溺水
目の前に、虹色の泡の粒が顔を埋め尽くすように広がっていく。
艶やかな湾曲をしたたくさんの泡が互いにぶつかり合い、弾き合い、形を歪ませながら、紺色の夜空に向かって高く飛んでいく。
それは大きかったり、小さかったり、時に星やハートの形をしていた。
その泡がぱちっと音を立てて一瞬にして消えてしまうと、わたしは突然我に返ったように目の前の雑踏に圧倒された。
あの人に指定された通り、星青区内の高級ホテル「ブルータワー」に到着すると、エレベーターのパネルに指示された暗証番号を入力し、エレベーターはわたしを最上階まで運んだ。
最上階は夜空と一体になった広いインフィニティプールになっていて、プールサイドにはDJブースやカクテルバーが並んでいる。
紺色のプールの上にはふわふわの白い泡が埋め尽くされていて、人々の動きで水が泡立つたび、透明色をした真ん丸の粒が虹色に艶めきながら空に飛んでいく。
毒を溶かしたようなうす紫色の明かりが、ほのかにプールの水面を照らしていた。
人々の滑らかな動きがより幻怪に見えた。
スピカとは客層が異なり、同じ国の人間はほとんどいない。
もちろん母国語しか話せないわたしには、他国にひとり迷い込んでしまったような感覚だ。
女性は骨のような華奢さというより、水着にぴったりと密着した肉付きの良い体をしている。男性は異様に背丈があり、逆三角形のがっしりとした体つきをしている。
彼らのどこをとってもわたしがあまりに貧弱に見えた。
彼らは布の少ない水着で身体を辛うじて隠し、ピンクや水色、オレンジや黄色の色鮮やかなカクテルを片手に、響き渡るDJの音楽を楽しんでいる。
合コン用の透け感のあるフレアワンピースを貧相な身体に律儀に巻き付けているのはわたしひとりで、そんな自分の野暮ったさに嫌気がさす。
真面目を気取った清楚な服装が、わたしの自信を欠落させた。
すぐに既読がついていたあの人とのやり取りは、『着いた!』と送信したわたしのメッセージで止まり、数分が経過していた。
ほぼ肌をさらけ出したような男女の隙間をくぐり、あの人を見つけ出そうと目を凝らす。
次第に泡と人と音に埋もれていくと、めまいがするように方向感覚を失い、呼吸の速度を調整できなくなっていく。
どこの国のものかわからない言葉ばかりが耳に強く当たる。
目の前が滲み、視界は点線のように歪んで倍速で再生されるように流れていく。
すると突然、ハンマーのように太い腕に、刺青の入った大きな体が目の前に立ちはだかった。
震えるようにその体を避けようと道を開けるが、太い五本の指がわたしの腕を折り曲げるように掴み上げた。
その厚みのある指から痺れるような冷気が背中を走る。
心臓は跳ね上がってどこかに行ったまま動きを止めた。
っあ、と嗚咽のような乾いた音が喉から出た。
胸筋がむき出しになったタンクトップに記されたアルファベットが浮き出て、意識が遠のくように息を吐くことができなくなる。
腕の脈だけが、気まずくどくどくと小さく振動している。
そのまま低い外国語を耳元で囁かれ、強く手を引かれたので目の裏で固まった涙がこぼれ落ちた。
その瞬間、誰か同じ国の男がヘイ!と外国人に声をかけた。口調からなんとなく、同じ国の人間な気がした。
大きな体はどこかを振り返り、大袈裟な手振りでヘーイ!と声を返す。
大きな体の外国人は肉厚のある頬を和らげ、どこかとこちらへ微笑みかけている。どこかの国の言葉が、背後の同じ国の男から外国人に向けて連ねられる。
大きな体の外国人は気付けばわたしの腕を離し、能天気な表情でこちらに手を振り去っていった。
振り返るとあの人ではない、同じ国の男がわたしに四本指を振っている。
「この前、会ったよね」
黒いサングラスをかけた若い男は、ストローで青いカクテルを口に吸いこみながらもぐもぐと話した。
小麦色の濡れた上裸に、うっすらと筋肉の線を浮かばせた細身の男だ。
えっと、とわたしは目線と口元を躊躇う。
同じ国の男の身体は、外国人の身体よりもずっと生々しく見えてしまう。
男はサングラスを上にずらす。それでも、控えめに並んだつぶらな瞳に見覚えはなかった。
「誰に誘われてきたの?」
えっと、としか答えられなくなった動物のようだった。
「この前はミツキといたよね」
「……ミツキ」
「ほら、スピカ。俺も星が見えるあの席にいたんだよ」
そこまで言われても思い出せなかったが、「ああ、あの時の」と微笑した。
「サスケって呼んで、よろしく!」
サスケは、小さな歯を見せてこれでもかというくらい皺を寄せて笑っていた。少しだけ尖った八重歯が可愛らしかった。
サスケの黒い緩やかなパーマに虹色の泡が触れ、ぱちっと姿を消ず。わたしはそれを目で追いながら少し間を置いて、はい、と答えた。
サスケは音楽に乗せて頭を小刻みに揺らしながら、わたしに向かって親指を立てる。
サスケのぐにゃんと歪んだ目尻の皺を、じっと見つめた。
本心をまるでひた隠しにするように作るその表情、そして星青区の人間とは思えない親近感のある表情の動きが不思議だった。
「あの、ありがとうございました。助けてくれて」
わたしはほとんどEDMにかき消される音量で、サスケに向かってお辞儀をする。まだ声は震えていて、眼球は濡れたままだ。
「あいつはルーク。ここのカジノのオーナーの息子だよ。迷子になってると思って一旦外に連れ出してくれようとしたみたい」
そうだったんだ、と心の中で呟き、自意識過剰な自分の妄想にまた嫌気がさした。
サスケの首に付いたアクセサリーや手首の高そうな時計に、無意識に目がいった。
彼も相当な学歴とキャリアを持つ、ハイスペックな人間に違いないのだ思う。
「なんか飲む?」
とサスケがタブレットのメニューをスクロールし出す。
「わたし、人を探してて……」
「ミツキ?」
サスケがカクテルグラスの淵に挟まれた青紫色の果実を、ぽとんと舌に落としながらこちらを覗いた。
あの人の名前は多分、ミツキだ。
確か傍にいた女の子に、あの人はそう呼ばれていた。
くいっと上がった口元や、前髪の影になった暗い目元、妖精みたいに無邪気に寄せた顔の皺、細長い五本指を通るオリーブ色の髪、あの人の細かな部位がカメラを連写するように次々と頭の中に浮かび上がる。
あの人の匂いが濃く舌にまとわりつく。
心臓の位置がぐんと高くなる。
大音量の音楽が心臓を打ち叩くように、身体の内側から細かい振動がする。
厚い肉の奥に埋まっていた臓器が剥き出しになるような、不思議な緊張が湧いてくる。
黙ったままのわたしに、サスケは口を開いた。
「あいつ、本当かっこいいよな」
そのままリップを塗りたくったような唇でストローを咥える。
ハート形に曲がったストローの管に、青い液体が流れていく。微かに口が開いた瞬間に見える口内が、青紫色に染まっていた。
「ミツキの家は星青区にいくつもホテルやマンションを所有してるんだ。数年前からルークの家の会社と協力して、星青区のリゾート事業にも相当絡んでるし。それにさ」
サスケは目を輝かせて身体を乗り出した。
「ミツキは恵まれた家庭に生まれたのに、この星青区で一番の努力家だよ。親に頼らず学生の頃から色んな方法で資金集めて、今じゃこの国の俺らの代で一番稼いでる男だよ」
サスケの口調は語尾が柔らかい。だからだろうか、少しずつわたしの緊張も解けていく。気付けばわたしは頬を緩めて、サスケによるあの人の説明に聞き入っていた。
どれも初めて聞く単語ばかりで、一言一句真剣に受け止めては脳は言葉を即消化した。
結論ベンチャー企業やスタートアップに出資をしたり、新規事業の指揮を執り数億の額を稼いでいる、ということしかわからなかった。
直近では投資先である企業を二〇億で売却したらしい。
知らない言葉のひとつひとつが、光滴を放って散りばめられるように聞こえた。
「ミツキは絶対、もっと成功するよ」
サスケの幼げな瞳が確信めいた光を放っている。その視線は、わたしがあの人を見るものと限りなく似ているような気がした。
あの人のことは、まだ何一つわからない。
だけど一瞬にして目の前の人を虜にしてしまう不思議な魅力がある。外見ではない、あの人の周りを漂う独特な雰囲気がわたしたちをそうさせてしまう。
「二人は、どんな関係なの?」
サスケは満面の笑みを浮かべた。
「高校の頃、星青区のクラブで出会ったんだ。それからよく遊ぶようになった」
「高校。じゃあサスケも、この辺の出身なの?」
「まあ、実家はね」
サスケは慌てたように笑った。
「けど俺も自立しなきゃって思って、大学の頃からは一人暮らしなんだ」
サスケはまるで沈黙を作らせぬように早口で言葉を続けると、謙虚にえへへと唇を曲げた。
「今はどんな仕事してるの?」
「外資系のベンチャーだよ。名が知られてるような会社ではないんだけど、だからこそ裁量が大きいし、やりがいもある。俺もミツキに負けてられないからなあ」
へえ~、すごい、サスケの話にほとんど力の抜けたような声で感嘆している、その時だった。
死角から突然、何かものすごい強圧な力に身体を跳ね飛ばされた。
わたしの身体は紺色の空にふわっと浮き上がったかと思うと、そのまま円を描くように白い泡の中に落ちていく。
冷たい水が、目と耳と鼻を塞いだ。
泡がぶくぶくと立つ音、鼻の奥にまで流れた塩素の匂い、遠くなるDJの音、水に打ち付けられた身体の痛み、水を吸い込んだ服の重みを感覚器が次第に捉えていくと、息の根が止まりそうになった。
ぷはあっと思い切り身体をかき水の上に顔を出すと、目の前にある空気をすべて吸い上げる。濡れた両手でびしょびしょの顔と髪の毛を拭った。
一瞬、生死の境目を味わった。
空を見上げるとプールを照らす妖艶なライトがまだ、霞んで見える。プールサイドで動く男女の輪郭が、まだぼんやりとしていた。
その濁った明かりを辿って上を見上げると、黒い服を着た悪魔の顔が見えた。
月明かりに照らされた黒髪が薄まって風に揺れ、その隙間から黄色く光った丸い猫目が、獲物を捕らえるように釣り上がっている。
赤紫色に染まった唇がくいっと高く上がると、わたしを目掛けて大きな影がこちらへ飛んでくる。
目の前で大きな水しぶきが上がり、ぶくぶくと小さな泡の粒が空中に浮き上がっていく。
悪魔は言った。
「探した?」
今度は天使のように無邪気に頬を上げると、顔をわたしへ近づける。
まだ塩素の味がする喉をごくりと鳴らすと、わたしは操られたように頷いていた。
腰に回された天使の細い指が、服の上からわたしの肉を押し込んでいる。わたしは咄嗟に肉を引っ込めるように腹筋に力を入れた。
「今日は何してた?飲んでた?」
あの人の掠れた声が、上から下へぞくぞくと背中をなぞっていく。
わたしの顔に残った水滴を拭うように、あの人の指が肌を滑らせる。柔らかい感触が、確かにわたしに触れていた。
狂気的に甘いあの人の香りが身体中に充満し、あらゆる感覚器が狂ったように鋭く、あの人をくっきりと捉えた。
自分の身体にぴったりと吸い付いた薄いワンピースのことなど、頭に過りもしなかった。
「……今日は職場の子と、飲み会だった」
おどおどと答えるわたしの声は、自分のものとは思えないほど女らしく、絵美瑠のような猫っけさえある。
「お疲れ様」
そう言ってあの人は、わたしの頬をむぎゅっと摘まんだ。
顔の細胞が開き、顔色が何倍にも明るくなるのがわかる。
あの人の頬に付いた白い泡を見つけると、微笑ましく顔の筋肉を緩めてしまう。
眠っていた女性ホルモンが蘇るように、わたしの目はうるうると揺れていた。
「エラで働いてるんだっけ?」
あれ、そうだっけ。
一瞬躊躇いながら、視線を空に向ける。
あの人は、フローティングのトレイに積まれた青紫色の果実を、片手でわたしの口元に押し付けた。
わたしは吸い込まれるように、それに噛り付く。
しゅわあっと、果肉が口内の内頬肉を突き破るように染み渡り、不思議な甘味と酸っぱさへ変わっていく。
ああ、この味だ。この香りだ。この、わたしだ。
不思議と水に浮き上がってしまうほど身体が軽くなり、幸福感に包まれる。この得体の知れない感覚。
「今日は忙しかった?」
「今日は、一日中会議でばたばただった」
そう言って、わたしは少しずれた歯を並べて笑っていた。
お酒は先ほどの合コンで少ししかのんでいないはずなのに、呂律が上手く回っていない気もする。水の中で動き回っているせいか、余計に酔いが回っているのかもしれない。
あの日と同じ洋楽が、アップテンポで水の上を流れ、身体に伝染していく。紫色の照明があの人の顔を照らすと、今度はわたしの心臓の振動が水を流れていく。
「さすが、J大」
そう言ってあの人がわたしに白い泡を吹きかける。きゃっと高い声が漏れ、わたしもあの人に向けて泡を吹きかけ返す。
今度はあの人が両手で空高く水を掻くと、その小さな粒がわたしの目元や頬に飛び散った。わたしもあの人と同じように、水を上へ掻きあげる。
水が空に上がるたび、白い泡が虹色に浮かび上がる。その小さな水滴と泡の先に、あの人の紫色に照らされた顔がきらびやかに滲んでいた。
濡れた黒い毛を細い五本指でかきあげ、悪魔のようにあの人がにったりと笑っている。わたしもあの人を真似るように、唇の端を釣り上げてみる、簡単ではなかった。
あの人はわたしの身体へ絡みつくように水を這うと、光沢のある水滴とわたしたちの黄色い声が上がる。
熱を帯びた生ぬるい水の中で、あの人の肌が濡れるように触れている。わたしも同じように、気付くとあの人の背中に手を密着させていた。
薄いのに、固い筋肉が背中に浮き出ている。
濡れたあの人の身体が紫色の照明に照らされると、その姿は以前より一層優艶に見えた。
「ねえ、今からシーシャいかない?」
「……シーシャ?」
わたしはにわかに微笑する。その名前の存在は知っているが、それが一体どんなもので、どういう用途で使うものなのかわかっていなかった。
たばこと同じものなのだろうか、それとも、薬のようなものなのだろうか、そんなことを考えながらプールの床を小さく蹴って小刻みに跳ねた。
「……けど、わたし服が濡れてるし」
「大丈夫。すぐ乾くよ」
そう言ってあの人は自分の口で青紫色の果実を加え、わたしの唇へ近づける。
慣れた動作が、余計に色っぽい。
どっくんと、深い心臓の音が身体の中で鳴り響いた。
恐る恐る顔を寄せると、あの人の細い息が鼻に触れる。鼓動が、ますます小刻みに震えていた。
心臓の音が聞こえないよう、慎重に唇を果実に近づける。あの人の匂いに、鼻の奥が腫れあがった。
決してあの人の口に当たらないところで、ゆっくりと唇を締める。刺激の強い果実が口の中の熱に溶けていく。
視界が逆さまに回転した。万華鏡のようにあの人の顔が回る、めまいがした。
そうして現れるわたしが、ずっと手に入れたかった「わたし」だった。




