青紫色の果実
その色や形は、はじめて見るものに間違いなかった。
暗い手元を注視すると、ほとんどの男女がこの奇妙な青紫色をした果実をグラスに落とすか、そのまま口でかじりついている。
果汁が唇の端を滴っている。
どうやら中の果肉も同じ青紫色をしているようだった。
大きな音響が今日一の盛り上がりを見せ、白い光がテーブルに焚かれると、金属のフルーツバスケットの上に青紫色の果実がこぼれるほど積み重なっているのが見えた。
シャンパンに入れているものは果実を小さく切り抜いたものであり、もとの大きさはプラムほどの手のひらサイズの大きさのようだ。
「ミツキ、どこ行ってたの?」
一人の女の子が席を立ち、あの人の腕に絡みつこうとする。あの人は顔の表情を少し和らげて動かすだけで、女の子をあしらった。
そのままソファに座った女の子たちを奥へ詰めさせると、二人分の隙間を作って自分の隣にわたしを座らせた。
入り乱れる景色の中に自分が混ざり込んでいくことが、奇妙だった。人の動きを目で追うだけで酔いが回り、ぐらぐらと景色が崩れ落ちていくような感覚に陥る。
その目まぐるしい光景にたじろいでいるのはわたしただ一人で、わたしのような地味な女も間違いなく、一人だった。
彼らの身に付ける高級品たちは暗闇の中でも洗練された輝きを放つ。衣服は型崩れのしない重厚な厚みであることがよくわかる。
油絵で描かれたように美しい肌も髪も目頭も、みな宝石箱にしまわれた高級品として一つ一つ独創的な光沢を放っている。
わたしのものとは、素材も生き物も明らかに違っていた。
わたしは安物のニットワンピを伸ばし、ここにいる誰よりも肉のついた太腿を隠そうとするたび、顔が熱くなった。
汗ばんだ手で腿を押し込むと、でこぼこのセルライトが浮かび上がる。
伸ばし過ぎたニットは、元の形を取り戻せなくなったようにだらしなく伸びたままだった。
長く艶やかに背中に整えられたストレートの髪は、カールアイロンを何度も当てて萎びたわたしの髪を一層際立たせていた。
あの人は隣になった女の子に耳元を奪われ、何やら話を聞いている。
長い足をすらっと生やした、Tシャツの上からでもカップの上に乗った柔らかい肉の影が浮き出てている、スタイルの良い女だ。
もしかすると、SNSで見たことがあるかもしれない。
考えてみれば、ここにいる女の子たちはみんな、どこか既視感があった。
SNSで話題の女子大生インフルエンサーや、恋愛リアリティ番組に出演していた雑誌の専属モデル、都内最難関私大のミスコングランプリ受賞者、深夜のスポーツ番組で司会を務める話題のアイドル、動画配信サービスで百万人以上のフォロワーを抱える二十歳のアパレルブランド社長。
みな外見だけではない、誇れる肩書きを持ち合わせていた。
「ねえ」
はい、と咄嗟に背筋を伸ばした。その声は突然、耳元に音響よりも立体的に吹き込まれた。
どこかに伸びていたバネが勢いよく元の形に戻るように、思考がはっと引き戻される。
「大丈夫?」
銀色の光はその顔を照らしては隠し、徐々に全貌を露わにする。
丸みを帯びた猫目、華美ではないが白い光の通った鼻、赤紫色に縦皺のある唇をなぞり、あの人の顔の細かな動きを丁寧に目に焼き付けた。
「名前は?」
「……ルナ」
「よく来るの?」
「……友達の付き添いで、今日がはじめて」
激しい音響の中で声をあの人の耳に寄せ、張る。毒味のある、甘い香りが首筋に濃ゆく染みついていた。
嫌い、ではない。
それでもわたしは、咄嗟に息を止めていた。
「いつもはどこで飲むの?」
あの人の掠れた声が耳のすぐ近くで唱えられる。
「普段は、三茶とか」
「三、茶?」
急に外国人みたいアクセントになる。
「……行かない?」
「あんまないかな」
音響と重なって、ほとんど聞こえなかった。ただ、あの人は唇に皺を寄せて苦笑した。
「これからここに来るときは俺に言ってよ」
「……あ、うん。けどここ、入場料高いでしょ?もう当分は来ないかも」
「俺のゲストで入ればいいんだよ」
「……ゲスト?」
「俺がVIPで席取ってるから、ゲストで入ればいいじゃん」
「えっと」
わたしは気まずく笑った。
「そうしたらお金は必要ない」
「無料ってこと?」
「当たり前」
ぴしゃりと言い切られ、わたしは赤面した。どうやらこの世界では、よくわからないそんな制度が当然のこととして存在するらしい。
「友達は?」
「消えちゃった」
「じゃあこっちはこっちで、楽しも」
温かい息が、遠のいていく。あの人は顔を斜めに傾けた。
妖精みたいにくしゃっと無邪気な表情を見せ、わたしの身体に右手を回した。
あの人の四本の指がニットの上から腕の外肉に食い込むと、冷たい水が血管を流れるような妙な緊張が身体を覆う。
あの人の服がわたしの体に擦れ、くしゃりと潰れる。一層甘い香水の香りと、乳児のような肌の匂いが鼻の前に濃厚に広がっていく。
ぼんやりと意識が浮遊し、生気が吸い取られていくような、甘くてとろりとした毒性の生き物の匂いがした。
「口、開けて」
あの人は、奇妙な青紫色の果実をわたしの口元に寄せている。
わたしの唇は、へ、と曲がって開いたままだ。
あの人は口にしようとしないわたしを、不思議そうに見つめている。
今度はちゃんと、え、と声が出た。
「これ、何?」
「魔法の果物」
「魔法?」
「そう」
「……すごい色だけど、大丈夫なの?」
「だって、みんな食べてるよ」
少し声を枯らしかけながら、あたりを見回した。
たしかに女の子たちはみんな、青紫色の果実をシャンパンに溶かしたり、そのまま噛り付いたりして幸せそうに笑っている。
自分の野暮ったさは、こういうノリの悪さなのかもしれないとも思った。
あの人の左指で摘ままれた果実に向き直す。
ごくりと唾を呑み込んだ。
抵抗と好奇心がまだ、わたしの中で戦っている。
「食べないの?」
青紫色の果実の裏側から、あの人が猫目を薄くして顔をのぞかせる。
甘えたような猫なで声に、もう言い逃れはできないのだと思った。
わたしは恐る恐る青紫色の物体に唇を近づけると、沸き上がる妙な恐怖に目を瞑ったままそれに歯を食い込ませた。




