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小説

奇妙な通勤路

作者: ちりあくた

 都心を貫く国営線の線路に、人が立ち入ったらしい。

 その一報を聞いたのは通勤前の駅にて。

 駅員たちは忙しなく動き回っては、寝ぼけた顔のサラリーマンを誘導し、たまに発生する怒号へ頭を下げていた。


「なんで線路に入ったんだろ?」


 ぎゅうぎゅう詰めのホームで、隣の女子高校生二人が話していた。

 人混みは温室のように蒸して暑苦しい。思考回路はショート寸前なほどに熱され、私は夢を見ているようにぼうっとしていた。

 スマホを取り出す隙間もないので、他人の会話に耳を傾けるくらいしか暇つぶしはない。いるだけで苦痛な場ではマシな娯楽だろう。


「痴漢が逃げたりとかぁ? それとも頭の病気の人とか、もしくはなんかの主張をしたい人とか」


 大方その辺だろう、と思う。

 全く迷惑な話だ。一人のエゴを通すために何万人もの人々が迷惑を被っているのだから。


「そういえばさぁ。さっき中継で、その人が線路を歩く様子が映ってたんだけど、ちゃんとスーツを着てて真面目そうだったの。こんなことやりそうには思えなかったよ」

「真面目な人ほどストレス溜まりやすいからね、爆発しちゃったのかも。ウチのクラスの遠藤もさぁ……」


 ……中継?

 そのワードが気になって仕方なかった。どんなヤツが狂行に走ったのか、純粋な興味があった。

「すみません」といいながら身をよじり、スラックスのポケットからスマホをひねり出す。人混みの湿気で画面には細かな水滴がくっついていた。


『【中継】都市中央線立ち入り男を徹底追跡!』


 検索エンジンのトップページにこんな文字が躍り出ていた。

 タップした先の画面では、ドローンで撮影したと思われる空撮映像が、淡々と線路上の男を追っていた。視聴者数は一万人をゆうに超えている。

 こんなもの、時間が経てば鉄道会社か警察が解決してくれるのだ。みんなよく見るよなあ。

 と思ったものの、自分だってこの映像をじっと見つめているのが現状だった。


「こいつなんなんだよ。慌てて走る様子もねえし、頭おかしい風でもねえし、ただただ歩いてるだけじゃねえか」


 どこかで少しザラついた若い声が響く。

 そうか。視聴者数一万人の中には、各地の駅で立ち入り男に困り果てている人々もいるのだ。みんな、自分に迷惑をかける男の正体を知りたいのだろう。その動機は純粋な興味か、憎悪の対象を探すためか。


 改めて映像に目を向ける。

 確かに立ち入り男の歩く様には気になる点が一つもない。

 容姿は中肉中背の道端にいそうなサラリーマンだ。まるで通勤時の私たちのように、黒いカバンを手に提げ、ただ凡庸に道を歩いている。

 おかしな様子のないことが何よりもおかしかった。


 中継のチャット欄では半ば大喜利のように、立ち入り男の動機が考察されていた。

 ある者は「売名行為」と言い。

 ある者は「自分を電車と思っている」と言い。

 ある者は「自殺を衆目に晒したい」と言い。

 ある者は「スタンドバイミーに憧れたんだ」と言い。

 そのどれもに納得はいかなかった。立ち入り男の目線でものを考えようとすると、なぜかそれは通勤時の私目線に近づいていた。

 ふと、ある一つのコメントが目についた。


「会社への道が近かったから」


 その文章は心にスッと沁み入った。

 私だって近道を見つけたとき、そこがジメッとして人気がなくともつい歩いてしまう。荒れた砂利道でも、ダクトの並ぶ裏路地でも、入ったことのない地下道でも。

 じゃあ、線路でも?

 ぎゃははは、という大きな笑い声が背後から響いた。


「こいつ面白いな。俺たちも歩いちゃおうぜ、線路。このままじゃライブに遅れるし、全員でやれば誰が誰だか分かんねえだろ」


 このホームにいる全員が、ズラッと線路を歩く様子。

 そんなのバカみたいな光景だ。始業時間には間に合うけれど、当然ダメに決まってる。

 そんなことするのは奇人か狂人だけだ。

 中継の男だって。


「中継の男だって狂人じゃないか」。

 その言葉は心の奥で詰まっていた。

 私の目にした中継映像には、「線路上」という場所以外におかしな点はまるでなかった。背景の方が誤っているんじゃないか? 実は背景を加工された単なる通勤風景なんじゃないか? そう思えるほどに、彼の様子は自然だった。


「おい押すなよ!落ちるだろ」


 少し離れた場所で、黄色い線より少し先にいた中年男性が怒号を上げた。この駅にホームドアはない。彼の位置はわずかに、じりじりと、線路の方へ近づいているように見えた。

 人流の規制はされているはずだ。けれど、ホームにいる人はだんだんと膨れ上がっているように思える。

「押してねえよ」という声が反響した。声の主は誰かわからない。

 しかし、私だって圧力を感じていた。線路へと押される確かな力を。それは、線路からの引力だったのかもしれない。


「少し広がってよ! 娘が潰れちゃうでしょ」


 どこかの誰かが騒いでいる。

 揺れ動く人混みは大きな波のようだ。個々の水流が混じり合い、やがて大きな潮流になる。

 線路へ引かれたり、ホームの方へ引かれたり。女子高生とぶつかり、若い男とぶつかり、老年の女性とぶつかり……。

 その波に揉まれる中で、私は汗だくになっていた。

 このままじゃ圧迫死する人が出るかもしれない。熱中症にもなりかねない。この流れにいる事で、一体誰に何の得があるんだ。あの男が線路を出るまで続くんだろうか?


 私は、線路を歩くべきだと思った。


 荒れ狂う波の中で少しずつ、線路の方へと身を寄せた。波模様を変えようと必死だった。少しずつ、少しずつ、窮屈なコップから水をこぼそうと身を揺する。

 やがて、ホーム側の人間の「押すな」という叫びは減った。黄色い線の前で必死に踏みとどまる人々は、今や弱々しい表面張力だった。

 私は倒れるようにして線路側に力をかけた。


「わあ」とひときわ間抜けな声がした。


 沈黙が一瞬あった後、誰もが理解した。

 線路に人が落ちたんだ、と。

 人々は堰を切ったように線路へとなだれ込んだ。砂利の上に人の積み重なった小山ができて、山の上の人から線路へと駆け込んでいった。

 小山を支える人がどうなったのかは分からない。

 ただ私は先程までの息苦しさなどなかったように、いつもの通勤の朝のように、こう考えていた。


「今日も会社か、嫌だなあ」


 そうして線路を歩き始める。

 周りの人々も同じだった。そこはまるで一つの大通りだった。会社員がいて、親子がいて、学生がいて……。普段見る通勤風景が線路を取り巻いていた。

 ああ、立ち入り男は勇敢だった。彼は間違いなく奇人だった。しかし、たった一人で日常を創っていたんだ。

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