第七章 激動
メートヒエンにある軍令部本部通信室で、硬い椅子に腰掛ける政府高官は、小さく微笑んだ。
「よし……これで」
傍に置いていたラジオは、魔法テロリストに乗っ取られた局を流し続けている。先程から何も聞こえてこない状態が続いていたが、その静寂が突如破られた。
『市民よ安心するがいい……ロリガニア政府より我らが同志を釈放するという報せが入った。我々は現地点で停船し、我らが同志の身柄が水上機で届けられ次第、当海域より離脱する。だがもし明日正午までに同志を此方へ引き渡さなければ、我々は再びエルガロードへ向け進撃を行なう』
ラジオは再び静まり返った。
高官の傍に立つ補佐官は、ひとまずの安堵に肩の力を抜いたが、しかし同時に不安も拭えなかった。
「護送用に特別列車を編成していますが……間に合いますでしょうか?」
高官は答えた。
「ぎりぎりだろう……それまでに、あの天才が再びこの国を救ってくれることを信じるしかない」
二人は目を閉じ、国土の反対側にいる女性狙撃手に、祝福あれと祈り続けた。
「狙撃準備完了。いつでも行けます」
シアスが言う。全ての準備は整った。銃、弾、失敗した時の手も打ってある。狙撃手はいまや、希望に満ち満ちた瞳をしている。
鐘楼には最低限の人員しかいない。僕とイーリス、シアス、市長、そしてミーク・マクマスター・ドルイット。ジュエルとアサギさんは連絡役を引き受けてくれた。連絡役は本来僕の役目だったのだが、アサギさんが鐘楼へ行けとうるさかった。
「お主が傍にいてやらんでどうする」
……そんなはずですよね。
ジュエルも賛同し、僕はミークと一緒に鐘楼へ登った。既に狙撃銃は水平線を向いて鎮座ましましている。その先三万メートルに、戦艦サンダルフォン、そしてヨハンナ・シェッファーはいる。
ミークが歩き出した。僕もそれに続く。
「椅子の高さは調整できるから」
シアスが言った。ミークと僕は無言で頷く。ミークが座ってみたところ、高さを変える必要はなかった。
市長が懐中時計を気にしていた。シアスがそれを覗き込む。
「……時間だ」
市長の重い声が響いた。
ミークは愛用の銃床を肩へと押し当てた。左頬が木製のストックに当てられる。
「反動が凄まじいはずよ。防御魔法を張っておくわね」
シアスが人差し指をくいと動かした。見た目にはわからないが、ミークの体は衝撃に耐えられるようしっかりと守られているのだろう。
「目標は現在停船中よ。しっかり狙って」
スコープがどうなっているのか僕には想像もつかないが、おそらくミークには見えているのだろう。戦艦サンダルフォン、僕らの平穏を乱す存在が。
「レイ君」
ミークが一度スコープから目を離し、隣で屈む僕の方を向いた。
「ん」
僕は短く応える。僕もミークも、微笑を浮かべていた、
「……大好き」
「……僕もだ」
市長が手で顔を覆っている。普段の僕とミークなら、死ぬほど恥ずかしがるのだろうが、今はそんなことはどうでも良かった。
今はもう、僕とミークは幼馴染ではない。
婚約者、なのだから。
幸せだ。
こんなにも幸福なのか。好きな人といること、好きな人と結ばれることは。
ああ、もう何がどうなってしまってもいいくらいに幸せだ。幸福で幸福で、幸せすぎる。
大した伏線も無しにミーク大好き設定になっている僕だが、想像してみてほしい。恋とは突然であり、好きという感情に明白な境界線など無い。
ただ、僕はミークが好きだ。
そう気付いたのがいつだったかはもうわからない。でも好きなのだから、それでいいではないか。
「好きだ、ミーク」
「うん」
何度でも言いたくなる。実際は、もっと前から……二か月間に再会を果たした時、いや、それこそ、まだ幼かった頃に二人で遊んでいた時から、僕はミークが好きだったのだろう。ただ、言い出せなかっただけで。
世界一言うのが難しい言葉を、僕はミークにぶつけた。ミークは驚いたことと思うが、すぐに彼女は、笑顔になってくれた。
僕が見た中で、最も綺麗な、ミークの笑顔だった。
ミークはまだ僕を見つめてくれていた。僕もミークを見つめている。そして示し合わせていたかのように、同時に目を閉じて、唇を重ねた。
優しいキスだった。
「ありがとう……」
その言葉は僕の口から出たのか、それともミークだったのか、僕らですらわからない。
そしてミークは再び銃を構えた。夕暮れ色に染まった水平線に向けた銃口が、ぴたりと静止する。
「当たらないはずがないわ」
ミークの呟きが、僕にもはっきりと聞こえた。
「こんなに……こんなに幸せなんだもの……」
ミークの人差し指が、引鉄に触れた。
「絶対、大丈夫」
引鉄に掛かるミークの指に、力が入っていく。撃針との連結が解除されるまでのわずかな遊び。
次の瞬間、高い銃声が轟いた。
大きな音に驚いた僕は一瞬目を閉じてしまった。一瞬の後に僕が見た光景は。
僕にもたれるようにして倒れてきた、ミークの亡骸だった。