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魔法の果実  作者: HASU
4/5

虚夢

 少しだけ固い皮を突き破ると、しゅわあっと炭酸のような刺激のある液体が口内に広がる。

 それから葡萄や林檎、苺やキウイ、様々な果物の味、しかしそのどれでもない甘さと酸味が溢れてくる。

 不思議と、あの人の身体に染み付いた香水と同じ味がした。

 唇の端から滴れた果汁を手の甲でぬぐうと、なんだか自分の皮膚と皮膚が触れる感覚が鈍くなったような気がした。

 疑いは、その一瞬だけだった。

 頭の中の重みが根こそぎ抜けたように空っぽになり、自然と口角が上がる。

 体が浮いているような、自分がこの景色の一部になっているような高揚感に、わたしの緊張や不安が解けていく。

 身体の中に一切の重みが残らない。今にも星空に浮かんで踊り出してしまいそうな幸福感が、骨の芯から込み上げる。

「お酒強い?」

 わたしはこくりと首を落とす。

「口、開けて」

 あの人はウォッカのボトルを片手で傾け、銀色の細長い蛇口をわたしの口に注いだ。

 抵抗する余地もなく小さく口を開くと、ひんやりと強烈な消毒液がわたしの喉を流れていく。

 飲み物とは思えないその消毒液はじわじわとわたしの口内に滲み、耐え難く不味い刺激はしばらくの間粘膜に付着し、心臓が震えた。

「スピカ、入るのに結構並んだ?」

「……金曜日だから」

 わたしは狼狽えながら、微笑んでいた。

「これからは俺に連絡するんだよ?並ばずに入れるから」

 わたしはその言葉の意味もわからず、わかった、と答えていた。

 あの人が自分の口にもウォッカのボトルを傾けると、もう片方の指で前髪かき上げる。

「大学は?」

 大学、わたしは淡々と復唱した。

「今日ここにいる男はみんなS大の幼稚舎から一緒のやつら。女の子はあの子はA大の準ミス、あの子はK大のモデル」

 あの人はソファに溢れた女の子たちを次々に顎でくいっと指す。

 さらりと述べられた大学名は、どれも都内で有名な名門大学だった。

 あの人はまた五本指の間に髪を通すようにオリーブ毛をかき上げると、横目でわたしの回答を待っている。

「J大です」

 無意識に、わたしの口はそう動いていた。へえ、と興味なさそうに聞き流したあの人の目の色が、明らかに変わったのが分かった。

 J大はあの人が卒業したらしいS大と、肩を並べる都内屈指の私立大学だ。

「知り合いあんまりいないな。同期には何人かいたけど、あんまり仲良くなかった」

 へえ、とわたしの喉からも怯えた声が出た。

 どこにでも知り合いがいる前提なところがおかしかった。

「同期って?」

「外資の証券会社の同期」

「証券会社で働いてるの?」

「見えない?」

 ぎろりとあの人の目がわたしをのぞく。

 たしかにその長い髪とゆるい服装は、堅い企業に勤めているサラリーマンには見えなかった。それでも素直に反応してしまったことに後悔した。

「すぐ辞めたからね」

 顔色を少しも変えず、あの人は自信に満ちた目つきで言葉を続けた。わたしはほっとした。

「そっちは?」

「エラ」

 わたしの口は、意識とは逆方向に止まらなくなる。

「え、エラなんだ」

 あの人の前のめりな反応が、わたしの胸を満たしていく。

 エラは外資のコンサルティング会社であり、業界の中でもトップクラスだ。

「バリキャリなんだ」

 いやいや、とわたしは満更でもなく笑っていた。

 あの人は隣の女の子から完全に背を向けた。

 胸にちくりと針を刺された気分だった。

「年齢は?」

「23」

「俺の二個下だ。出身は?」

「世田谷」

「どのへん?」

「小田急線沿い」

「成城学園前とか?そのへん?」

「うん」

 自分ではそんな気はないのに、自然と笑みがこぼれてにやにやしている。

「俺はここだよ」

 ここ?とわたしは首を傾ける。その意味をすぐには理解できなかった。

「出身、ここ。星青区」

 その答えを聞いても、まだわたしはぽかんとしている。

 大きな音響の中で、その回答はますます現実を離れていく。

 やっとその言葉を頭で掴み取ると、今度は返答に困惑し、とりあえず相槌を打つようにその場しのぎの笑顔を作った。

 星青区で生まれ育ち、暮らしてきた人がいるとは想像をしたことがなかった。

 変に感嘆することもなく、興味のない素振りで、そうなんだ、と笑った。

「まだまだお酒、足らないよね?」

 いつもだったら言われて嫌悪感を抱くような言葉も、不思議とすんなり受け入れることが出来た。

「口、開けて」

 口癖のようにあの人はそう言った。

 悪魔と妖精が入り混じったような表情で何度も、わたしの口へウォッカを注ぎ込む。

 たまにそれは唇からはみ出て頬を伝り、今日のために買ったここにいる誰よりもぺらぺらなベージュのニットワンピに、アルコールの匂いが染み付く。

 似合っていなかったら丁度よかった。

 視界は回転し、顔の筋肉は重力に負けるように緩む。全ての感覚器が解け、わたしは何度もあの人が注ぐウォッカを貧相な口で受け取めた。

 次第に味はほとんどしなくなって、身体は無抵抗にウォッカを受け入れる。

 悪魔のように唇を釣り上げ、天使のように甘えた頬を緩め、表情を幾度と変えるあの人を見上げ、わたしは自分の人生に降りかかる全ての煩悩から解放された。

 ただ目の前のあの人に、身体を陶酔させていたかった。

 芸能人みたいに特別顔が整っているわけじゃない、スタイルが良いわけじゃない。けれど、毒に惹きつけられるように、わたしの嗅覚はあの人しか捉えることができなかった。



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