第1話「甘い香りと、泣かない妃」
蓮華楼に、蜜柑のような香りが漂っていた。
穏やかで、心を落ち着かせる香り――そのはずだった。
「……この香、甘すぎる。媚薬成分が強すぎる」
燕蘭は香炉の匂いを嗅いで眉をひそめた。
目の前でうつむく若い妃――**玉春妃**が、ふらつきながら床に手をつく。
「頭が……痛くて……」
彼女の口元には、微かに紅の血が滲んでいた。
「これは香じゃない。“合歓香”を装った血管拡張毒ね」
蘭は即座に香炉を水に沈め、妃の腕を取り、手首の脈を探る。
鼓動が速すぎる。だが、致死量ではない。
「この程度で済んだのは運が良かったわ。けど、あなたが狙われた理由は……“子”でしょうね」
その言葉に、妃の目が見開かれる。
後宮の中で、子を成すことは最も価値あること。
その芽を摘む――それは暗黙の殺意だ。
「……誰が、こんなことを」
「香に混ぜた毒は、ごく微量で、調合できる者は限られる」
蘭は香の残り香を、袖の中に隠した小瓶に吸わせる。
そのとき、静かに部屋の障子が開いた。
「やはり、あなたが来ていたか。毒の気配が強かった」
現れたのは、長身の宦官――玄霄だった。
目は鋭く、無表情のまま部屋を見渡し、香炉と妃に目を留める。
「また、“香”の中に毒があったか」
「ええ、そしてこれは“直接手渡しされた香”じゃない。おそらく妃の“専属侍女”が仕込んだ可能性が高いわ」
「……毒を使う者は、どこかで自分の行いに酔う。それが香なら、必ず“香調”に癖が現れる」
玄霄が蘭を見る。
「解明してくれ、燕蘭。この香を使った者の“癖”を。そうすれば、犯人は浮かび上がる」
蘭は一歩、香炉に近づき、微かに笑った。
「香は嘘をつけないから、嫌いじゃない。……人間よりも、ずっと誠実」
彼女はそう言って、香の底に残る“嘘の残り香”を嗅ぎ取った――
事件の真相へと続く道が、静かに開かれた。