それどころか、こうして話し合いの場を設けてくれるほどの寛大さ。頭の下がる思いだ。
「心が広くて、公正で、すごくいい人。その上、誰もが振り返るくらい綺麗で色っぽくて背も高いなんて、素敵でしょ? どこか悪いところがあるなら教えて欲しいくらい完璧だと思う」
これだけ美点が並べば、もう溜め息を吐くしかない。
ライジーアがちっぽけな自分と比べて「はあ」と肩を落としたとき、クスクス笑いが聞こえた。
「お褒めにあずかりまして、大変光栄。いやー、私ってそんなに完璧だったんだ?」
耳慣れた声に振り返ると、スウィンがもう一人の側仕えを連れて大笑いしながら部屋に入ってくるところだった。
「……わたし、なにか面白いこと言った?」
苦虫を噛み潰したような顔で答えたのは、ライジーアをこの部屋に案内してくれた彼女だ。
「私からお訊ねしておいてなんですが、お嬢様の眼は至極曇っておられるかと存じます」
スウィンが口元に手をあて、くつくつと笑いながら窘める。
「こらこら、なんてこと言うの。いいんだよ、ライジーアはそのままで。勘違い上等じゃないか」
もう一人の側仕えは露骨に顔を顰め、正気を疑わんばかりの眼でライジーアを見る。
「素でこれとは、本当に珍しい方ですね。こんなに人を見る眼がなくて、よく社交界で生きていられますよ。ああまずい、本気でこの天然ボケを修正したくなってきた」
「だーめ。お手付き物件って言ったでしょ。そんなに物欲しげな眼で見ないの。私はライジーアと話があるから、外の見張りをよろしくね。いいと言うまで、誰も通さないで」
スウィンの指示で、「天然ボケ」発言の失礼な側仕えが「チッ」と舌打ちしつつ退出する。
ライジーアは面食らっていた。美人の舌打ちなんて、初めて見たせいかもしれない。
「……あの、スウィン? わたしって、なにか勘違いしてるの?」
「まあね。でも気にするほどじゃない。私はライジーアの眼に映る『いい人』の『私』も結構気に入っているから。それよりも、あんまり時間がないと思うの。本題に入っていい?」
スウィンの纏う空気が俄かに変わった。優しげな微笑みはそのままなのに、ある種の緊張感が漂っている。軽く後ろ手を組んで立っているだけなのに、なぜか圧倒されて、ライジーアはコクリと唾を飲んだ。
「ライジーアは、レイがなぜあなたに婚約破棄を申し出たか、本当の理由を知っている?」
まったく想定外の質問をされて、ライジーアの心臓は大きく跳ねた。ドクドクドク、と奇妙なほど鼓動が速くなり、膝が震え始める。
……レイノルズには内緒の話なんて言うから、てっきり彼に対しての気持ちを見透かされていて、諦めるように説得されるとばかり、思っていたのに。
まさかレイノルズに訊こうとしていた事情を、逆に問い質されるなんて。
ライジーアは驚きのあまり喉も引きつってしまい、声が出なかった。それでも微かに首を横に振る動作だけは、なんとかできた。
スウィンは抑揚を変えず、更に驚くべき言葉を続ける。
「私は知ってる。でも、誤解しないで。本人の口から教えてもらったわけじゃないの」
「……それはどういうこと?」
「調べたのよ。二年ほど前――そう、ちょうどライジーアと婚約破棄をした時期よ、レイの様子がいきなりおかしくなって。でもいくら理由を訊いても口を割らないものだから、頭にきたわけ。で、お金と人材と権力を駆使して、徹底的に根掘り葉掘り探ったの。ま、ちょーっと手間取ったけど、真相に辿り着いたときは気分よかったわー。もっとも、レイはメチャクチャ怒ったけどね」
いつもの調子で話すスウィンの懐へ、ライジーアは衝動的に飛び込んだ。スウィンがびっくりしたように諸手を上げ、困り顔で胸元にひっつくライジーアを見下ろす。
ライジーアはそんなスウィンに掴みかかりながら、必死の形相で詰問した。
「な、なにがあったの? レイノルズになにがあったの!? お願い、教えてスウィン。わたし、なにも知らないの。レイノルズになにが起きて、変になっちゃったの? 言葉と行動が伴わないのはどうして? わたしを大嫌いなんて拒んでおいて、なぜ今になって優しくしてくれるの?」
「落ち着いて、ライジーア」
「婚約破棄の本当の理由ってなに? 心変わりしたというのは嘘? なんのために?」
「ライジーア」
「お願い、教えて! ……お願いよ、スウィン」
喉から手が出るほど知りたい答えが目の前にぶら下がっていて、ライジーアの感情は堰を切ったように押し出された。涙腺は決壊し、溢れる涙でまともに物が見えないほど視界が歪む。頭の中は、ただただ、『あの日』のレイノルズでいっぱいだ。
自分から婚約破棄を言い出したのに、すごく辛そうな顔だったレイノルズ。
掌に爪が食い込むほど拳を強く握りしめていたレイノルズ。
大嫌いだと叫んだとき、泣きそうだったレイノルズ。
レイノルズ――わたしの、大切な……。
回想に浸りボロ泣きするライジーアの頭を、そっと優しい手が撫でる。
スウィンはライジーアを宥めながら、発破かけるように強い語調で言った。
「泣かないで、ライジーア。ちゃんと答えるから。今から私が言うことをよく聞いて」




