第3話「桃花の香と、妃の涙の理由」
春燕という小さな駒の死と共に、後宮は静かにざわつき始めた。
だが、それは表には出ない。
後宮とは、沈黙こそが最大の防御であり、攻撃でもあるからだ。
燕蘭は、事件の残り香を辿るように、蓮華楼の内でも最も静かな一室を訪れた。
そこに住まうのは、翠蓉妃。
かつて皇帝の寵を受けたが、いまは政争を避けて病と称し、引きこもっていると噂されている妃だ。
「久しぶりね、蘭。あなたが来るなんて、春の嵐でも吹き荒れたのかしら」
微笑を浮かべてそう言った彼女の瞳は、どこか憂いを帯びていた。
「嵐、というより……風の香りが少し変わっただけですわ。桃花の香り、少し強すぎませんか?」
蘭は室内を一歩進みながら言った。
この部屋には、かすかに桃の甘さと苦味が混じった香りが漂っている。
翠蓉妃はふと目を伏せ、扇で口元を隠した。
「香りくらい、少し強くしないと、記憶にも残らないでしょう?」
「……誰の記憶に、ですか?」
その問いに、翠蓉妃の扇がぴたりと止まった。
「玉春妃の件、何かご存知ですね」
蘭は続ける。
「香の仕入れに、あなたの名義が使われていた。直接ではなく、下の香師を経由して。……それも三ヶ月前から、特定の香薬を重点的に購入していました。“紅玉花”、“竜胆”、“桃花蜜”――これらはすべて、毒にも媚薬にもなり得る成分です」
「……知っているわ」
翠蓉妃は静かに言った。
「でも、それは私が使うためじゃなかったの。私は、ただ……“彼女”を守ろうとしただけ」
「彼女、とは?」
翠蓉妃はゆっくりと立ち上がる。
窓の外には、咲き始めた桃の花が見える。
「玉春妃。あの子は、私の妹……“異母妹”よ」
蘭の目がわずかに見開かれる。
「生まれた家も違い、名も違う。でも、あの子は昔から私を“姉様”と呼んでくれていた。だから、後宮に入ったと知ったとき、私は――守ろうとしたの」
「でも、結果的に毒香が仕込まれました。それを“あなたが仕向けた”と見せかけるように」
翠蓉妃は唇を噛みしめた。
「香薬の仕入れを私の名義にしたのも……“誰かが細工した”というわけね」
「ええ。そしてその“誰か”が、春燕を使って実行に移した」
「春燕は、もともと……皇后付きの下女だったわ」
その言葉に、蘭の視線が鋭さを増す。
「つまり、皇后派が動いていた……?」
「玉春妃は最近、“皇帝の子を授かった”の。まだ正式には発表されていないけれど」
「それが、命を狙われた理由……」
翠蓉妃は、ふと視線を落とした。
「私がもっと早く気づいていれば……あの子を守れたのに」
蘭はしばし黙っていたが、やがて言った。
「まだ、間に合います。香は真実を知っています。香炉に残っていた“桃花蜜”の分量、あなたの部屋の香とは違っていました。これはあなたの香じゃない。“誰かが似せて作った偽物”です」
「偽物……?」
「はい。そして、それを調合できるのは、宮中で一人だけ――“皇后直属の香師”です」
蘭はそう言って立ち上がった。
「真実を香が語ってくれるなら、私はその声を聞きに行きます。たとえ、どれだけ高い場所にあろうと」
その夜、蘭は玄霄と共に、香師たちが集う調香局へと向かう。
そこは、後宮の香りの源。
あらゆる香が生まれ、そして誰かの思惑に染まっていく場所。
扉の奥で待っていたのは、皇后直属の香師長・香琅。
彼女の手には、淡く煙る桃花香の炉。
「ようこそ、毒姫と宦官殿。あなたたちが嗅ぎたがっている香は……果たして、真実の香りかしら?」
意味深な微笑みと共に、煙が二人を包み込んだ――