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第二章 騒動

 ルイーネ堂のドアがゆっくりと開いた。

 いや、開いたと言ってもちょっとだけ、店に入るというよりは中の様子を窺うかのような開き方だった。僕はわずかなドアの隙間を注視し、少し警戒心を高めた。最近は魔法テロリストなんかが出回っているらしいので、カウンターの中には鈍い銀色をした拳銃をいつでも取り出せるように常備している。

 ……しかしなかなかどうして、銃というものは心強い。戦闘経験のない貧弱な僕でも、人差し指に力を込めるだけで戦える。できれば戦いたくはないが、今は時代が時代である。

 やがて、ドアをちょっとだけ開いていた張本人が、隠れるように顔だけ……というか目だけ覗かせた。魔法テロリストだろうか。

 ……そんなはずはない。

「あ、あの……」

 その顔は予想していたより随分低い位置にあった。声からしても、かなり幼いとみえる。

「どうしました?」

「こ、こちら……ルイーネ堂さん……ですよね?」

 か細い声を出した幼い客は、少しずつ申し訳なさそうに体も入店なさった。

 見た目、十二歳くらいだろうか。髪には魚のカジキを摸した青い飾りのついたピンを付け、ワインレッドの服装はまるでお嬢様学校の制服のように綺麗だ。大きなリュックサックのようなものを背負っている。

 そして、リュックサックに覆い被さるように垂れた彼女の長い髪は、若干青みを帯びた銀色をしていた。それはもう銀髪などという領域ではなく、文字通り『光り輝いて』いた。

 僕は彼女の髪を見て、貴金属の光沢よりも先に鋭利な刃物を想像した。ナイフというよりはレイピアのような細い剣を喉元に突き付けられたような、そんな気分。

 一瞬彼女の髪に目を奪われながらも改めて全身を見ると、魚の髪飾り、異常に綺麗な服装、大荷物。そして何よりも、人間の髪とは思えないほどの光沢を放つ長い銀髪は、いろんな人が集まる国内二位の魔法都市であるエルガロードとはいえ、明らかに彼女を浮かせてしまう。容姿として様になってはいるが、それがかえって見る者を虜にしてしまいそうなほど美しくて、よりいっそう彼女の姿を浮かび上がらせてしまうだろう。

 そして、その姿は僕の懸案事項を作り出した要因と重なった。

 とりあえず僕は訊かれたことに答えることにした。

「ええ、どうやらルイーネ堂です」

 女の子は店内をぐるりと眺めると、僕の方を向いた。後ろ手でドアを閉めようとはしていたが、きっちりと閉まりきっていないのがちょっと気になる。

「あの、私イーリス・マーリンという者なんですけど……」

「ああ、お手紙を頂いておりますよ。初めまして、レイ・ルイーネです」

「ああ……よかったぁ……」

 なにがよかったのかよくわからないが、随分緊張していた女の子は僕の名を聞くや否や、人ごみの中ではぐれた子どもが知人に出会って安心したかのような表情を見せると、背筋を伸ばして自己紹介をした。

「初めましてルイーネさん。メートヒエンから来ました、イーリス・マーリン、十三歳です。えっと、父からのお手紙で既にお話が行っていると思いますが……」

 メートヒエンとは、我が国の首都のことだ。エルガロードとはちょうど国土の正反対の位置にある、巨大な都市だ。平野部に発展し、あらゆる産業が発達していて人口もエルガロードよりはるかに多い。

 イーリスと名乗った少女は、さらに背筋を伸ばして言った。

「あの、ここで修行をさせてもらいに参りました! よろしければ……その、よろしくお願いしますっ!」


『魔法店 ブルーマーリン』

 数か月前に僕が受け取った手紙には確かにそう書かれており、カードの隅にはその店を象徴するカジキのロゴマークが描かれていた。

 魔法店ブルーマーリン。ここから遠く離れた首都メートヒエンのほぼど真ん中にある、魔法工房としては最も知名度が高く、最も信頼される超高級ブランド。いわばこの業界のカリスマともいえる一番の名店なのだ。エルガロードでも、同業者の僕のみならずほとんどの市民が知っているほどである。

 ブルーマーリンはかつて漁具に魔法の力を付与するという珍手で成功を収め、それ以来漁具の製作と魔力付与の両方を行なっている工房である。現在も主な商品は漁具だが、軍が使用する武器も作っているらしい。軍部のことなので情報があまり出回っておらず詳しいことはわからないが、魔法を使う相手に対して通常の兵器は効果が薄い場合があるために数年前から納入していると聞く。しかし、やはりどうしても値段が高くつくのでもっぱら対魔法使い用に設置されている特殊部隊にのみ配備されているのだとか。

 そして、そんなブルーマーリンの当主の姓はマーリンである。つまり、この女の子イーリス・マーリンは、幼くしてマーリン家に嫁入りした娘ということである。

 ……そんなはずがあるまい。

「はい。ブルーマーリンの現当主、ランツェ・マーリンの長女です」

 ……当たり前だった。

 イーリスの態度も最初に店に入ってきたときこそおどおどしていたが、ブルーマーリンの名が出る時に限り、凛とした強い声で喋っていた。格式高い店だからだろうか。

 さてそんなお嬢様が僕の店にやって来た理由であるが、これについては少々複雑であった。

 ブルーマーリンの品は全てが職人の手作り。そしてその職人の師範は当主であるマーリン家が代々受け継いでいる。創始者にして一代でブルーマーリンの名を世間に轟かせた先代のオルデン・マーリン。その巧みな技を見事に継承・発展させた息子にして現当主のランツェ・マーリン。そして三代目候補であるこのイーリス・マーリン。

 実は彼女こそが、僕の懸案事項の原因であった。

 いや、もっと正確に言うならば、イーリス・マーリンについてランツェ・マーリンから数か月前に届いた手紙が、そもそもの原因である。

 その手紙の内容はこうだ。

『親愛なるレイ・ルイーネ。我が娘、イーリス・マーリンの弟子入りをお願いしたい』


「まあどうぞ座って」

 そう言って僕は店の壁際に寄せて置いていた椅子をカウンターの前に引っ張ってきて、イーリスに着席を促した。

「し、失礼します……」

「えーっと、あ、紅茶飲む?」

「あっ、はい、すみません……」

 イーリスが着席したのを確認して、僕は店の奥にポットとカップを取りに行った。ジュエルに作ってもらった特製の銀のポットを取り出し、森の泉から汲んできた上質の水を入れて蓋をする。

 エルガロードの良くないところのひとつは、水があまり美味しくないことである。このポットはジュエルのおかげで、水が若干美味しくなるという能力を備えている。原理は僕には全くわからない。

「はんぷ!」

 ポットに奇妙な掛け声を掛けるとお湯が湧いた。

 これもジュエルのおかげで、ポットに水を入れて呪文を唱えれば瞬時にお湯が湧く。加熱は初歩的な魔法ではあるが、魔法が使えない人や非常に力の弱い魔法使いのために、このポットにはあらかじめ魔力が込められていて簡単に魔法が扱えるようになっている。火で沸かすよりはるかに便利なのだが、そのためにあれこれ高価な材料が使用されており、普通のポットの数千倍の価格がする。さらに、いくら魔力が付与されているとはいえ魔法を使うにはその魔力を起動させなければならないので、これが意外と疲れるものなのだ。立派な魔法使いならば問題ないが、一般人なら火で沸かす方がむしろ楽であり、ゆえにこのポットは普及していない。魔法が社会から消えていったのも、この燃費の悪さが問題なのであった。

 ちなみに僕はポット一個分だけならたまたま材料を全て手出し出来たので、製作で余った材料の譲渡といくらかの手間賃だけでジュエルに作ってもらえた。もちろんこのポットを使えば疲れるので普段は使わないが、今は急ぎだ。おまけに僕は魔法使いでこそないが、職業柄魔法にはいくらか慣れているため、一回使うくらいなら、さほど疲れることなどない。

「はあ……はあ……お待たせしましたあ……」

 ……そんなはずはなかった。

 さて、瞬間湯沸かしポットで沸かしたお湯で淹れた紅茶を持ってカウンターに戻ると、さっきまで座っていたはずのイーリスは椅子の横に立っていた。そして、その隣にはもう一人、右手に大きな鞄を持ち、左肩には長い棒状の袋を担いだ人影が立っていた。日が傾いてきたせいで夕陽が窓から差し込み始め、ちょうど店内が逆光になって顔や服装はよく見えない。

「あ、いらっしゃいませ」

 カウンターに紅茶を置く。そうだ、まだ店は開いているのだ。客が少ない時間帯とはいえ客が来ないわけではない。

 慌てて接客に移ろうとすると、大きな鞄と長い袋を持った人物が礼をした。

「お久しぶりです。レイ君」

 声からして、若い女性のようだった。

 しかしこの声、どこかで聞き覚えがある……

 僕の動作が一瞬停止した後、記憶の底からある女の子の存在が浮かび上がってきた。

 そうだ、この声だ。

 忘れもしない、幼馴染の声だ。

「もしかして……」

 女性が逆光の店内で、小さくこくんと頷いた。

「えっ? えっ?」

 イーリスが目をぱちくりさせながら僕と女性を交互に見る。ああ、なるほど、イーリスは僕とこの女性が知り合いであることを知らないのか。というより、逆にこの女性はイーリスとはどういう関係なのだろう。

 状況が把握できていないようだがイーリスが女性を紹介してくれた。

「えっと、すみません、あの、私の同行者で専属メイドのミーク・マクマスター・ドルイットです……」

 イーリスが紹介を終えると同時に、ミークが二歩前へ出て、彼女の顔が僕の目にも見えるようになった。

 その顔には、まだ十歳そこそこのあの頃の面影がうっすらと残っていたが、あの頃よりもずっと女性らしく、そしてあの頃よりもずっと美しくなっていた。まだわずかな幼さと清純さを残しつつも、成熟した大人の印象。すっと背筋の伸びた正しい姿勢。年相応の膨らみを成す胸。大きなリボンで縛られてくびれの強調された腰。年相応の膨らみを成す胸。昔と変わらないふわふわの髪。年相応の膨らみを成す胸……

 綺麗だ。

 僕は懐かしさとともに、ミークの美しさに見惚れた。

 そんな彼女の服装は、メイド服。

 となると、この二人がどういう関係であるかは察しがつく。

 僕はミークの分のカップと椅子を追加で用意し、彼女も着席させて紅茶を注いだ。


 紅茶を片手に、改めて手紙の内容を三人で確認した。

 ブルーマーリンの現当主であるランツェによると、彼はすでに初老に達する年齢で、しかも最近になって重い病を患ってしまったとのことだった。まだ公にはしていないことだが、そんなわけで本人が急いで後継ぎを決めたいと言い出した。

 しかし、そこで問題が発生した。ランツェには第一子に息子がいたが、その息子は店を継ぎたくないと言う。彼は魔法工作の技術的には十分だが、作るよりは使う方に秀でており、工房を構えるよりは魔法騎士……要は軍の特殊部隊のほうに進みたいと考えているとのこと。

 さすがの当主も強制はできず、それならばと後継ぎの候補はランツェの第二子と第三子、イーリス・マーリンとローゼ・マーリンの双子の姉妹となった。

 この二人も幼い頃から兄とともに父や祖父に学び、兄に勝るとも劣らない高い技術を持っているという。さらに二人とも後を継ぐ意志があり、仲の良い二人で協力してブルーマーリンを継承してもらうのが一番である、との結論に達した。

 ところが、この二人には欠点があった。幼い頃から魔法工作に触れているのは良いのだが、それはブルーマーリンの中でのことであり、ブルーマーリンの影響しか受けていないも同然なのだ。

 ブルーマーリンの初代オルデン・マーリンと現当主ランツェ・マーリンは、他の店で修行をした後に当主となっている。ゆえにしきたりというか成り行きのような形で、後継ぎの者にも他の店での修行をさせる予定だったらしい。

 しかしランツェの子は三人ともまだ若く、父が健全な間は当主となる予定がなかったこともあってわざわざ他人の技術を学ぶようなことはまだしていなかった。当然、後継ぎの候補でなかったイーリスとローゼは兄以上に外部との関係が薄かった。

 当初ランツェはそこを然程気に留めておらず、そのままイーリスとローゼに跡を継がせようとしていたという。しかし、ブルーマーリンの内部で受け継いだ技術だけで完結してしまっては、父を、祖父を、そして兄をも越えられない。ブルーマーリンの衰退を招きかねない、とイーリスとローゼは自分たちからランツェに進言したらしい。

 自分たちに修行をさせてくれ、その時間をくれ、と。

 そこで当主ランツェは急遽双子の娘を、よそに修行に出すことにしたのである。

 もっとも一度は修行の是非について一悶着あったようだが、最終的にランツェが折れた。

 そして、たまたま僕の祖父がオルデン・マーリンと多少親交があったために、イーリスの修行先としてルイーネ堂に白羽の矢が立ったとのこと。

 ちなみに、妹であるローゼは国内を南下して山あいにある鉱山都市で既に修行中らしい。僕とランツェの間でしばらくの手紙のやり取りが交わされた後に、イーリスは船で西方のエルガロードへやってきたということだった。

「事情はわかるけど、僕だって会ってみないとやっぱり承諾できなかったものでね」

 ランツェとの手紙のやり取りを続け、とりあえず僕はイーリス・マーリンに会ってみることにした。別に弟子を取りたくないわけではないが、会ったこともない人間を弟子にするのはさすがに嫌だったし、そもそもジュエルならともかく僕がイーリスに教えられることなどないに等しい。むしろブルーマーリンの技術を持ったイーリスから僕が教わりたいくらいであった。

 しかし、事情を聞く限りでは形式的にでも弟子入りが成立しさえすれば一応安泰なのだろうと思えたし、これによってほとんど親交がなかったブルーマーリンと良関係を築けるのであれば、僕にとっても美味しい話であった。諸経費も全額出してくれるどころか、それに謝礼まで乗っけてくれるそうなので、乗って損なしの願ってもない幸運だったのだ。

 とはいえ、とりあえずイーリスに会ってみなければならなかった。どんな人間が来るのかもわからないまま弟子入りを許可したりするのは危険である。そう思って僕は会ってから考えるとランツェに手紙で告げたが、イーリスはその僕の態度を否定の意の表明として受け取っていたらしく、随分頼み込むような態度で話している姿にそれが表れていた。

「迷惑は承知です……でも、私たちとブルーマーリンと、ブルーマーリンの品物を愛用して下さるお客様のためにも、私たちは急ぎで修行しなければならないのです。どうか、お願いできませんか?」

 断る気はない僕に対して、イーリスは真剣な口調で告げ、潤んだ瞳で上目遣いに僕を見てきた。

 イーリスに見上げられた僕の中には、新たな感情が芽生えていた。

 可愛い……

 ミークは少女の清純さと女性の魅力を兼ね備えたような容姿だったが、イーリスはまさしく少女の清純さ百パーセント、一点の曇りもない可憐さ。

 うおぉん、僕はまるでロリコンだ。

 ……そんなはずはあるかもしれないが、それはさておき。

「でも、僕は特に何も教えられないよ? そりゃあ道具の修理に関しては本職だからそれなりに自信持ってやってるけど、修理するのでなく作るのに関してはむしろ僕の方が教わりたいくらいで」

 イーリスはその目に力を込めて返してきた。

「別に、魔法工作を習うことだけが修行ではありません。世の中にどんな人がいて、どんな道具を好み、どんな使い方をし、どんな感じで壊れるのか。そういったことを学ぶには、様々な人が売り買いと修理に訪れるルイーネ堂さんが最適だと思ったんです。お願いします……」

 なんと、この店について調べた上で最適と判断して依頼したのであったらしい。てっきり祖父の筋で適当に名前が挙がっただけなのかと思っていたが、もしかしたらルイーネ堂を指定したのはイーリス自身なのかもしれない。そうなるといよいよもって断れないが……

 もしイーリスが僕の店について調べていたのであれば、イーリスは僕の素性もある程度知っているのではないだろうか。

 しかしイーリスが僕について知っていないことがあるのはわかっている。イーリスにとって身近な人間と僕が顔見知りであることを知らなかったくらいなのだから、僕ではなく店について調べただけだったのかもしれない。

 僕の思考がそこに至ったちょうどその時、イーリスが訊いてきた。

「あ、そういえばレイさんはミークとお知り合いなんですか?」

「あー、うん、実はミークと僕は幼馴染でね」

「え?」

 イーリスは目と口を開けて絵に描いたような驚きの表情を作った。僕は続けて説明する。

「家が近かったからよく遊んでたんだよ。途中でミークが親衛軍に入っちゃった後は連絡も取ってなかったんだけど、まさかメイドさんになってたなんて」

 僕とミークは物心ついたときにはすでに一緒にいた。いつもこの商店街で遊んでいたものだ。メインストリートを南下した広場にある噴水の縁に腰掛けて言葉遊びをしたり、近所の店のいけすに入った鱒を眺めたり、お小遣いをもらったら一緒にアイスクリームを食べたり、僕がミークの胸をぺしぺしと叩いて「ぺったんこだー」と言ったりしていた。

 しかしそれも小さい頃の話で、十歳になる頃にはもう一緒に遊ぶことは少なくなり、ミークは弱冠十四歳で抜群の射撃スコアを出して親衛軍に志望入隊した。

 昔からミークは何事においても命中率が高かった。的当てだろうと、サイコロを使ったゲームだろうと、明日の天気だろうと。

 ともあれ、僕はミークが親衛軍に入って以来一度も会ったことがないし、手紙をもらったこともない。風の噂で、親衛軍狙撃部隊にいることを耳にしたが、ずっと音信不通のままだった。

 それがまさかメイドさんをやっていただなんてとても信じられない。家事は好きだったミークだが、一体何がどうなって今の職に就いているのか見当もつかない。

 そんなミークが、今は僕の店で紅茶を飲んで笑顔である。感動の再会。

 感動の再会ついでにミークからも一言。

「私も、まさかこの店をこんなに若くして立派に切り盛りできているなんて思ってもみませんでしたわ」

「……相変わらず心配性だね」

 その割には手紙も寄越さなかったんだね、と心の中で呟いた。まあ、軍人というくらいだからやっぱり忙しかったのかもしれないと自分で自分を納得させた。

 しかし、ミークの世話好きな性格は昔と変わらない。十歳頃から軍に入るまでの間も、一緒に遊びに出かけることこそ少なくなったが、よく店へは来てくれていたものだ。

 おっと、このままでは昔話に花が咲いてしまう。まずはイーリスのことだ。

「まあとにかく、うちでいいのなら修行の件は了承するよ」

 イーリスの顔が一気に明るくなり、まるで花が咲いたかのようにすら見えた。

「ほ、本当ですか!?」

 ずっと断られると思っていたのであろうイーリスの驚きは大きかったらしい。

「ああ、幸い奥の工房も今はあまり使ってないから貸してあげられるしね。僕はこの店舗兼自宅に独り暮らしだから自由も利くし」

 と、住居に関して考えたところで大事なことを思い出した。

「あ、でも住まいはどうするの? ミークの家はもう売っちゃってるよね?」

「ええ」

 ミークは十四歳のときにエルガロードを離れ母親と共にメートヒエンに引っ越した。同時に、生まれた時から住んでいた家を売り払っていたのだった。

 エルガロードは面積的にはあまり大きな街ではない割に訪れる人々が多いから、宿はすぐ埋まってしまうし、長期の滞在ができる宿は少ない。

 さらに、イーリスと同じように工房への弟子入りをして貸し部屋を借りている人もたくさんいるから、貸し部屋の空きを見つけるのも大変だ。

 その旨を伝えると、イーリスはなぜかきょろきょろとルイーネ堂店内、というよりはこの建物全体を見るように首を動かし、ミークはなぜか俯いてもじもじしていた。心なしか、顔が赤いようだが夕陽のせいだろうか。

 やがて建物の査定を終えたらしいイーリスが僕に向き直ると、遠慮した声で質問してきた。

「あの……こちらに空き部屋ありませんか?」



 僕はイーリスとミークを先導して、扉を開けて木で出来た五段の階段を降りて行った。無駄に大きい工房は半地下になっているので、この五段の階段を降りると工房の床の高さになる。

 階段を降り切ったところで振り返って、二人を招き入れる。

「はい、ここだよ」

 古い木製の大きな机。薬品棚。大量の本が並ぶ本棚。石や金属の冷たさが感じられる作業台。薬箱。道具箱。無数の引き出しのついた棚。壁に寄せて置かれた修理用機材の数々。

 設備としては全体的に古いが、平均的な道具屋と比べても十分立派な工房ではあると思う。

 さすがに名店ブルーマーリンの後継ぎ候補となるとお気に召さないかと思ったが、イーリスの方を見ると目をキラキラさせつつ部屋の中を見回している。案外気に入ってくれた様子だ。

 工房を貸すことを許可した後、ここに住まわせてくれないかという話まで出てきたところで、僕はこの工房にある『とても大きな家具』の存在を思い出したのだ。

「あ、でも綺麗じゃないですか。このままでも寝れそうですよ」

 祖父は僕に店番を任せて、お弟子さんと数日もの間ずっと工房に籠ることもあった。そこで仮眠を取ったりするために、祖父は工房に二段ベッドを置いたのだった。

 僕は自分の部屋で寝ているので、今はここで寝ている人はいない。そのため布団は片付けていたが、思ったよりベッド自体の状態は良好だった。

 美少女二人と一つ屋根の下……という天国を僕が断わるはずもなく、イーリスはこれから一年間、僕の店で修行をすることとなった。

 そして、今は工房兼寝室となるこの部屋へイーリスとミークの荷物を搬入している最中である。工房の他にも空き部屋が一つあるのだが、もともとは祖父の部屋なのでベッドは小さめのものが一つだけ。さすがに二人のうち一人だけ工房で寝てもらったり、小さなベッドで美少女二人を絡め合わせたり、ましてや僕のベッドで一緒に寝ることを強いるのは非常に嬉しかった為、多少室内の空気が悪いかもしれないが工房で寝てもらうこととなった。

 これから一年間生活する場を眺め終えたイーリスが僕に駆け寄ってきて、深々と頭を垂れた。

「とってもいい工房ですね! ありがとうございます!」

 イーリスは心の底から嬉しそうにしている。彼女は満面の笑顔でさっそく荷物の整理にかかった。

「じゃあ僕は店の片付けをして夕食を作るよ」

「手伝いましょう」

 ミークがついてきた。

「あ、私も……」

 遅れてイーリスも荷物整理の手を止めた。

「いや、いいよ。荷物の整理とかあるでしょ? こう見えても結構料理は得意なんだからね、僕」

「……」

 僕の言葉を聞くや否や、ミークの顔が引き攣った。

 まずい。とりあえず自分をフォローしておく。

「あー、いや、そりゃあ何年も一人だから……ね?」

「そ、そうですわね」

 とりあえず信頼してくれたようだ。

 それもそのはずで、僕は昔ミークに手料理をご馳走したことがあるのだ。そして、ご馳走したのはいいのだが、無謀にもそのとき僕は人生で初めて料理をしたのだった。

 結果。

 ミークは一口食べただけで顔面蒼白、拒絶反応を示して翌日には熱を出してしまった。

 幸い一命は取り留めたが、それ以来彼女は二度と僕の料理を口にしようとはせず、時折食事を作りに来てくれるようにまでなってしまった。

 しかし僕にも学習能力というものがある。あれから月日も経って、僕の料理の腕だって少しは上達しているはずである。現にミークがエルガロードを離れてからは毎日自分で食事を作っているし、それなりに自信はある。

 ……誰にも味見してもらったことはないが。


「ごはんできたよー」

 そう言って僕は何の気なしに工房の扉を開けて中を覗き込んだ。

「あ」

「あ」

 見事に僕と彼女の表情が揃った。

 工房のベッド辺りにはイーリスとミークが抱えていた荷物が整理して置かれ、テーブルにはいくつかの小物と、布類。

 そして僕の視線が向いたその先には、ふわりと揺れる紫がかった黒のショートカットの髪、白砂のように白く美しい肌、エプロンドレスを纏めていた腰のリボンなしでも綺麗にくびれた腰、そして……

「…………!」

 メイド服の上からだと年相応程度に見えたが、こうして直に見ると、予想以上に豊かに膨らんだ……

 ミークの、胸が、露わに。

 一瞬、時間が止まったかと思った。

 心臓も止まったかと思った。

「ご、ごめん!」

 ばたんと勢いよく扉を閉めた。

 閉めた扉に背をもたれかけて、僕は一息入れた。

 ああ……

 眼福……

 ……そんなはずは……いや、いや。

 全く意識していなかったが、ミークも二十一歳の女性である。幼馴染とはいえ、僕に裸を見られたとなるとこれは大変なことだ。もうお嫁に行けなくなるのではないか。そうなると、僕がプロポーズするべきなのか?

 ……それがいい。

 まあそれはともかく、どうやら僕は初日からとんでもないことをしでかしてしまったようだ。

 しかしそれにしても、実に形の良い胸だった……。

 もう一生脳内から消えないであろう絶景を反芻し、一人罪悪感と幸福感に浸っていると、急に背中の支えを失って僕は後ろ向きに倒れた。

「うわああああ!」

「きゃあっ!」

 轟音と共に衝撃が走り、体のあちこちを痛みが走りまわっていた。

 どうやら、僕がもたれかかっていた扉をミークが内側から開けたらしい。そのため背をもたれかけていた僕が倒れ、ミークがそれを支えきれず、二人して工房の入り口にある五段の階段を転げ落ちて、現在に至る。

「あいたた……ミーク、大丈夫?」

 うつ伏せ状態だった僕はゆっくりと体を起こすと、顔から何か柔らかいものが離れた。同時に何かいい香りがする。

 そして、ミークと目が合った。

「レイくん……」

 目が合ったままのミークの白い頬が、ぼわっと一気に赤くなる。

 階段を落ちた結果、ミークが床に仰向けに、僕がその上にうつ伏せになって倒れ込んだと見える。

 となると、さっき顔に触れていた柔らかい感触は……

「レイくん……その……私、こういうのは……」

 僕は自分の顔のあった場所を確認する。間違いなく、あの形の良いミークの胸、だ。

「あの、レイくん?」

「お、おう」

「どいてくれない?」

 言うまでもなく、僕はミークのうつ伏せに倒れていたのだから、今の体勢は察しがつく。まだ痛む体を動かそうとした瞬間、扉の方から声がした。

「レイさん……? ミーク……?」

 扉の方を振り向くと、先程までの制服のようなワインレッドの服から部屋用らしいクリーム色のふわっとした服に着替えたらしいイーリスが、階段の上に立っていた。

「あ、あは。そうですよね! お二人は感動の再会を果たしたわけですからね! その、私がお手洗いに行っている間だけでも、あの、ちょっと激しくなったりしても、あははっ!」

 完全に誤解された。

「ち、違うんだイーリス! これには深いわけがあるんだ!」

「そ、そうですイーリスお嬢様! 私は決してお嬢様以外の方とこのようなことは……」

 どこか引っかかる台詞を飛ばしながら、またミークが赤くなっていった。

「えっ?」

 首を傾げるイーリス。

「あっ、いえ、も、妄想です……じゃなくて、妄言です、はい」

 ……この人、イーリスと同じ部屋に寝泊まりさせて大丈夫だろうか。そのうちイーリスが大切なものを失ってしまうんじゃなかろうか。

 そのときは僕が守ってあげるんだぁ、などと我ながら不思議なことを考えつつ、僕は場を仕切り直した。

「あ、はいはい、ごはんできたから。うん。さあさあ、食べよう」

 真っ赤になっているミークと混乱しているイーリスの背中を押して、二人を食堂へ連れて行った。


「あっ、いい香り!」

 さっそくイーリスがテーブルに並ぶ料理を見つけた。

「香草焼き! すごくいい香りがするわ……」

 テーブルに並べてあるのは、僕の得意料理である魚の香草焼きである。もちろんエルガロードで水揚げされた新鮮な魚を使った。今日はイーリスの歓迎とミークとの再会を祝し、魚は贅沢にもカジキを使ってみた。ブルーマーリンの娘にカジキを食べさせるのは皮肉とも取れるかもしれないと料理が出来上がってから思ったが、時既に遅し。

 香草焼きは作り方こそ簡単なのだが、いつも僕は普通の家庭で香草焼きを作る際によく使われるハーブの他に、いくつかの薬草を混ぜて作る。メインの香草焼きだけでなく、スープにも同様のこだわりがあって、健康に良いとされる材料がたくさん入っている。

 これは、東洋の食事の思想である“医食同源”をヒントに、僕が持つなけなしの魔法調合の知識を動員して作りあげた料理だ。僕が毎日元気でいられるのもこの食事を研究したおかげだと言っても過言ではない、と思う。

 ふむ、ここはひとつ医食同源レストランを開業してみるのも手かもしれない。まずは店の一角にカフェスペースでも用意してみるか。

 新たな事業の妄想を膨らませつつイーリスとミークを席に着かせ、とりあえず初めての夕食ということで少し挨拶をしておくことにした。

「えー、それではイーリス、ミーク、これから一年間、よろしくお願いします」

「お願いします」

「こちらこそよろしくお願い申し上げます」

「ではいただきまーす」

「いただきまーす」

「頂きます」

 至極簡単な挨拶だった。

「でもこれを本当にあのレイ君が作っただなんて……」

「ふっふっふ、驚いたかね」

「そりゃあもう、あんなことがあっては……」

 ミークは自分の香草焼きをナイフとフォークで切り分け始めた。一応彼女はイーリスのメイドではあるが、実家でも食事はできるだけ一緒に取るようにしていたらしい。大勢で食べる方が美味しいですし、別々に食べる必要性を感じないからです、とイーリスは言った。

 で、そのミークは僕の研究の賜物である香草焼きを一口食べたところで、ぴたりと手の動きを止めた。

「ん?」

 ミークはゆっくりと咀嚼して味わっている。あの時以来となる僕の料理に対するミークの評価が聞けるかもしれないと、僕は自分の食べる手も止めてミークをじっと見ていた。イーリスも気になるのかスープを飲みつつミークを見ている。

「これは……?」

「どう? ミーク」

「……何を入れたんです?」

「え? えーと、ローズマリー、セージ、タイム、オレガノ、アニス、アロエ、ローリエ、ファンネル……」

「あ、うん、わかった」

 せっかくいろいろ入れたのだが、ミークは全部言おうとした僕に掌を向けて制止する。そして、普通に食べ進めているイーリスの方をちらりと見てから僕に耳打ちするように小声で言った。

「あの、これ、まあ美味しいんだけど……」

「!」

 美味しい?

 ミークが今確かに言ってくれた。

 僕の料理を、美味しいと……

「ミ、ミーク……ほんと?」

 歓喜に染まり始めた僕を見て、ミークは少し顔を背けながら言った。

「美味しいんだけど……強いわ」

「強い?」

「なんというかその……強烈で……一口が精一杯」

「…………」

 猛省。

 どうやら健康を考えすぎてしまったようだ。薬も過ぎれば毒になるように。

エルガロードへは中世の魔法使い排斥運動による迫害から逃れてきた魔法使いが多数住んでいた。今も魔法工房が数多いが、そのどれもが小規模な個人店舗で、町の主な産業は鉱業と漁業である。立派な港が整備されており、数多くの漁船の他に、国際旅客港と軍港が存在する。名産品は燻製のニシン。

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