第7話「涙の正体は塩じゃない。女官の死の裏にあるもの」
蓮華楼に、不穏な報せが届いたのは、夜明け前のことだった。
「女官が……香炉の前で、死んでいました」
調香局の若手香師が蒼白な顔で報告する。
亡くなったのは、皇后付き女官の莉華。
遺体は目を見開き、顔には涙の跡があったという。
「涙を流して、死んでいたの……?」
燕蘭は、死体を見た瞬間、ある違和感を覚えた。
「……変ね。涙の跡が、乾いていない」
「それが……朝露のせいでは?」
「違うわ。瞳孔が開いてすぐならともかく、こんなに鮮やかに残るのはおかしい。
それに、目元の皮膚が赤く腫れてる。……炎症反応?」
彼女は目元を拭い、涙痕を瓶に採取した。
「玄霄、少し火を貸して。香材を試すわ」
調香局の簡易実験室。
涙痕の成分に薬液を加えると、青紫色に変化した。
「……やっぱり。これは“硫酸銅”の反応」
「硫酸銅?」
「うん。“涙”に見えたのは、ただの塩水じゃない。
涙のように見せかけた、硫酸銅溶液だった。これで皮膚の刺激反応も、全部説明がつく」
玄霄が眉をひそめる。
「じゃあ、あれは泣いてたんじゃなく……“誰かが意図的に塗った”ってことか?」
「それだけじゃない。硫酸銅が含まれていたなら、目から吸収された可能性もある。
莉華は……“香炉の煙”で死んだんじゃない。涙に見せかけた液体によって殺されたの」
燕蘭は、調香局に保管されていた“香炉”も調べた。
焦げ跡の残った香灰の中から、わずかな金属成分――“亜鉛”を検出。
「これは……“硫酸銅”と“亜鉛”が反応すると、“水素”が発生する。
香炉の中で二つを混ぜれば、瞬間的に可燃性のガスが……」
「つまり、微細な“爆発”だ」
玄霄が頷く。
「そう。死因は、“目の粘膜から硫酸銅を吸収しての中毒死”と、
“香炉からの微細なガスによるショック”」
燕蘭の目が鋭く光る。
「これは、誰かが莉華を確実に殺すために設計した“化学的殺人”。
香のせいじゃなく、化学反応を利用した“毒”よ」
その夜。
皇后は、静かに扇子を閉じた。
「莉華は、よく働く子だったのに。残念ね」
香琅が静かに進言する。
「お疑いでしたら、証拠を見せましょうか? ……“あの娘”が動いてます。化学に詳しすぎる」
「それでいいのよ。燕蘭が真実に近づくほど、この後宮は揺れる。
いずれ、あの子の存在が――“皇帝の耳”に届けば、どうなるかしらね」
皇后の瞳が、妖しく光った。
一方――蓮華楼の裏庭。
燕蘭は、ひとり香炉を見つめていた。
「母は……あのとき、何を残そうとしたの……?」
その手には、小さな封印袋。
亡き莉華の髪の中から見つけた――“蓮の花を模した密封香”が握られていた。
「この香……私が子どもの頃、母がくれた香に似てる。まさか……!」
開封した瞬間、甘く懐かしい香りが広がる。
そして、封の裏に小さな文字が現れる。
「蘭へ。お前は香で人を救う子になる。真実を見失うな。香の道の先に、父の答えがある」
「……父……?」
その言葉は、彼女にとって最大の謎であり、唯一の希望だった。
燕蘭は立ち上がり、夜空を見上げた。
「私は、止まらない。
誰が相手でも、香の真実で立ち向かう。――それが“毒姫”だから」
そしてその香が、次なる事件の扉を静かに開いた――。
別作品として薬学の知識を盛り込んだ新シリーズ蓮華楼の毒姫 ~帝を救うは、薬か罠か~を全5話連載していますので、そちらも時間がございましたら、お読みいただけますと幸いです。