第2話「紅玉の瞳と、消えた毒瓶」
後宮に噂が広がるのは、風よりも速い。
「玉春妃様が倒れられたそうよ。香に毒があったって……」
「また毒? 最近、香炉の管理が緩んでるって話……」
「まさか、“毒姫”が仕込んだんじゃ……」
噂の的となった“毒姫”こと燕蘭は、それをどこ吹く風とばかりに、香薬の棚を整理していた。
「……紅玉花の瓶、どこへやったかしら」
赤い薬草――紅玉花は、軽い毒性を持つが、香にすると神経をわずかに麻痺させる。今回の毒香の調合に使われた可能性が高い。
しかし、その瓶が忽然と姿を消していた。
「まさか、誰かが……」
「何かなくしたのか?」
ふいに後ろから声がした。
振り向けば、例の宦官・玄霄が静かに立っていた。
「盗まれたようね。紅玉花の瓶だけが……ご丁寧に蓋まで拭き取られて」
「誰でも触れる位置に置いていたのか?」
「ええ、あえて。“盗ませる”ためにね」
蘭は、微笑みさえ浮かべて言った。
「そして、盗んだ者の手には、紅玉の香粉が染みつく。……香は、水では落ちないわ」
玄霄の目が細められる。
「つまり、犯人は既に“香の証拠”を身にまとっていると?」
「その通り。そしてもう一つ、手がかりがあるの」
蘭は、懐から取り出した布切れを玄霄に見せた。
それは、淡い香りを帯びた指拭き用の絹布。端に「春」という細かな刺繍がある。
「玉春妃の侍女が使っていたもの。けれど、これは妃付きじゃない。“春燕”という雑用係の侍女が持っていたのを、こっそり回収したの」
「雑用係……? 玉春妃の身の回りに入る立場ではないはずだ」
「でも、香炉の交換くらいなら……できなくはない。特に、誰かが後押ししていれば」
玄霄は腕を組んだまま、ふと視線を横に流す。
「その春燕、どこにいる?」
「今朝から、姿を消しているわ。……つまり、“逃げた”」
その瞬間、外から声が上がった。
「報告! 西側の離れで、侍女の死体が!」
玄霄と蘭は目を見合わせ、一斉に走り出す。
現場に着くと、そこには倒れた若い侍女の姿があった。
顔色は蒼白、唇には紫色の痕跡。衣には香袋が縫い込まれていた。
蘭がしゃがみ込んで香袋を裂く。
「……やっぱり。これは、紅玉花と竜胆の混合香」
玄霄が険しい表情を浮かべた。
「それを吸えば、脳への酸素供給が阻害される。……時間をかけて殺す香だ」
「しかも、自分で調合したものじゃないわ。これ、“誰かに渡されたもの”。香の仕立てが雑すぎる」
蘭は、静かに顔を上げる。
「この春燕は、駒だった。使い捨ての――ね」
「……背後に、本当の黒幕がいる」
蘭は頷き、玄霄の手に香袋を渡した。
「香が消えきる前に、調べて。これを仕込んだ人物は、香師の心得がある」
そして蘭は、春燕の手元にあった刺繍入りの小袋に目をとめる。
袋の縫い目には、ひときわ高価な緋色の糸が使われていた。
「この糸……皇后様の衣に使われているものと、同じ」
小さな香袋が、やがて後宮の頂上へと繋がる糸になる――
蘭は、確かな確信と共にそう思った。
静かに香る紅玉の香は、まだすべてを語っていない。