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遠い宙へとうたう歌

作者: 奈木

 吐く息も白い、しんと冷えた冬の夜。鼻を赤くさせて、見上げる空には奔る箒星。

 聞こえてきたそれは、声のようで、音のようで、歌のような――ひどく不思議な、響きだった。



 * * *



 西前(にしまえ)(ひらく)は、鹿野島高等学校に通って三年目になる女子生徒である。

 学業成績はさほど特筆することもない中の上、最寄りの国立四年制大学にどうにか受かるか受からないかのギリギリの辺り。およそほとんどのスポーツも一通りやればできる程度には運動神経も悪くないが、何か一つを選んで極めるには才能も意欲も希薄であり、これといって成果を上げたことはない。そもそも、部活動は運動とは無縁の天文部に所属していた。

 天文部に所属する西前の日課は、もちろん部活動である。放課後に西校舎三階の理科準備室を訪ねるのは毎日のお決まりの流れで、部活動の一環である太陽観察と言う名目で堂々と準備室に居座り、備品である各種茶葉を拝借して勝手に淹れて飲むのも、またいつも通りのことだった。

 理科担任の教師の控室でもある理科準備室は、通常四人の教師が利用している。しかし、そのうちの三名は揃いも揃って活発な運動部の顧問を務めており、放課後になると準備室にはたった一人――天文部の顧問を務める保刈(ほかり)(さね)を残して、誰もいなくなるのが常だった。ただ一人準備室に残る保刈は何をしているかと言えば、実のところ、何もしていない。暗黙の了解といった形ではあるが、そもそも天文部の存在自体が部活動への入部を義務付ける校則に対する救済措置のような扱いであった。要するに、西前以外に居るはずだという四人の部員は全て名ばかりの在籍であり、それによって保刈に課せられるような仕事が生まれるはずもなかったのだ。

 それが判明してからと言うもの、西前は理科準備室に入り浸っては茶をねだり、時たま補修のように勉強を教えてもらい、ついでに何がしかの本を借りて帰るという、気ままそのものの有り様で「部活動」を行うようになった。

「先生ー」

「んー? 何よ」

 そうして、夏休みがそう遠いことではなくなりつつある七月初旬の今日も、西前は教師がたった一人しか残っていない理科準備室で管を巻いていた。

「宇宙って、音聞こえんですか」

 校庭に向かって大きく開け放たれた窓辺に椅子を寄せ、眼下を忙しなく走り回る坊主頭の野球部員を眺めていた西前は、おもむろに部屋の中を振り返って問う。

 鹿野島高校に制服はなく、私服での登校が許可されている。七分丈のジーンズを履いている気楽さから、その足は椅子の上で行儀悪く胡坐を掻いており、窓枠に肘をついた手には麦茶を注がれて汗をかいたビーカーが収まっていた。来客用のカップなどあるはずもない準備室において、最早そのビーカーは彼女専用の食器と化していた。

「聞こえないよ。空気ないし」

 日光の燦々と降り注ぐ校庭に比べると、蛍光灯の消された準備室の内部は薄暗くすら見える。その曖昧な薄暗さの下、最も窓に近い机に割り当てられた椅子に座って団扇で自分の顔を煽いでいた保刈は、だるそうな風を隠しもせずに答えた。

 服を選ぶ手間が省ける、それだけの理由で制服のように常用しているスラックスと開襟シャツは、生真面目さと清潔さを演出する役には立っていたが、お世辞にも涼しそうには見えない。おまけに、理科準備室にはエアコンも扇風機も配備されていなかった。あるのは冬の間に限定稼働が許される、年代物の石油ストーブのみ。夏の盛りにあっては、見たくもない代物ですらある。

「音は空気の振動だから、空気が無かったら伝わらないでしょ。まあ、振動が伝わればいいらしいから、宇宙服とかを着た人間同士がヘルメットみたいな硬い部分を密着させて喋れば伝わるって話もあるけど。この前読んだ小説の話だけど」

「小説~? ほんとですか、それ」

「気になるなら、宇宙飛行士になって自分で試してみたらいいんでないの。そんで、その実験結果を俺に教えて」

 疑わしそうな顔をする西前をちらりと一瞥してから、保刈は団扇で仰ぐ手を止め、ず、と音を立ててマグカップの中の緑茶を啜る。この暑いのに、と何度西前に顔をしかめられようとも、彼にとって飲み物といえば熱い緑茶以外の何物でもなかった。

 まだ二十七歳の保刈は、揃って四十を超えた壮年の他の理科教師よりも生徒にとって親しみやすい立ち位置のはずが、常日頃から一貫した茫洋且つ飄々とした態度が取っ付きづらく思われるのか、休み時間に訪ねてくる生徒はほとんどいない。それこそ天文部で関わりのある西前か、ごくごく稀にやってくる一部の成績上位者が精々だった。

 訪ねてくるものも無い準備室は、遠く野球部の練習音声が聞こえてくるだけに、かえって静けさが際立っていた。ビーカーの麦茶を一口飲みこみ、西前は肩をすくめる。

「そりゃ無理です。私文系だし」

「そーだったね。天文部なのに理科が壊滅的な西前さん」

「おっかしーなー、こんなはずじゃなかったのになー」

 分かり易い当てこすりにも、西前は大げさな素振りで肩をすくめ、頭を振るばかりで意に介した風も見せない。この準備室に入り浸って好きに茶を飲んでいる現状も然り、妙に図太いところのある娘だった。

 保刈は呆れたように一瞬瞑目し、こめかみを揉んだ。何度交わしたかも分からない会話ではあったが、何度交わしたとて言わずにはおれない訴えだった。

「それは俺の台詞なんだけどねえ。ちょいちょいこの時間に教えてたはずなのに、あの赤点(てんすう)はどゆこと?」

「不思議ですよねー。そういうこともありますよねー。どんまい!」

「何がよ……」

 やれやれ、と保刈はこれ見よがしに溜息を吐いて見せた。

「いきなり宇宙がどーのこーの言い始めたから、ついに理科に目覚めてくれたかと思ったのに」

「ないんだなー、それは」

「ないんかい。せめて、爽やかに笑って言うの止めてくれないもんかね……。――で? だったら、一体何がどうして宇宙で音が、なんて話になる訳」

「あ、そうそう。昨日の夜、親と本屋に行ったんですよ。――八時くらいだったかなあ。DVD借りて、帰りに駐車場で空を見上げたら、流れ星が見えて」

「へえ、運が良かったじゃないの」

「はい、そんで、その時に変――変じゃないな、不思議な音? が聞こえたんですけど」

「音?」

 ことん、と音を立ててマグカップを机に置き、保刈は問い掛ける。その眼はどこか探るようですらあったものの、まるでその時流れた星がそこにあるかのように天井を見上げる西前が気付くことはなかった。

「そう、音。流れ星が流れて、消えてから少しの短い間だけで、親に訊いたらそんなの聞こえないって言われたから、空耳かとも思ったんですけど……やっぱり聞こえたと思うんですよねえ。さらさら、と言うか、しゃらしゃら、と言うか。上手く言えないけど、そんな感じの音。砂糖細工が崩れていくみたいな」

「詩的だね」

「文系なんで」

「理系になってくれてもいいけど」

「それは無理ですけど」

「即答で返事されると、さすがに先生傷付くんだけど」

「そういうこともあるよあるよー」

 ないよ何それつれないねえほんとに、と恨みがましく嘯きながら、保刈はマグカップを机の奥に追いやり、畳んで端に追いやっていたノートパソコンを引き寄せた。電源を入れ、立ち上げる。その動作に目ざとく気付いた西前は、椅子に座ったまま首を伸ばしてノートパソコンの画面を窺うような素振りを見せた。

「何してんですか、先生」

「ちょっと調べ物」

「何の?」

「確か、来年の初めごろに彗星が近付くってニュースを見た気がしたんだよ」

「彗星? 見えんですか? てか、何で急に?」

「星はさ、歌うんだよ」

 保刈がそう言うと、西前はぽかんとして目を丸くさせた。予想通りの教え子の反応に小さく笑いながら、保刈は課外授業を行っているかのような調子で続ける。

「さて、ここで問題。流星と彗星の違いは?」

「理科が壊滅的な私に分かると思ってんですか」

 軽く胸を張り、清々しくすらある姿で答える西前を前に、保刈の顔から笑みが消える。どうしてこの生徒は、毎度毎度自慢できないようなことまで堂々と言ってくれるのであろうか。ノートパソコンのキーを叩きながら、保刈は「思いたかったんだけど」と溜息を吐く。

「流星は、一般に宇宙上の小天体が地球の大気に突入して発光する現象のことを言います。流れ星と言っても、実際に星が流れてる訳じゃないんだよ。数ミリ以下の塵だったり、数センチの小石だったりが大気に突入した結果でね」

「何それ、詐欺じゃん」

「人が勝手に名付けたんだから、詐欺も何もないでしょうが。――一方、彗星は太陽の周りをまわる天体が起こす現象。見かけの移動は日周移動に等しいから、写真で見ると流星に似て見えるけど、肉眼じゃそのまま空に留まって見えるのが大きな違いだね」

「つまり、すぐに消えちゃうのが流星で、しばらくそこにあるのが彗星」

 身も蓋もない要約をされ、眉をハの字にしながら、「まあ、そういうことだね」と保刈は頷く。そんな教師の複雑な心境などお構いなしに、西前は明朗そのものの様子で首を傾げた。

「そんで、星の歌と彗星が何の関係があんですか? 星が歌うなんて、聞いたことないんですけど」

「俺も、そんな話聞いたことないよ」

 何だそれ、とでも言いたげな、怪訝そうな表情をする西前を見返し、保刈は一転してにやりと笑ってみせた。

「俺はただ、自分が星の歌を聞いたと思う経験をしたと思うってだけだからね。――あー、あったあった。来年の三月十日。割と大型の彗星で、肉眼でも十分見える」

「半年以上先じゃないですか。忘れてますよ、そんなん。ちょうど受験だし」

 西前は唇を尖らせてぼやく。十七歳の高校生がするには些か幼すぎる所作に苦笑しつつ、保刈は開いていたニュース記事のページをブックマークに追加してから、ウェブブラウザを閉じた。

「俺が覚えとくよ。で、前期でちゃんと志望校に合格したら、学校に申請して屋上で彗星観測させたげる。望遠鏡も持ってきて」

「え、ほんとに?」

「ほんとほんと。教師に二言はないよ。その時に、星の歌についても詳しく話したげる」

 保刈が頷いて見せると、それまでの顰め面を忘れたかのように、西前はにやりと満面の笑みを浮かべた。

「おー、良いですねえ。たまには顧問らしいこともしないとですもんねえ!」

 ――が、その言い草に、保刈のこめかみがぴくりと痙攣した。

「ちょっと。それじゃ、日ごろ俺が何もしてないみたいに聞こえるでしょーが」

「え、してますっけ?」

 大仰に、おどけるように驚いてみせる西前を半目になって見やると、保刈はさも残念だと言わんばかりの表情で頭を振ってみせる。

「ほんとにねえ、西前さんは一体俺を何だと思ってんの? そんなこと言われると、急に校長に天文部の活動実態を報告しなくちゃいけないような義務感に駆られるような気がするんだけど?」

「あっ、間違えました。保刈先生は、すんばらしー天文部の顧問の先生でしたそーでした! よっ、太っ腹!」

「その褒め方もどうかと思うけどねえ……」

「まーまー、そんじゃ、ちゃんと受かるんで。頑張るんで。楽しみにしてるんで、三月十日お願いしまーす」

「はいはい、頑張って頂戴よ」

 緊張感の欠片もないいつも通りの会話の中で、教師と生徒は、そんな約束をした。

 蒸し暑い七月の、夏の日のことだった。




 鹿野島高校のある地域は、近隣の市町村と比較してもとりわけ涼しく、夏の間はその傾向がより顕著になる。お陰で、普通であれば放置されがちな山間の土地も別荘地として活用され、それは自治体の財政を随分と助けているのだが、その分冬になるとひどく冷え込んだ。夕を過ぎて日が落ちると、おそろしく寒くなる。

 気温は辛うじて氷点下になっていない程度で、屋外で活動するにあたってはロングコートとマフラーは欠かせない。できれば厚い毛糸の手袋も装備したいところではあったが、手袋をしていては細かい調整ができない為、泣く泣く外した。ポケットに忍ばせた使い捨てカイロとミルクティのボトルで指先を温めながら、保刈は屋上の床に三脚を立て、黙々と望遠鏡を組み立てていく。組み立てると保刈の胸ほどの高さになる望遠鏡は、つい先月買ったばかりの、今冬発売された最新式だ。

 あの夏の日の約束から、今日で七ヶ月余りが経った。長いようで、あっという間に過ぎていった夏と秋であったように、今となっては思う。

 きちんと前期試験で志望大学に合格してみせると宣言した西前は、壊滅的だった理科科目をやっとのことで克服し、見事合格を果たした。無論、その陰には天文部の部活動という名目すら消えた、補修の日々があった訳なのであるが。……毎日毎日それに付き合った自分も自分だが、飽きもせずに通い続けた西前も西前だと、事ここに至ってしまえば、保刈は単純に感心してさえいた。

「うひー、さぶっ!」

 背後で悲鳴じみた声が聞こえたかと思うと、派手に扉の開閉する音がした。望遠鏡を組み立てる為に屈めていた腰を伸ばし、首を捻って目を向けてみれば、案の定着込みに着込んだ西前の姿があった。

 腕時計で時間を確認してみるも、事前に定めた時刻より二十分近く早い。

「こんばんは、早いね」

「こんばんはー。早いっても、先生のが早いでしょー。そんな楽しみだったんですか」

「俺だって、今さっき来たばっかだよ。望遠鏡の準備があるから、早めに来ただけ。西前さんこそ、そんなに楽しみだった訳?」

「そりゃまー、そこそこには。せっかくの彗星観測、見逃したら損じゃないですか。しかも、日曜日の、夜の学校の屋上とか。めっちゃレア」

 うう寒、と震えながら両手をコートのポケットに突っ込み、西前は保刈に――正しくは、保刈が設置している途中の望遠鏡へと近付いてくる。保刈よりも頭一つ程小柄な西前は、鼻の頭も耳もすっかり赤くなっていた。

「レアだけど、その分寒いからね。ちゃんと準備はしてきたみたいだけど」

「お腹と背中にカイロ貼ってきました。そんでも、まだ寒いですけど。屋上て、めっちゃ寒いですね。先生はあんま寒そうでもなさそうですけど」

「慣れてるからね」

 え、ほんとですかそれ、いいなあ。保刈がしれっと言った言葉をそのまま信じてしまったのか、西前は暢気な声で羨んだ。その本気とも冗談とも取れない様子は、西前が度々見せるものであり、今や保刈にとっても馴染み深いものだった。

 夏から今日までの間に一つ歳を取り、高校生から大学生へ、もうじき肩書も変わってしまうというのに、西前個人には少しも変わったところがない。少なくとも、そう思えることにどことなしか安堵している自分に気が付いて、内心で苦笑しながら保刈は望遠鏡の組み立てを再開する。

 保刈は西前のてらいのない態度を、それなりに好ましく思っていた。もっとも、そうでもなければこの三年間、律儀に相手をしてもいなかっただろうが。

「寒いなら、中の階段で待っててもいいけど」

「それはそれで寂しいんで、我慢しますけど。て言うか、先生、ほんと寒くないんですか?」

「まあ、寒くない訳じゃないよ」

 それでも平然として見せる保刈は、確かに一見してさほど寒がっている風には見えなかった。鼻も耳も、さほど赤くはない。しかし、それはただ単に使い捨てカイロで適度に温めていたからなのだと教えてしまうのは余計なことであるような気がして、保刈は笑うだけに留めた。

 他愛ない会話をしているうちに、望遠鏡も一通り組み終わった。重厚な造りの三脚がきちんと安定していることを確かめてから、保刈は望遠鏡を挟んで隣立つ西前へ、ポケットの中のボトルを取り出して放り投げながら言った。

「前にも言ったけど、合格おめでとう」

「ども、ありがとうございます」

 暢気な性質ではありつつも運動神経が悪い訳でもない西前は、何でもない風に缶を受け取ると「いただきまーす」と間延びした声で言って、ボトルの蓋を捻る。保刈がカイロ代わりにしていたこともあり、手に取っただけで少し温くなっていることは分かったはずだろうが、文句はなかった。

 ミルクティを一口二口飲み込み、ほう、と息を吐いてから、にへりと西前は笑う。

「お陰様で、どーにか合格しました」

 ぺこりと頭を下げてみせる西前に、保刈もまた「どう致しまして」と笑った。

「何だかんだ言って、西前さんはよく頑張ったよ」

「まー、上手く餌で釣られました。――彗星、何時に見れんですか?」

「後ちょっとだよ。舘脇(たてわき)大学の、何学科だっけ」

「人文です。親には、手に職付けられるようなところじゃないから、教職取れって言われたんですけど」

「まあ、それは確かに一理あるだろうねえ。……西前さんが教師とか、想像できないけど」

「残念なことに、私もそう思うんですけど」

「それでも、資格があるとないとじゃ大違いだからね。取るのは良いことだと思うよ。キャンパスは? いくつかあったでしょ」

古美門(こみかど)。3年生から鹿野島に戻ってきます。ずっと家から通えると思ってたのに、ってお母さんがぼやいてました」

 古美門は同じ県内の土地であると言っても鹿野島からは遠く、下手をすれば隣県に出るよりも時間が掛かる。電車ではほとんど半日掛かるようなところだ。通うことは、まず無理に違いない。舘脇大学自体は隣の市にあるだけに、それはある種の罠のようにも思えたのやも知れない。

 西前の母の渋面が目に見えるような気がして、保刈はひそかに失笑した。

「ハハ、だろうね。3年までは一人暮らし?」

「寮があるらしいです。3年になったら、うちから通うっぽくて。……先生は、いつまで鹿野高にいんです?」

「大学卒業して、ずっとここだからねえ。次で六年目くらいだから、そろそろ異動になるんじゃないかな」

「何だ、私が戻ってくる前にどっか行っちゃうんですか」

「何、寂しい?」

「まあ、そりゃ。そこそこ」

 さらりとした肯定に、一瞬目を見開いてから、保刈はくすくすと笑った。

「古美門に行ってても、長期休みとかでちょこちょこ帰ってくるでしょ。その時にでも顔出して頂戴よ。あのビーカー、置いといたげるから」

「ういー」

 何重にも巻いたような分厚いマフラーの渦に顎を埋めるようにして、西前は頷く。その眼が潤んで見えたような気がしたのは、寒さの為か、他の理由か。保刈は敢えて考えずにおくことにした。

「先生、彗星まだ?」

「そろそろだよ」

 答えて、空を見上げた――その時だった。

 すうっと夜空に現れる、明るく尾を引く白い星。そして、聞こえ始めたのは――

(ああ、この歌だ)

 保刈は真白く輝く彗星をを見上げ、目を細める。

 さらさら、しゃらしゃら。ふわりと満ちるように聞こえ始めた音は、雨のように零れ落ちる硝子の欠片が擦れ合って砕けて散っていくような、積み上げられた砂糖細工の城が少しずつ崩れて消えていくような。

 静かな音色は、次第に厚みを増していく。ささやかな音のようで、重なり合う声のような。何度聞いても、何時聞いても、例えるのが難しい。ひどく不思議な、歌だった。

「先生」

 かすかな声が、呼んだ。溶けてゆく淡雪のように、ほのかな声だった。

「うん」

 保刈はただ、そう一言だけ応じた。きっと、同じものを見て、同じものを聞いている。そんな気がしていた。

 そこに言葉は、不要だと思ったのだ。


 結局、用意した望遠鏡は使わなかった。

 ひとしきり彗星を眺めた後、保刈と西前は屋上から校舎の中へ戻ることにした。がらんとした廊下は暖かくなどなかったが、寒風の吹き抜ける屋上に比べれば遥かにましだ。

「西前さん、迎えは?」

「八時くらい」

「後一時間か……。理科準備室でお茶でも飲んでく?」

「お願いしまーす」

 三階の理科準備室は屋上からも近いが、この冷え切った空気の中では悠長にもしていられない。寒さの為に自然と二人の歩む足は速まり、見慣れた引き戸の前で足を止めた保刈が鍵を取り出してから戸を開けるまでの動きも、いつにも増して早かった。

 戸を開ける勢いのまま室内に足を踏み入れた保刈は、蛍光灯とストーブをつけながら、準備室の奥へと進んでいく。自分に割り当てられた机の上に望遠鏡を分解して収めたバッグを置いてから、ちょうど入口からは陰になって見えない流しに入り、シンクの脇に置かれていた電気ポットの蓋を開ける。コンセントと水を抜かれていたポットの中は既に乾いていたが、念の為軽くゆすいだ後で水を入れ、沸騰のスイッチを押した。毎朝同じことを繰り返しているだけに、一連の動きはまるで水が流れるかのように素早い。

「少し時間が掛かるから、その辺で座ってて」

 流しの陰から保刈が顔を出して言うと、マフラーに口元まで埋めた西前は何やらくぐもった声で返事をしながら、徐々に暖かくなっていく途中のストーブに貼りつくようにして立った。その姿は断固として動くまいとする意志がそのまま人の形を取ったようにも見え、ストーブが本格的に稼働するまで動く気がないどころか、手伝う気自体がないに違いなかった。

 やれやれと肩をすくめながら、保刈は棚から茶器を取り出す。茶筒と急須に、使い慣れた白いマグカップ。更にその隣に並んだビーカーを手に取ろうとして、一瞬手を止めた。取っ手のないビーカーは熱いものを飲むには適さない。しかし、夏の頃に西前が好んで飲んでいた冷蔵庫の中の麦茶は、もう無いのだ。

 どうするか、と刹那に考え、保刈は否と頭を振った。そもそも、この季節では仮にあったとしても、それを望むだろうか。今現在ストーブから貼りついて離れない、あの西前が。

 ……望まないに違いない。

 勝手に結論付けた保刈は気を取り直してビーカーを取り出すと、マグカップの横に並べた。

「先生」

「うん?」

 ポットが徐々に内部に収めた水の温度を上げていく音を聞きながら、保刈は再び流しの陰から首を伸ばして西前を窺う。

「あの歌ってさ、何なんですかね」

 素直な疑問だけを呈した言葉に、保刈は沈黙した。もちろん、回答を拒んだ訳ではない。

 何、という明確な答えを、保刈自身持っていないのだ。

 初めてあの歌を聞いたのは、確か随分と昔――小学生の頃であったかと記憶している。実家の二階の窓から眺めた彗星が、歌っているのを聞いたのだ。子供心にもその現象を不思議に思ったが、周囲の人間に訊いて回るのは止めた方がいいと気付くことができる程度には聡い子供であったので、当時まだ幼かった保刈は学校の図書館に通っては天文の本を読んだ。――もちろん、そうして読んだ本の何処にも、彼の求める答えなど書いてはなかったのだが。

「……さあ、何なんだろうねえ。どこの本にも論文にも、星が歌うなんてことは書いてないからね。何で聞こえるのかも分からない。本当に星が歌ってるのかも分からない。まあ、流れる星が見える時にだけ聞こえるんだから、関係がない訳じゃないのは確かだろうけど」

 ポットの蓋をちらりと開ければ、むっと湯気が噴き出す。温かいが熱くはないそれに、今しばらく時間が掛かることを実感して顰め面になりながら答えると、西前が「はあ!?」と素っ頓狂な声を上げるのが聞こえた。

「それじゃあ、つまり、結局先生も知らないんですか?」

「まあね。話すとは言ったけど、教えるとは言ってないでしょ。教えられるほど知ってる訳じゃないからね、俺だって」

「うわ、詐欺だ!」

「人の言葉はよく噛み砕いて、その裏まで察しましょうねえ」

 からからと笑って答えれば、「せこいなー」とストーブの傍から不服そうな声が上がった。

「先生に他にも、あの歌聞いた人っているんですか?」

「知らないねえ」

 なあんだ、と詰まらなさそうに西前が呟く。どう答えたものやら保刈が言葉に詰まっていると、ちょうどポットのアラームが急速沸騰の完了を告げ、会話は完全に途切れてしまった。

 目分量で急須に茶葉を入れ、保刈は急須をポットの注ぎ口の下へと移動させる。スイッチを押して湯を注いでいけば、立ち上る湯気と共に日々親しんだ香りが広がった。ほう、と自然に吐が漏れる。

 少し蒸らしてから急須の中の茶をマグカップとビーカーに均等に分けると、保刈は右手にマグカップを、左手で慎重にビーカーを持ち上げ、ストーブへ向かって歩みを進めた。すっかり赤々と燃えているストーブは、冷えた身体が蕩けそうになるほど暖かな熱を放っていた。

 西前の隣に立ってビーカーを差し出すと、彼女は少しだけ眉間に皺を寄せ、手袋をしたままの手で受け取った。露骨な渋面である。

「せっかく淹れたげたってのに、その反応は何よ西前さん」

「どーもありがとーございます。ただ、いつも思うんですけど、なんか少なくないですか?」

「いっぱい入れたら、熱くて持てないでしょーが」

「あ、そっか」

「……もう少し考えてから喋りなさいよ……」

 やれやれ、と溜息を吐いてみせてから、マグカップに口をつける。冷えたマグカップと熱い緑茶の温度差に、少し背筋が震えた。

 会話が途絶え、チクタクと時計の針が動く音ばかりが耳につく。保刈は元々饒舌な性質ではなく、別段沈黙を苦にする性分ではないが、どちらかと言えば西前は多弁な部類だ。普段から要不要を問わず暢気に喋るのが常であるのに、それでも不思議と今までに沈黙を厭う素振りを見せたことはなかった。

 そんな今まで気に留めてすらいなかったことにさえ思いが及ぶのは、夜の校舎という非日常の中に居るからか、それともこうした機会ももうじき失われる感傷の為か。保刈はそこはかとなく苦い気分で、緑茶を啜った。

「先生、あの歌はさ」

 ビーカーの端に唇を付け、息を吐きかけて緑茶を冷ましていた西前が、不意に声を上げた。ず、とまた一口音を立てて緑茶を飲み込んでから、保刈は傍らへ目を向ける。

「うん?」

「ひょっとしたら、世界で、私と先生しか知らない歌になんですかね?」

「……かもね」

「それって、何か、お得な感じ」

 へへ、と西前が緩んだ顔で笑う。保刈は敢えてマグカップにまた口をつけてから、「そうだね」と呟いた。寸前まで胸の中にあった苦味とは対極の感情に、気付いてはいけないような気がした。

「先生、あの歌、どんな意味があるか考えたことあります?」

「意味?」

「何のために歌ってるのか」

「何のって……考えたことないな」

 保刈は首を捻りながら、呟く。何故聞こえるのか、という点については、度々考えることはあった。しかし、何の為に発されているのか、と言う逆の視点で考えたことは、今まで一度もなかったように思う。

「この前、彗星探査機が旅立ったでしょ。あれが歌の発生原因になるような、何かを拾ってくれたらいいな、とは思うけど」

「それじゃ、全然質問の答えになってないんですけど」

 不服そうな声で言われる言葉に、自覚はないでもなかった。ごめん、と軽く謝ってみれば、憤懣やる方ないという風で西前が溜息を吐く。

「先生、想像力足りなくないですか」

「そう言うくらいなら、何か考えたんだろうね?」

 重ねて言われ、年甲斐もなく反骨心が芽生える。じろりと横目に見やると、西前はにやりと笑い、自慢そうに語り始めた。

「星は、たったひとりで広い宇宙の中を回ってるんでしょ。だったら、あれはきっと流れていく星が、私はここに居るんだよって伝えたい歌なんですよ。ここにいるよって歌が、遠くてもどこからか聞こえたらさ、ひとりじゃない気になれるでしょ」

 嬉しそうに、楽しそうに話す姿に、保刈は目を細める。さながら、彗星を眺めたあの時のように。

「詩的だね」

「文系なんで」

「理系の俺には、ちょっと考えつかなかった視点かも」

「著作権は主張しないんで、使っていいですよ」

「何によ」

 笑って言い返せば、西前もまたけたけたと笑う。

 これまでの三年間、こんなやりとりは何度もあった。それがもう、一月もせずになくなるのだ。改めてそう思うと、無性にもの悲しい気分になるような気がして、保刈は束の間、目を閉じた。思いの外、自分は理科準備室での「部活動」を気に入っていたのかもしれない。

「先生はさ、よくああやって天体観測すんですか?」

「まあね。休みの日とか、ちょいちょい出掛けはするよ」

「……先生、彼女いないんですか?」

 どこか憐れむような口振りに、保刈は思わず目を開いて顔をしかめた。

「……一緒に天体観測してくれるような彼女を捜索中だよ」

 答えながら、そう言えば西前が保刈の交友関係について口を出したのはこれが初めてだな、と思い出す。

「何か、先生このまま行き遅れそうですよね」

「悲しくなる心配ありがとう。て言うか、男にもその表現って使うの?」

「先生、それは差別だ差別!」

「え!? そう!? ごめん」

「まー、私もよく知らないんですけど。適当に言っただけなんですけど」

「ちょっと」

 何だそれ、と言いかけた瞬間、また西前が暢気な声で話し始めた。

「先生さあ、長男?」

「次男だけど」

「あ、そなんだ。じゃあさ、私がもらってあげた方がいいですか?」

「うん。……うん!?」

 ギョッと目を見開いて、保刈は勢いよく西前を見た。うっかり頷いてしまったものの、とんでもないことを言われたような気がした。それなのに、内心大いに動揺して見下ろした、頭一つ分下にある顔は、きょとんとして保刈を見上げている。何もおかしなことは言っていないとばかりの、いつも通りの暢気な面持ちで。

「あの、その――何だ、西前さん」

「うん?」

「……何言った今?」

「何って……ああ、私長女なんですよね。しかも、うち女三兄弟、あ、姉妹か。三姉妹だから、嫁にはいけないっぽくて」

「う、うん。それは分かったけど、て言うか、知ってるけど」

 と言うか、訊いてるのはそういうことじゃないけど。重ねて問いたい言葉は、何故か喉の奥から出てこない。妙に暑く感じるのも、ストーブの近くに居過ぎたからか、それ以外の理由なのか、分からなかった。

「先生、次男ならちょうどいいじゃないですか?」

 保刈の動揺などまるで知らぬげに、屈託なく西前は言う。何がちょうどいいんだ、と全く思わなかった訳ではないが、今度はそれを口に出す気にはならなかった。代わりに、ゆっくりとマグカップの中の緑茶を飲み干し、深い息を吐いた。まだ、ひどく暑い熱の中にいるような気がする。

「……後二年経ってから、もう一度言って」

 やっとのことで押し出した言葉には、「うん」と、拍子抜けするほどに軽やかに返事があった。

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