第6話 香戦、開幕──毒姫と香師の誓い
2章開幕です。予定では10話で終わる予定です。
「ここでやるの?」
燕蘭が立つのは、蓮華楼の中央庭園――
夜の帳に覆われた広間には、香炉が十基、一定の距離で並べられていた。
その正面には、香師長・香琅が立っている。
「ここが一番、香が綺麗に回る。今夜は風も穏やか。……まさに、香戦日和ね」
香戦――香を使い、香気の強さ・精度・調合技術・心理誘導までを競い合う、
古より伝わる“香師の決闘”。
ただの競技ではない。
香の効果ひとつで命すら左右する。
勝者は栄誉を、敗者は命を失うこともある。
「……香で人を殺す者が、香師を名乗るの?」
「そうね。だからこそ、美しく仕留めてみせて」
香琅が扇子をひらりと開き、香炉の一つに火を入れた。
「**“睡蓮香”──催眠と幻覚を誘導する香よ。効き目は十歩圏内で二刻。あなたの理性を崩してあげる」
「お返しに……」
燕蘭は、自分の香袋から調合済みの香を一つ、香炉に投入した。
「“紅酢花”──意識を冴え渡らせる防香。幻覚作用を無効化する」
香気が広がり、二つの香が空中で交わる。
「なかなかやるじゃない」
香琅は微笑みながらも、目が冷たい。
次の香炉に近づくと、そこに火を灯した。
「これはどうかしら。“幽絹香”――記憶の再現作用がある香。
あなたの心の奥底にある“忘れたい何か”を引き出すわ」
燕蘭の脳裏に、一瞬母の顔とあの炎の夜がよぎる。
「ッ……!」
頭がぐらりと揺れる。
「大丈夫か?」
物陰から見ていた玄霄が叫ぶ。だが燕蘭は手を挙げて制する。
「平気よ。……負けるわけにはいかないの」
彼女は次の香を手にする。
「“月白香”――記憶を鎮め、眠りの中に閉じ込める香。
あなたが他人に使ってきた香で、あなたを封じる」
香炉に入れた瞬間、空気が変わった。
香琅が一瞬たじろぎ、そして笑う。
「なるほど。戦い方、覚えたわね。……でも、甘い」
香琅は三つめの香炉に、白粉のような香を投入した。
「“断命香”――人体の血流に影響を与える毒香。少量なら気絶、濃度が高ければ……」
「死、ね」
燕蘭はすぐに香炉を倒し、火を消した。
「毒香の使用は、香戦の禁則。……規則違反よ」
「ええ。でも私は皇后直属。規則など、最初から持ち合わせてないわ」
次の瞬間、香琅が鞄から取り出したのは、“皇后の印”の入った調香札だった。
「私に逆らうのは、皇后に刃向かうということ。あなた、覚悟はあるのかしら?」
燕蘭は、微かに笑った。
「もちろん」
そして、自身最後の香を取り出す。
「“無我香”――全ての香を相殺する中和香。
香に頼りすぎた者ほど、何もできなくなる」
香炉に投入。一瞬で空気の中の香気が打ち消されていく。
香琅の目が見開かれる。
「……まさか、それを使うとは。そんな高度な調香……あなた、何者……?」
燕蘭は一歩前へ出る。
「私は“蓮華楼の毒姫”。
香で人を救い、香で悪を暴く。……香師である前に、正義の目を持つ者よ」
香琅は一瞬だけ沈黙し――やがて、静かに跪いた。
「……降参よ。あなたには、勝てない。
でも気をつけなさい。これで、あなたは完全に“皇后の敵”になった」
夜空の下、香戦は終わった。
香の煙は晴れ、蘭の中で何かが確かに変わっていた。
その夜、玄霄がそっと声をかける。
「……よくやったな」
「ええ。でも、まだ始まったばかりよ。
私、もっと強くならなきゃ。香で戦うために。香で……母の死の真相を暴くために」
その横顔は、もう迷っていない。
玄霄はふと、真剣な表情で言った。
「俺は――お前の味方でい続ける。……たとえ、お前が“皇帝の娘”でも、な」
燕蘭の瞳が揺れた。
「玄霄……それって……」
「言わせるな、恥ずかしい」
頬を赤らめながら、玄霄は夜の影に紛れた。
恋と香と真実の闘いは、これからが本番だ。