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第三章 不動

「そういえば気になってたんだけど」

 ミークが食器を洗ってくれるというので、僕は結局文句ひとつ言うどころか終始笑顔で美味しそうに香草焼きを平らげたイーリスと食卓に座ったまま、食後の珈琲を楽しんでいた。意外な事にイーリスは珈琲に砂糖もミルクも入れずブラックで飲むらしい。

「はい? なんでしょう?」

 イーリスは苦い珈琲に顔色を変えることもなく上目遣いで僕を見てきた。

「イーリスの髪ってすごく綺麗な銀色をしてるよね? それって、お母さん譲りなの?」

 イーリスの浮いた格好を構成する要素の中でも特に異色の存在、異常なほどに輝く銀髪。何やかやで聞きそびれていたが、はっきり言ってこの光沢が人間の髪によって放たれているものだとはとてもじゃないが信じられない。何か秘訣があるはずだ。そして可能ならば、もう少し光沢を抑えるよう言ってあげようと思う。

 と思って言ったのだが、イーリスは突如驚きの表情を作り、あからさまに動揺し始めた。そんなに触れてほしくないことだったのだろうか。

「ひ……こ、この髪ですか!?」

 そう言ってイーリスは頭を両手で隠すように覆った。隠したというより、怯えて縮こまってしまったような感じだ。

「ご、ごめん……聞いちゃまずかったかな?」

「い、いえ、そんなことは……」

 そう言いながらもイーリスの動揺は隠しきれず、俯いてとうとう涙目になり始めてしまった。

 そして、そのままの体勢で口を開いた。

「ごめんなさい、レイさん……その、私の口からは、ちょっと……」

「わかった。ごめん。このことは忘れよう」

 人には人の事情がある。話したくないのならば詮索などできようもない。

 僕は気まずくなった食卓を離れ、自室に戻った。



 その日の夜。順次入浴することになったときにはもうイーリスはいつもの調子を取り戻し、僕に対しても普通に振舞っていた。僕の方はそうはいかない心境だけれど。

「じゃあ私浴びてきますね」

「ごゆっくりね」

「ありがとうございます!」

 イーリスは木の軋む廊下を小走りで浴室へ向かった。

 さて、僕は工房の方へと向かう。僕も反省する生き物なので、残念ながら工房の扉をノックすることを覚えた。

 コンコン。

「はい、どうぞ」

 ミークがしっかりと返事をしたのを確認して工房へ入ると、隅に片付けてあった小さな丸いテーブルと椅子が、いつの間にやら真ん中に据えられていた。

 このテーブルと椅子は祖父がここで食事を取ったりするときに使用していたもので、たとえば調合鍋を火にかけているときはそのすぐ近くにこのテーブルと椅子を置いて、鍋を見張りつつ簡単な食事を済ませたり、本や新聞を読んだりしていた。

 今はミークがそのテーブルの上に本を広げ、どうやら持参したらしい綺麗なカップを置いていた。カップからは湯気が立ち昇り、甘くて優しい香りが部屋を包み込んでいる。どうやらカップの中身はホットミルクらしい。

 部屋に取り付けられたオレンジ色のちょっとほの暗い照明と、ぱちぱちと心地よいリズムを刻んで光と暖かさを届ける小さな暖炉の火がホットミルクの香りと温もりに相まって、工房の空気はどこまでも優しさに満ち溢れていた。まるで子どもの頃に戻って、母親の腕の中に還って行くような、心地良さ。

「飲む?」

 ミークが聞いてくる。メイドとしての敬語ではなく、友人として、幼馴染としての気取らない口調で。そんなミークの存在もまた、この工房の優しさの要素の一つなのだろう。

「ありがとう。じゃあ、もらおうかな」

 そう言って僕はテーブルに近づいて行った。まるで僕がここに来てホットミルクを飲むことがわかっていたかのように、テーブルにはカップが三つ置かれていた。うち一つは空だが、さっきまで中身が入っていたらしく、それを飲んだ形跡もある。イーリスが使っていたものだろう。もう一つはミークのものらしい飲みかけ、最後の一つはまだ使われていなかった。

 ミークはポットを持ちあげてその未使用のカップにホットミルクを注いでくれた。

「はい」

「ありがとう」

 僕は二つ置かれていた椅子の一つを引いて座り、テーブルに着いた。椅子は最初から二つしか部屋に置かれていない。

 僕が座ると、間髪容れずミークが口を開いた。

「何か、お話?」

 テーブルに腕をついて、広げていた本を閉じるミーク。僕は温かいホットミルクを一口飲み、その優しさを全身で感じながらミークのほうを見た。

「話があるって、わかる?」

「そりゃあ、幼馴染だもん」

 ミークが微笑んだ。なんだか、嬉しい。

「で、何のお話?」

「イーリス、彼女の……体についてだけど」

「えっ、お嬢様の体に興味があるの?」

 ミークがずわっとこちらへ身を乗り出してきた。見開いた目は驚き半分、呆れ半分といった感情がこもっていた。

「……僕をロリコンの変態だと勘違いしてないかい?」

「正解じゃないの?」

「……一応否定はさせてもらう。話はそれではなくて、あの髪のことだよ」

 イーリスの体についてはまた今度じっくり聞かせてもらうことにする。

「本人は言いたくないみたいだけど……何があったの?」

 本人が言わないのだから担当のメイドに訊いても言ってくれないだろうとは思ったが、一応訊いてみることにした。すると、ミークは意外にも平静を保った顔で答えてくれた。

「ああ、あの髪は魔力付与の副産物よ」

「付与?」

「人間の魔力ってどうにも不安定で、単発の攻撃を繰り出すのなら破壊力や精度が多少上下するだけで済むけど、お嬢様のように精密なマジックアイテムを作るには常に均一な力を発揮できるようにしたいわけ。そこでお嬢様とローゼ様は特定の魔力付与を行なったの」

「……なるほど」

 ミークの言う通り、呼吸や脈拍がその時その時で安定しないのと同じように、人間が放つ魔力の強さや方向性が安定しない。普通は不安定な人間の魔力を安定させるため、自然が持つ特定の力の波長を取り入れる行為のことを魔力付与と呼ぶ。これを行なうと術者の魔力はかなり安定性が増すが、矯正をしている以上ある程度の指向性が生じてしまう。ある方面の魔法については大幅に安定性が高まりパワーも出しやすくなるが、反対に別な方面の魔法が使えなくなったりパワーが極端に落ちて疲労度が上昇したりする。魔法で戦う者にとって攻撃がワンパターン化することは好ましくないのであまり使われないが、たとえば浄化のアクセサリを作ったりする職人ならば、浄化の力を持つ銀の魔力を自らに付与したりすることは珍しくない。

 そして、魔力付与を行うと大抵何かしらの副産物をもたらすのである。

 たとえば銀の魔力を付与すると、髪や瞳の色が銀色になり、日光に弱くなったりするなど、付与したものの特性が術者にも少なからず現れる。

「ということは、イーリスは……」

「お嬢様はブルーマーリンの道具に対して、魔力の安定制御をするための装飾を施すことに秀でていたの。そこで、それに特化した力を付与なされて、髪があの色になっちゃったわけ」

 なるほど、と僕は合点がいった顔をして言った。

「ふーん。じゃあ制御の力って、何の力なの?」

「お嬢様が身につけたのは銀の力。高い対魔法性を持った力よ。決して暴走せず、魔法の力を使い手が受け止められるようにって意味らしいわ」

「ああ、そういうことか。わかりにくいなあ」

「まあ確かに、あんなにすごい銀色になるなんて誰も思ってもみなかったから、ブルーマーリンでは大騒動だったわ。これじゃあシルバーマーリンになっちゃうって」

 どうやらたいして深刻な騒ぎにはならなかったらしい。

 しかしミークは冗談を言った後としては相応しくなく、首を傾げていた。

「でも、本当になんであそこまで強い銀色になったのかしら?」

「きっと、それが一番かわいいからじゃないかな」

 僕の言葉にミークは数秒間固まって、一気に顔を紅くした後に笑顔になった。

 本当にこのメイド、イーリスの傍にいて大丈夫なのだろうか……


 翌日。

 さっそく今日からイーリスに稽古を付けなければならない。

 が、一体何をすればいいのかわからない。

 朝食を終えた食卓で、僕はイーリスと珈琲を飲みながら今後の方針を話し合っていた。ちなみに今日の朝食はミークが作ってくれた。パンに卵焼き、サラダという献立。シンプルだがまごころのこもった料理だった。

「んーと、そうですね、私としては市場に直に触れたいと思っていただけですので……」

 イーリスは漠然とした答えを返してくる。僕自身が教えられることがない以上僕に何を言っても仕方がないのは確かだが、どうにも僕が役立たずみたいな気がして少しへこんだ。

「ルイーネ堂さんはこの街に住む職人さんの作品を委託販売しておられると聞いて、これは多くの職人さんと接することができるし、広く勉強ができると思ったからなんです。あ、もちろんお師匠様の腕にも学ばせて頂きたいと思ってますよ」

 なんだか僕をカモにしたような目的に聞こえたと思ったのか、イーリスは慌てて一文を付け加えた。

 それと、先ほど朝食の席で決めたことなのだが、イーリスが僕を呼ぶ際の呼称は『お師匠様』になってしまった。普通に『レイさん』とでも呼んでくれ、と言ったのだが、仮にも師匠である僕をそんな親しげに呼ぶのは憚られるという理由でイーリスに却下され、『師匠』『お師匠』は品がないとしてミークに却下された結果、呼称は『お師匠様』となった。『先生』ではダメだったのかとミークにそっと聞いてみたところ、どう見ても僕は先生っぽくないからじゃないかと返された。

 ともあれ。

「じゃあ今日のところは、まず午前中の時間を使ってお得意様のところをいくつか回ってみようか。せっかくエルガロードまで来たんだし、人脈を築くのも君の目的に符合するだろう?」

 そうしてしまえばお得意様の方々がイーリスにいろいろ教えてあげてくれて、僕は何を教えようかと悩まなくて済むかもしれないし、と心の中で付け加えておいた。

 イーリスはぱあっと顔を明るくして大きく頷いた。

「はいっ! お願いします、お師匠様!」


 朝の混雑の時間を過ぎていたこともあって店の前の通りはもう空いていた。ミークもついてきたので三人で歩くことになったが、人の少ない道中は三人連れでもそれほど苦ではなかった。

 さて今日の行先だが、ジュエルはいつも工房に籠っているもののアポなしで訪れると怒られてしまう。ただし貴重な素材や美味しい食べ物をたくさん持っていればいつでも大歓迎してくれるのだが、当然そんなものを用意する金はないので、今日はジュエルの工房には行かないことにした。アポを取るための手紙だけ書いてきてあるので、道中で投函しよう。

 そこで僕がまず初めに選んだ行先は、市庁舎のある町の中心部付近……の、裏通りだ。

 これから向かう場所はミークもかつてよく訪れていた場所で、僕とミークはそこの主人と親交がある。イーリスは僕の後をとことことついてきて、ミークはその後からすたすたとついてくる。

 ……どうも落ち着かない。

 というのも、眩しい銀髪に純白のワンピース、金色のネックレスを提げたイーリスと、今日も今日とて紺色のメイド服をきっちりと着込んだミークがいれば、商業地区だろうが中心部だろうが否応なしに人目を引いてしまう。ましてやその二人を、適当な格好をした若い変な男が率いているのだから、より一層人の視線が集まり、より一層人の視線が気になる。

 道行く人の視線を無言でやり過ごすのに耐えかねたのか、大通りを渡るときにイーリスがそっと話しかけてきた。

「あの……お師匠様、こんなところに工房があるんですか?」

 僕は振り向かずに答えた。

「うん、ご指摘もっとも。んー、そうだね。これから行くところは、工房ではないんだ」

「えっ?」

 イーリスの足が一瞬止まった。すぐに歩調を戻すが、驚きと疑問の表情は崩さず、若干語気を強めて彼女は言う。

「じゃ、じゃあ私たちは、いったいどこへ向かっているんですか?」

「もうすぐ着くよ」

 嘘ではなく目的地はもう目の前なのだが、イーリスはまるでクリスマスプレゼントの中身を隠されたかのように子どもっぽい仕草で頬を膨らませると、

「変な所に連れて行ったら……真っ二つですからね」

 と、子どもっぽさの欠片もないような声で言った。


 数秒後。

「着いたよ、ここだ」

 僕ら一行は、市庁舎近くの裏通りにある小さな色あせた建物の前に立った。

「ここ……なんですか?」

 イーリスは三階建ての小さな建物を見上げて、看板を探し始めた。だがそれも徒労である。ここには看板などない。

「ここはお店や工房じゃないんだ。ただの個人宅だよ」

 表札もないが。

「個人宅なんですか? どうしてこんなところに来たんですか」

 イーリスの口調は疑問のそれに段々と怒気を含んできた。職人と人脈を築くと言ったのだから、無理もない。工房はもちろん商業地区近辺に多いわけだし、それゆえに工房を離れてこんな街中に好んで住む職人などほとんどいないからだ。

 だが、イーリスをここへ連れてきたのは、もちろん目的があってのことである。

 ここには『確実にイーリスにものを教えることができる人間』がいるのだ。当然、ミークは誰が住んでいるか知っているので、イーリスが苛立っても何も文句は言わない。ただ、僕のフォローもしてくれないが。

「ま、見てなって」

 イーリスの質問を受け流して、僕はその建物のドアを開けた。

「こんにちば」

 軽く挨拶をするが、ドアを開けた途端に肺に流れ込んできた冷たく埃っぽい空気のせいで少しむせそうになってしまった。イーリスも同じだったらしく咳き込みそうになっていた。ミークは平然としている。

 建物の内部は窓の少なさゆえか昼間だというのに薄暗い。室内は洞窟か、あるいはワインの貯蔵庫のようにひんやりとしており、埃の間に少しのかび臭さと紙の匂いが漂っていた。

 紙の匂いの発生源は、薄暗い空間に並んだ背の高い本棚である。そう、ここは図書館なのだ。本にも目にも悪そうな環境だが、図書館である。

 そんな暗い図書館の中に一か所だけ、ぼんやりと暖かい明かりが灯った場所がある。ここの主はいつもそこにいるのだ。もちろん今日もそこにいた。ここからはよく見えないが、彼女の表情は決まって仏頂面である。

「いらっしゃい。お久しぶり」

 抑揚のない小さな声で、ここ『ナレッジ魔法図書館』の主である少女、シアス・ナレッジが挨拶をした。いつものようにカウンターに置いたロッキングチェアに揺られながら本を読んでいる。

「やあシアス、久しぶり」

「はい」

 僕が近づいていっても本から目を上げることなくぽそっと言うだけだったが、決して僕が嫌われているわけでも、彼女が怒っているわけでもない。元来こういう人なのだ。あまり喋りたがらないし、動きたがらない。ジュエルとは正反対な人である。

 しかしながら、動きたがらないだけで体を動かすこと自体は苦手ではなく、むしろ体術も結構得意なのだと聞いている。余談だが、もしシアスが怒ると、彼女は泣きながら相手をグーで殴って十メートルくらい吹っ飛ばす。うっかりシアスのコンプレックスに触れてしまった経験者が言うのだから間違いない。

 そういえばジュエルは怒ると笑顔で相手を踏み付けるんだった。全くもって正反対な二人である。

「今日は何のご用事?」

 本から目を上げていないので、シアスはミークとイーリスの存在に気付いていないようだ。

 この図書館はもともとシアスの祖父が運営していた私立のものだったが、彼は数年前に楽隠居なされ、孫のシアスがそれを継いだ。彼女の両親も健在なのだが、シアス自身の希望でもあり、何より『本の虫』の表現が相応しい彼女こそここの司書に相応しいという祖父の意向もあって、シアスがここを継いだらしい。

 そして、このシアス・ナレッジにはある特徴がある。

「今日は弟子を連れてきたよ」

「弟子?」

 そこで初めてシアスは顔を上げた。そして、まずミークに気付いたようだ。

「わ、ミークじゃないの。元気だった?」

「ええ」

 シアスは僕を睨む。

「ははーん、さてはレイ君、ミークを弟子という名目でお店に住まわせて、一つ屋根の下で云々?」

「そうだったらいいのになぁ」

 ミークに殴られた。さすがに十メートル吹っ飛んだりはしなかった。残念。

「もちろん違いますわ。私は弟子の方の付添人」

「付添人?」

 と、そこでようやくシアスはイーリスの存在に気付いたらしい。シアスもイーリスも背が低いから、カウンター越しには存在に気付きにくい。

「ああ、あなたがお弟子さん?」

「は、はい。イーリス・マーリンと申します」

 若干恥ずかしがり屋なイーリスだが、そこはさすが国一番の名門道具屋の娘。角度といい、手のやり場といい、お辞儀の姿勢は見事としか言いようがなかった。

 名前とその格式高い礼を見て、シアスはさすがに察したようだ。

「マーリンって……あの、ブルーマーリンの?」

「はい」

 一瞬の間をおいて、シアスは僕を指差しながら尋ねた。

「なんでこんな人のところに来たの?」

「…………」

 まあ、至極もっともな疑問である。

 イーリスはかくかくしかじかと説明した。

「……というわけで、僕が教えられることなんてないから、それならシアスを紹介しようと思って」

「あんまり紹介してほしくないんだけど……まあいいわ。私もブルーマーリン製の道具にはよくお世話になるし」

 シアスは肩を落としながらも微笑んだ。

「あの……」

 イーリスが僕をつつく。ああ、そういえばまだイーリスにはシアスの紹介をしていなかったか。紹介すると言っておきながら紹介が遅れてしまった。

「ああイーリス、紹介するよ。こちらはシアス・ナレッジさん。知ってる?」

「え?」

 イーリスは目を丸くした。

「し、シアス・ナレッジさんって……あのエルガロード大学を十三歳で、しかも二位にトリプルスコアの大差をつけて首席卒業した……?」

「そう、あの伝説の超天才巨乳美少女だ」

 次の瞬間、僕の体はシアスの拳で十メートルほど空を飛んでいた。僕は鳥になったのだ。


「まったく……なにが巨乳よ……」

 涙目になったシアスが肩で息をしながら怒りを鎮めようと努力していた。肩の動きに合わせて、胸のあたりが揺れる揺れる。

「コンプレックスなのに……」

 胸が小さくて悩む人は多いと聞くが、大きくて悩む人もいるのか。

 実際、シアスは年齢の割に胸が大きいことで評判だった。それでいて身長は低く、顔も童顔だったので、ある種の嗜好を持つ男性には大人気だったらしい。わずか一年の大学時代の間に三十八回プロポーズされたんだとか。無論、全て断ったとのことだったが。

 ともあれ、そんなこんなで目立ってしまうのを嫌ったシアスは大学には残らず、図書館運営と執筆の毎日だそうだ。本人としては行方をくらましているつもりらしいが、役場や大学の人で彼女の所在を知らない者はいない。ただ、それでも本人が表舞台に立ちたくないのならばと配慮してか、親しい者を除き、必要がなければ彼女を訪ねる者はいない。

 シアスが必要となるときとは、主に高度な魔法研究の補佐や監督、それと町の非常事態時である。

 シアスは大学時代から今に至るまでに、魔法分野で多大な功績を上げ、またその魔力自体も非常に強力である。シアス・ナレッジこそ我が国一番、いや、世界一と言っても過言ではないほどに強大かつ優秀な魔術師なのである。

 なので、たとえば町がひどい災害に見舞われたりした場合、シアスは防衛から復興まで、第一線で活躍することになるのだ。

 もっとも、幸いにもエルガロードでは近年大規模な災害の発生例はないので、シアスも川の氾濫や土砂崩れ、海難事故への対処程度の仕事をたまに行う程度である。

 それほどの大魔法使いならば、イーリスにとっても知り合いになるのは極めて益が大であろうし、シアスにとってもブルーマーリンとの縁ができるのは良いだろう、と思ったので、最初にここへイーリスを連れてきたのだ。

 そして僕の目論見はどうやら成功したようで、先ほどまで不信感でいっぱいだったイーリスのオーラは今や満開の花畑のようである。そして僕にキラキラした目を向けると興奮した調子で言った。

「レイさん! あ、いえお師匠様! 本当にありがとうございます! シアス・ナレッジさんと知り合えるなんて、なんという僥倖でしょう! わざわざ国の反対側まで来た甲斐があったというものです!」

 いや何、これほど喜んでもらえたなら師匠冥利に尽きるというものである。何も教えてはいないし僕と出会えたこと自体に意味はないという言葉だった気がしないでもないが、イーリスの笑顔に比べればそんなことは些事に過ぎないだろう。

「シアス先生! 今後とも! ブルーマーリンともどもどうぞよろしくお願いします!」

「は、はい……こちらこそ」

 興奮加速が止まらないイーリスが、カウンターに手をついてシアスのほうへずずいっと身を乗り出した格好で言う。

お陰様で、シアスは何を言うまでもなく押し切られてしまった。

 と、次の瞬間、今度は僕に向ってイーリスがずずりっと顔を近づけてきた。

「お師匠様! 私これからもちょくちょくここに来たいです! 本もいっぱいありますし、シアス先生から学びたいことも多いので!」

 どうしても僕から習うことはないのか。まあ、最初から僕は期待されていなかったが。

 まあそんなことはいい。僕としては不都合なことはない。しかし念のためシアスにも了承を得なければ。

「んー、シアスはどう? イーリスが今後ちょくちょく来るかもしれないけど」

 シアスはいつの間にか再び読書に戻っていた。いつもと全く同じ場所で、あたかも何事もなかったかのように。

 東洋にはお茶を運んでくれるからくり人形があるらしいが、シアスはお茶を飲んでページを捲るからくり人形のようだ。ただしその頭脳のからくりが解き明かされる日は未来永劫来ないだろう。

 紅茶を飲みながらシアスは答えた。

「私は別にいいよ。ここから出ることもほとんどないし、蔵書を大切に扱ってくれるなら来てくれても大丈夫よ。あ、でもここの会員になってね」

「会員?」

「ここで書架の閲覧をするには有料会員登録が必要なの。いくらレイ君のお弟子さんといえども贔屓はできないわ」

「はい」

 イーリスは元気に返事をした。会員料を聞かずに決めてもいいのだろうか。

ちなみに、僕もきっちりお金を払って会員になっている。これはシアスがケチだからではなく、彼女が秩序を重んじるが故の決め事なのだ。もっとも、有料会員といってもそう高価なものではないので、結構会員は多い。

 ちなみに有料会員になる必要があるのは書架の閲覧と貸出だけなので、こうして入り口でシアスと話す分にはお金は必要ない。ただしいくらお金を積んでもシアス自身は攻略できない。難攻不落である。

「それじゃ、今日は挨拶をして回ってる段階なんで、また来るよ」

「ええ、また来てね」

 相変わらず無愛想な態度だが、そもそもシアスが口を開いてくれること自体が信頼の証でもある。そんな彼女から出たこの言葉は、正直嬉しかった。

シアスが住むナレッジ魔法図書館の蔵書数は、およそ四万五千冊。小難しい魔法理論から、人皮装丁の稀覯本、くだらない漫画まで含まれている。シアスのお気に入りは『チキンを食べて異世界へ行こう! ~平凡高校生、再誕の時~』。

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