第91話 交渉
「先輩っ。昇進おめでとうございます!」
葛城が俺のデスクに両手をついた。
「サンキュー。給料もほとんど増えないし。面倒が増えただけだよ」
年明け早々、俺は課長になった。
「でもすごいですよ。先輩。みんながすごい早さって言ってました」
葛城は大袈裟に口を押さえた。
「厄介な物件ばっかり売ってたからな。怪我の功名だよ。ま、多少は自信がついたけれど」
俺は葛城から書類を受け取った。
「それで、この前に下見した物件、買い取ることにしたんですか?」
「あぁ、文京区で駅徒歩2分、新耐震の平成2年築、53平米4,800万。相当に安いからな」
「でも、大丈夫なんですか?」
「何が?」
「いや、だって。安いとなんか怪しいじゃないですか?」
「あぁ。売主が付き合いのある業者なんだよ」
「お友達価格ですか? それなら安心ですね」
「急遽、事業を畳むことにしたらしくて。んで、レインズに載せる前に、話が回ってきたってわけ」
「レインズってなんですか?」
「不動産流通システム。業者用の情報サイトだよ。前に教えただろ?」
「あ、そのレインズですか。も、も、もちろん知ってますよ。毎朝、見てますし」
「……まぁいいや。そういう事情で、のんびり検討していられないわけ」
「あのマンション、裏がお墓ですけど?」
葛城は腕を組んだ。
「元々、あの辺は墓が多いエリアだからな。問題ないんだよ」
「そんなものなんですか。あ、ここにチェックお願いします。課長さんっ」
葛城は記名欄を指差した。
「その呼ばれ方、むず痒くなるんだけど。呼び方は、今まで通りでいいよ」
俺は書類にチェックを入れて、葛城に渡した。
葛城が仲介から紹介された物件だ。
「それよりも。葛城の物件、大丈夫なのか? なんか販売図面にオバケのイラストが書いてあるけど……」
「てへっ。なんか訳アリ物件みたいです。激安なんでつい。でも、このお化け、可愛い絵だし、きっと大丈夫だと思います」
葛城は舌を出した。
「可愛いから、余計にヤバいんだよ。ちょっと待って。事故物件サイトで確認してみる。どれどれ。葛城の物件は……」
「ど、どうですか?」
「あー、そこは数年前に殺人事件があったらしい。惨殺事件でニュースになったやつだ」
「えぇ!? そんなの売れますかね?」
葛城は目を見開いた。
「無理だな。販売図面の端っこに『夜中も寂しくありません♪』とか書いてあるし」
「きっと一晩中、賑やかなんですよ。それで課長さんのジャッジは?」
葛城は揉み手になった。
「そんなラップ音物件が売れるわけないだろ! ダメ。NOです。納得いかないなら部長に聞いてみて」
「部長さん、目つきがいやらしいから嫌です。諦めます……」
「まぁ、気を落とさないように」
葛城の肩を叩いた。
「ぶぅ〜。先輩のも見てみましょうよ!」
「葛城の賑やか物件と一緒にするなよ。どれどれ……」
口の中が舌先に歯の感触。
心拍数が上がっていく。
「あれ、ないですね」
葛城が口を尖らせた。
「そうみたいだな。よかった。俺の物件はひっかからないや」
「先輩、めっちゃホッとしてるし。契約はいつなんですか?」
「今週の金曜日」
「3日しかないじゃないですか。早すぎませんか? もうちょっと時間をかけて検討した方が……」
「日程は先方の希望なんだよ。他の業者が入ってきたら、この値段じゃ買えない。売主物件で仲介手数料もかからないから」
葛城は納得いかない様子で戻って行った。
♦︎
金曜日。
売主業者の事務所。
オーナーは60代後半の痩せた男性だ。
俺は葛城と応接間に通された。
ソファーに座ると、灰皿には吸い殻が山になっていた。底には黒い水が溜まっている。
「お茶もなしなんですね」
葛城は小声で言った。
俺が予め製本した契約書を出すと、オーナーはそそくさと署名押印した。
「現況は確認してもらったし。業者同士だから、細かい説明はナシでいいよね?」
オーナーはそう言って割印すると、俺に契約書を渡した。
「ええ、まあ」
「ありがとうね。急ぎだったんで、助かったよ」
そう言うと、オーナーは頭を下げた。
「こちらこそ。指値にも応じて下さって、ありがとうございます。今後はどうなさるんですか?」
「ははっ。最後の恩返しだからね。私もいい歳だし。来月にはここを畳んで、田舎にでも帰るつもりだよ」
オーナーは笑った。
「そうですか。最後に良い物件を売ってくれてありがとうございます」
「ところで、いくらくらいで再販するつもりなの?」
オーナーは目を細めた。
「リフォームの仕上がり次第ですが、目一杯高買いさせてもらったので、赤字にならないように頑張りますよ」
お互いに笑って、鍵を受け取った。
帰り道。
ランチを食べることにした。
料理のオーダーが終わると、葛城が聞いてきた。
「先輩。4,350万で買ったの、いくらくらいで売るんですか?」
「うーん。間取りをうまくいじれば、7,000万くらいまでは伸びるかな」
「丸儲けじゃないですか! でも、そんな美味しい物件を叩き売りするもんですかね?」
俺は契約書を開いた。
特約条項には『現況有姿』の文字。
不動産ではよく見かけるワード。『何かあっても後から文句は言わない』という意味だ。
次の月曜日。
俺は菓子折りを持ってオーナーの事務所を訪ねた。
「……え?」
俺は手に持っていた紙袋を落とした。
胸焼けするような焦燥感。
事務所があった場所は、もぬけの殻だった。




