婚約破棄と大嫌い、からの失恋
レイノルズとライジーアは、生まれる前からの婚約者だった。
いわゆる、「大人になったら結婚しようね」というアレである。
その話の発端は簡単で、親同士の仲が良く、家格も同等、おまけに両家とも伯爵家で身分も釣り合う。更に年頃になっても眼の色を変えて結婚相手を物色する必要もなくなる。
そんなわけで、レイノルズとライジーアは家族同然の幼馴染みだ。
曰く、「小さい頃から遊び友達だったら、お互い愛着も沸くでしょ」と親心と下心と打算もばっちり折り込み済みの環境で育った二人は、親たちの思惑通り、とても仲良くなった。
ライジーアは、二歳年上のレイノルズが大好きだった。
彼はライジーアをとにかく可愛がって、一日中でも構い倒してくれた。お昼寝時はレイノルズの腕枕が定番だったし、おやつは「あーん、だよ?」といつも食べさせてくれた。どこへ行くにも手を引いて、転べば助け起こしてくれて、泣けば抱きしめて慰めてくれる。
これで好きになるなという方が無理だろう。
レイノルズはライジーア自慢の『素敵な優しい婚約者』だったのだ。
そうして年齢を重ねるにつれ、レイノルズはめきめきと頭角を現していった。二〇人以上の家庭教師を相手に勉強し、身体を鍛え、社交術を磨き、その上で必ずライジーアとの時間も確保した。会う回数こそ少し減ったものの、会うときは必ず花束と手土産を用意してくれた。
ライジーアは花束も手土産ももちろん嬉しかったが、それよりも、レイノルズが自分のことを考えて、自分のために心を尽くしてくれることがなにより嬉しかった。会ったその瞬間、「私の可愛いジア」と愛称を呼んで、喜びをいっぱいに湛えた眼で笑ってくれる、彼の笑顔が大好きだった。
だからライジーアも奮起した。
レイノルズが立派な紳士になるなら、自分は立派な淑女になるのだと。
そうして多大なる努力と根性と執念によって、何年もかけ、品格と教養は身につけた。いずれ伯爵位を襲爵するレイノルズの横に堂々と立てるくらいには、淑女教育を頑張った。
……あいにく、高貴な淑女に求められる『控えめ』とか『おしとやか』とか『優雅さ』にはいま一つ欠けるけど。
でもきっと、レイノルズなら「完璧じゃなくていいよ」って言ってくれる。
ライジーアはそう確信していた。なぜなら、ライジーアもレイノルズにそんなものを求めていないから。
……ただ優しいレイでいてくれれば、それでいい。わたしを見て、心から笑ってくれたらそれだけで満たされる。
ライジーアは今年一五歳になり、来年には社交界デビューだ。そしてデビュダントとして女王陛下にご挨拶が済めば成人と認められ、晴れてレイノルズと結婚できる。
……幼馴染みで初恋の人と結婚するなんて、貴族としてはありがちだけど、ありがちだっていいじゃない。幸せなんだから。
あと一年が長いような、短いような。
じれったさともどかしさとレイノルズへの恋情に浮かれて、気持ちがふわふわしている。
何年か前にレイノルズが言ってくれた「一六歳になったら、私の花嫁になってくれる?」という言葉は宝物だ。突然すぎて、嬉しくて舞い上がってしまったライジーアは、自分がなんと答えたのかまったく覚えていない。ただレイノルズが照れくさそうに、いままで見たことがないくらい綺麗な笑顔を向けてくれたことだけは、はっきりと記憶している。
――レイが好き。
誰憚ることなく、そう言えた。恋を自覚してからは、レイノルズ本人に直接伝えることは恥ずかしくて、あまりできなくなっていたけれど、それでも彼に「ジア、私のことが好き?」と問われれば迷わず「好き」と応えていた。
だから一六歳で社交界デビューし、大人と認められて初めて贈ることができる、婚約者から婚約者への『最愛ケーキ』を作って食べてもらうことは念願の夢だった。
最愛ケーキは大好きの気持ちを込めて自分で作る、世界でたった一つのオリジナルケーキだ。
レシピは秘密。食べてもらう相手も、結婚相手のその人だけ。
花嫁は結婚式当日までにできるだけおいしい最愛ケーキを作れるように腕を磨き、式後の祝宴の席で花婿に食べさせる。『こんな風に私を食べて』って意味を含んでいるらしいけど、もっと詳しく説明を求めたら、母は唇に指をあて、「それは旦那様に任せるの」と窘められてしまった。
その母の困ったような顔からして、初夜に関することなのだと察する。
ライジーアは質問した自分が恥ずかしくなった。気まずく思いつつ、それでもどんな『最愛ケーキ』を作ろうかとレシピをあれこれ練るのはとても楽しくて、時間を忘れる作業だった。
……レイにとびきりのケーキを焼いて、絶対に「おいしいよ」って褒めてもらうんだから。
そんな具合に、ずっと幸せな時間が続くものだと、信じて疑わなかった。
ところが、一六歳を目前にしたある日のこと、レイノルズと彼の両親が揃って屋敷を訪れ、ライジーアに告げた。「婚約を破棄したい」と。
耳を疑った。
呆然とするライジーアの目の前で、レイノルズが自分の口で言った。
「私と婚約解消してほしい。……心変わりしたんだ」
とても信じられなかったが、ライジーアは訊き返した。
「……心変わり? だ、誰か、他の人を好きになったの?」
「そうだ」
「嘘よ」
「本当だ」
あまりにも強い口調で断言されて、戸惑う。頭の中は完全にパニックだ。
ライジーアはうろたえながら、縋るようにレイノルズを見つめて問い質す。
「わ、わたしのこと、もう好きじゃなくなった?」
「そうだ。……君のことが、大嫌いになったんだ」
このとき受けた衝撃は、ライジーアの胸に大きな穴を開けた。
大嫌いと言われた――他でもない、大好きな大好きな、レイノルズから。
悲しくて、辛くて、苦しくて、死にたいと思った。
同時に、憎い、と思った。
ライジーアはただレイノルズだけを一途に想ってきたのに、こんな裏切りは許せない、と怒りがふつふつと湧いてきた。色々な感情の渦がぐるぐると頭を占領し、一周回って、彼女はキレた。
「――上等よ。大嫌い? あ、そう。いいわよ、婚約解消するわ。浮気男なんて、こっちから願い下げよ! たったいまこの瞬間から、わたしだって、あなたなんて大嫌いよ!!」
ライジーアはみっともなく泣きながら叫んでいたが、どういうわけかレイノルズも非情な口とは裏腹に激痛を負った苦悶の表情で、掌に爪が食い込むほど拳を強く握りしめていた。
或いは、よくよく注意すればレイノルズの眼が悲しみに満ちていることに気づけたかもしれない。
だが、このときのライジーアは大好きなレイノルズに「大嫌い」と言われたことがあまりにショックで、彼の心中を推し量ることはできなかった。
また当然ながら、突然の婚約解消の申し出に怒り狂ったのはライジーアだけではなく、ライジーアの両親も同じで、この日を境に両家の仲は断絶する。
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