✿後日譚 『桃花灯、香る夜にて』
蓮の花が静かに咲く中庭。
夜風が淡く香り、灯籠に火がともる。
後宮では年に一度、桃花の咲く夜に“香灯会”という催しが開かれる。
香を焚き、願いを灯籠に託して池に流す――そんな、穏やかな宵。
煌璃は調香局の筆頭として招かれ、淡桃色の衣を身に纏っていた。
「……やっぱり、慣れないな。こういう場は」
「似合っていますよ、煌璃様」
いつものように、玄月が隣に立つ。
「香監妃となった今では、陛下も煌璃様を“後宮の守り神”とお呼びです。
……少なくとも、毒香妃などと囁かれることは、もうありません」
「ふふ、それはそれで寂しいかも」
煌璃は笑い、香炉に火を入れる。
母の遺した香符の一つ、「無垢の香」。
これは毒でも媚でもない、ただ心を落ち着かせる穏やかな香。
紅蘭が一番最後に作った、娘のための香だった。
「お母さん、見てるかな。
私は、香で誰も傷つけない世界を、少しずつ作ってるよ」
煌璃は小さな灯籠に火を灯し、願い札をそっと添える。
そこには、ひとこと――
「香に生き、香に惑わされずに在れますように」
灯籠を池に流したそのとき。
隣にいた玄月が、珍しく少しだけ表情を崩した。
「煌璃様。……もし、香のない世界で生きるとしたら、
貴女は何を望みますか?」
「え?」
「毒も香もない、平凡な日々があったなら。
貴女は、誰と……どこで……」
煌璃はぽかんと口を開けたあと、ふっと笑った。
「……そうね。
もしそんな日が来たら、薬舗でも開いて、貴方と二人で忙しく働いて……
夜には、桃花の香を焚いて、静かに眠れたらいいかな」
玄月の頬が、夜灯の下でかすかに赤く染まる。
「……それは、つまり」
「だからまだ言わないの。今は香の中に生きているから」
煌璃はいたずらっぽく微笑んだ。
けれどその瞳の奥には、確かな希望の灯がともっていた。
――香は、呪いにもなり、祈りにもなる。
だからこそ、正しく選ばなければならない。
その覚悟とともに、煌璃は灯籠を見送った。
夜空には、桃の香が、静かに、甘く漂っていた。
『蓮華楼の毒姫』の後日譚、いかがでしたでしょうか。
謎と毒と香に満ちた後宮の物語は幕を下ろしましたが、煌璃と玄月の人生はまだ続いていきます。
この物語が、あなたの心のどこかに香るように残れば嬉しいです。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。




