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魔法の果実  作者: HASU
2/6

あの人

 金曜日の夜。

 

 日本一の富裕層が集まる街、星青区。数十年前から日本を代表する観光地区としてカジノやホテル、劇場、国際展示場、ショッピングモールなどの商業施設を構え、日本一光が集まる街として国内外から多くの観光客を誘致してきた。

 銀や金のネオンが街中を張り巡らし、栄耀栄華な人々の豪遊っぷりをうかがえるこの街は、今日も夢から醒めない子供のような大人で溢れていた。

 中でも男性の入場料が最高値といわれるナイトクラブ「スピカ」は、高そうなスーツを着こなした男性や、ブランド物のバッグやアクセサリーを身に着けた女性で空虚なにぎわいを見せている。


「一緒に飲む?」


 同じ職場の絵美瑠とはぐれ、ナイトクラブの楽しみ方もわからず突っ立っていたわたしに、あの人は声をかけた。

 聞いたことのある最近の洋楽が鼓膜を小鉢で叩くように流れ、そして止まった。

 人の声なんて聞き取れるはずのない音響の中で、その声は周りの音をかき分けて時間を止めるみたいに、鼓膜の裏にぴたりと吸い付く。

 階段を数段上がった手すりにもたれかかり、あの人は頭上の高いところからわたしを見下ろし、わたしは首の痛くなるような角度であの人を見上げる。

 天井の四方から真っすぐ斜めに入刀されては消える青や銀の光は、暗闇の中でもあの人の形をくっきりと映していた。

 だぼっとした半袖の黒いTシャツに血管の浮き出た首を生やし、天井から差し込む光で青白く見える腕にはうっすらと筋肉が流れている。

 口元は薄気味悪く釣り上がり、目元は長い前髪の影になって下からだと余計、悪魔のように見えた。

 見下すように声をかけられてから数秒間目を逸らすことができず、それはあの人にとってわたしの承諾ということになったらしい。

 上から伸びた冷たい指先が、薄いニットの上からわたしの二の腕に触れた。

 あの人は暗闇の中で確かめるように指で腕をなぞらせると、手首はひんやりとした柔らかい肉に包まれていく。

 ボックス内の音楽がまた、再生をはじめた。

 あの人の体重に、わたしの体重が引かれていく。

 服の中の臓器がばくばくと大きく揺れていた。

 あの人に引かれるがまま階段を数段登り上のフロアに上がると、すぐに身体の大きいセキュリティの男性に手首をライトで照らされた。

 おそらく、入場する際にはめられた一般フロア向けのバンドではこのフロアに上がれないと、口調の強い外国語を浴びせられた。

 眉間に深い皺を寄せ、角が生えた魔王のように見えた。

 それでもあの人はわたしの手首を掴んだまま離さず、魔王に何やら耳打ちすると魔王はあっさりと道を開ける。それはそれで、ここを守る魔王への不信感を抱いた。

 あの人に触れた手首がみるみる温かくなっていく。汗のない、しっとりと毛穴に浸透していくような生ぬるい熱がする。

 下のフロアに比べ上のフロアでは一層、高貴な装飾を施した男女が品性を保った身振りでグラスを交わしていた。

 その人だかりをすり抜け、隠し扉のように暗闇の壁に埋まったエレベーターの前であの人が足を止める。

 傍に立っていた黒服のスタッフがすぐにあの人の顔を認知したように一礼をすると、不思議と壁が左右に開いた。

 手を引かれるままエレベーターに乗り込む。黒服の一礼でわたしたちは小さな空間の中で二人きりになる。

 身体よりも先に臓器が上に昇っていく感覚に、さあっと不快感とは違う鳥肌が立つ。先ほどまで鼓膜にくるまっていた音楽は遠のいていく。

 正方形の密閉空間は上昇するこすれた音だけを残し、ぼんやりとするような静寂に包まれている。

 誰かの熱がわたしの肌に触れている、誰かの体温がわたしの身体に溶け込んでいく、その緊張がより鋭敏に感じられた。

 あの人はわたしの腕を握ったまま口を開こうとしない。

 腕を握る力の強弱が緻密に脳内で認識できてしまう。体験したことのない気まずさが、ぎこちなさが、わたしの頭の中をぐちゃぐちゃにした。

 ポーン。二人きりのエレベーターがどこかに到着したらしい音が、やけにはっきりと頭に鳴り響く。

 その瞬間、わたしははっと我に返った。

 どこかに連れ込まれるのかもしれない、わたしはあの人の引く手を力強く止めていた。

 止まっていた思考が冷静に動き出し、緊張が戦慄へと変わる。

 身体は必死に硬直し、あの人の誘導に抵抗している。あまりにも遅すぎた。

 細い前髪の先が線のように目にかかり、その微かな影から覗くあの人の瞳に喉の息が押し潰される。

 身体に熱が溜まり、手のひらにじんわりと汗を滲ませた。

 頭皮が生ぬるく濡れて、額にかかった前髪が熱くなる。

 あの人が、くすっと肩を震わせた。


「大丈夫だよ」


 顔のパーツひとつひとつを弛緩させるように、わたしへ笑いかける。

 声がさっきよりも近くに感じられた。こんな優しい声をしていたんだ、と簡単に力が抜けた。

 悪魔に見えていたあの人の表情は目尻に皺を残し頬は丸く歪み、まるで妖精のように和らいでいる。

 こんな優しい顔もできるんだ、とぽかんと唇が浮いていく。

 その表情に呆気に取られていると、不意をついたように身体はあの人に吸い込まれていた。

 不思議とあの悪魔へと、わたしが飲み込まれていく。

 わたしを塞いでいた防衛本能が、外へ溢れ出すようにふっと身体が軽くなる。

 その感情はさらに増幅するように高まった。


「…うそ、でしょ」


 ほとんど感嘆ともいえる掠れた声が、思わず口からこぼれ出た。

 身体を塗りたくるような激しい音楽と流れ星のように降りかかる銀色の光線、天井には巨大な紺色の空が円を描くように広がっていて、青や金、銀や白の様々な大きさや形をした星粒がいくつも散りばめられている。

 地方の田舎育ちのわたしでも、こんなに綺麗な星空は見たことがない。

 そして驚くことに、そのフロアに並ぶ長いソファやテーブルは星空に浮かび上がるように配置されていて、そこに並ぶ人々も紺色の壁紙に浮かんでいるように見えるのだ。

 何度か指の腹で目をこすり、目の裏に力を込め直した。それでもやはり、見間違えではなかった。

 椅子やソファが空に浮いている、そんなことはいくら星青区であってもあり得ないことだ。


「……ここは」

「スピカ最上階、VVIP」


 首を折って見上げていた視線を、あの人の顔にまで下ろす。悪魔と妖精が入り混じったようなあの人の顔が、光沢を帯びた白い明滅を浴びている。

 あの人はわたしの腰へ手を回し、もう片方の手で天井を指差す。

 どきりと、胸が熱く腫れ上がった。


「これはプラネタリウムだよ」


 と慣れた様子で口を開く。


「……これが、偽物の空?」

「そう」


 あの人は周りの音量に負けないように声を張って頷く。

 真ん中で分けられた長い前髪がふさっと揺れて目元を隠しては、また顔を出す。

 時々ものすごく鋭い目つきで、時々目を真ん丸にして瞳孔を震わせる。その表情の目まぐるしい変化に、視線と思考が追い付かない。

 つまりフロアは百八十度、まるで本物の星空のように作り上げられたプラネタリウムに包まれている。テーブルやソファが並ぶステージや階段にも高度な加工を施すことで、それらすべてが星空に浮かび上がっているように見えるということらしい。


「ほら、あれは夏の大三角形だよ」


 今度は急に両手の指で三角形を作り、星空に向けてかざす。目を細めて位置を定めようとしている。

それは鋭い目つきなどではなく、何かに熱中して周りが見えなくなった小学生のような少年らしい眼差しだ。一生懸命角度を変えては目を細め、空の星に三角形を当てはめようとしている。

 その不思議な行動を下から覗き込むと、かちっとあの人の目と、わたしの目が合わさる音がした。

胸を撃ち抜かれるような激しい衝撃が身体の脈を止め、慌てて目線を反らす。


「知らない?夏の大三角形」


 あの人は少し大きめに口を開ける。


「聞いたこと、あるかも」


 平然を装い、音響に負けじと張った声が微かに裏返る。

 小学校か中学校の理科の授業で習った気がする、その星の名前はなにひとつ覚えていない。

そもそも空を見上げることなんてもう何年もしていなかった。星や他の天体に関心を持ったことなんて、これまで一度もなかった。


「あれがベガだよ」


 あの人の細い指が一番強い光を放つ、青白い色の星を指さした。


「ベガ?」

「織姫星だよ。二番目に明るい星がアルタイル、彦星。それであっちがデネブ」


 あの人の指が何度も描く夜空の三角形を、目で追った。

その指先がどの星を指しているのか、はっきりとはわからない。それでも好奇心に満ちた表情で話をするあの人の横顔に、わたしは自然と心を落ち着かせていた。


「誕生日いつ?」

「……わたし、ですか?」

「そう」

「11月30日、です」

「じゃあ、ちょうどいて座も見える季節だよ」


 そう言ってあの人は夜空をなぞるように指を下に下ろすと、「あそこ!」とわたしの耳元に顔を寄せた。

わたしは何でもないことのように姿勢を正す。


「……これは夏の夜空なんですよね」

「そうだよ」

「いて座は冬の星座なのに、どうして?」

「黄道ってわかる?地球から見た太陽の通り道だよ。太陽が黄道の上を通っていくと一二の星座と重なるんだ。太陽がその星座と重なっている時期が誕生星座なんだ。つまり誕生星座はその時期には太陽と重なっているから地球からは見えない。だから自分の誕生星座が見える時期は、誕生日の四カ月前くらいになる」


へえ~、とつい理性が抜けたように感嘆した。すぐに口を噤む。こんなこと、常識なのかもしれない。

 それでも知らない知識を話すあの人の少年らしい横顔に、わたしはまんまと騙されたのだ。

 そのまま、大きなソファ席に手を引かれた。

宇宙船の椅子のような銀色のふちに、弾力性のある生地が四角くはめ込まれている。それは星空の中に浮いていて、大きなテーブルを囲んで広く円を描いている。

 ソファにはすでに、数人の男女が並んでいた。VVIP席はいくつか並んでいたが、中でもこの集団は異様だった。

 どこからか差す激しい光の点滅を受けて、その光景がうっすらと目に映っていく。

 ハイブランドのロゴが小さく柄になって編み込まれたワンピース。明らかに質の高い動物の鱗をしたバッグ。背景の星空と同等に銀色に発光する耳や首のアクセアリー。

 持ち主はわたしよりずっと若い、成人しているかどうかも怪しいくらい、線が細くて幼い顔立ちをした女の子たちだ。

 ああいう服やアクセサリーは、ファッションショーや雑誌の撮影でしか身に着けないものだとばかり思っていた。

 マッチ棒のように細い脚が高い腰から垂直に生えている。骨は中に付いているのだろうか。

 顔はこぶしほど小さい。同じ機能を持った脳みそがあの中に敷き詰められているとは思えない。

 肌は造り物のように艶を帯びていて、目頭は大きく開き人形のような真ん丸の目をしている。

 おわん型の胸が服の上からでもくっきりと浮き上がり、桃型のお尻は横幅の小さいボトムスの中でぷるんと上へ向いていた。

 黒や栗毛色の髪の上には光の輪が浮いている。中には清潔感のあるブロンドヘアの女の子もいる。

わたしが学生時代髪にブリーチをした時は、オレンジ色にばきばきに痛み、「ちゃんとトリートメントしてる?」と妹に小馬鹿にされたことがあった。

 大きなテーブルの上には大きなシャンパンクーラーが埋め込まれており、下から差す青色のライトが、氷とそれに突き刺さった何本ものシャンパンやウォッカのボトルを奇妙に照らしている。

 女の子たちは宝石のはまった細い指の間にシャンパングラスを通す。

 そして次に、グラスの中へなにやら奇妙な青紫色をした果実をぽとんと一粒落とした。

シャンパンの中で青紫色の果汁が煙を立たせるように充満していき、そのまま濡れた唇に色を染み込ませていく。

 

 なんだろう、あの果物は。


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