92 ドランザーク帝国攻防戦 4
インフィが、そっとヨパラのもとへ歩み寄った。
彼の目をまっすぐに見つめながら、落ち着いた声でたずねた。
「ヨパラさん、どうしますか?」
ヨパラは少し考えるように頭をかき、それから穏やかな笑みを浮かべて自分の気持ちを言葉にした。
「うーん……もういいかな。親父と、こいつの問題だったしな」
「もう終わってしまったことだ。なにをしても元には戻らない」
「母ちゃんは……嫌かもしれないが、きっと許してくれるだろう」
言葉を選ぶように一つひとつ丁寧に話し、最後にこう結んだ。
「俺の中では、ケリがついた。……あとはインフィに任せるよ」
インフィはその言葉を聞いて、少し安心したようにうなずいた。
目にわずかな安堵の色を浮かべながら、静かに言った。
「では──あとは、シャリーネに任せますね」
その声が響いた直後、まるで呼応するかのように、シャリーネが姿を現した。
淡い光の中に浮かぶその姿は、空間の雰囲気を一変させるような存在感を放っていた。
インフィはその姿に目を向けながら、落ち着いた口調で言った。
「ヨパラさんは、シャリーネの好きにしていいって。……シャリーネ、あとは任せたよ」
その言葉に応えるように、シャリーネは微かに狂気を宿した笑みを浮かべ、小さく「はい」とうなずいた。
この一言が、インフィという名がアステリオン大陸全土に刻まれるきっかけとなった。ただインフィは、シャリーネが笑ってくれることが嬉しい──それだけだった。
ふと何かを思い出したようにインフィは周囲を見渡し、穏やかな声で語りかける。
「あなたたちは、まだ僕に逆らいますか?」
誰一人として声を上げる者はいなかった。ただ、全員が無言で首を大きく横に振った。
下着姿の男だけは顔を真っ赤に染めながら首を何度も縦に振っていたが、インフィは彼に目もくれなかった。
そこへ、シャリーネが一歩前に出て優雅にお辞儀し、凛とした声で名乗る。
「私は、シャリーネと申します」
その瞬間、空気が一変した。ざわめきとともに人々の口から驚きの声が漏れ始める。
「シャリーネ様……?」
「百年前、勇者と共に戦ったという……?」
「記録にに載っていた姿と、まったく同じだ……!」
シャリーネは淡く微笑んで続けた。
「はい。私は天空から遣わされた者──百年前、勇者様と共にこの地を救った者です」
「今、インフィ様よりこの国の統治を任されました」
「この国は、今日より『インフィ聖国』と名を改めます」
「そして、国を導く十名の統治者を連れてまいりました」
「これから国の礎を築くのは、あなた方です」
「私は人に害を加えません。ただし、インフィ様に逆らう者は許しません」
「この地の柱となる者たちが順にこの国へ集まります。その者たちと共に、インフィ聖国の未来を築いてください」
沈黙の後、重鎮たちは互いに目を合わせた。
だが、暴君ザガルノスの下で苦しんできた彼らにとって、答えは明白だった。
かつて「聖女」と讃えられたシャリーネが導くなら、それに従うのが最善なのだ。
やがて、誰からともなく両肘をつき、祈るように頭を深く垂れる者たちが現れた。
しかしそのとき、シャリーネが鋭く声を発した。
その一言で、場の空気が一瞬にして凍りついた。
「違います。私ではなく、インフィ様に誓いを立てるのです!」
その凛とした言葉に、玉座の間にいた全員がインフィの方を向き直ると、今度は揃って声を上げた。
「インフィ様! インフィ聖国の礎となることを、インフィ様に誓います!」
その声は玉座の間に響き渡り、揺るぎない決意の空気を刻んだ。
だが、当のインフィはといえば、何も感じていないように見えた。
シャリーネの嬉しそうな顔を見て、インフィも自然とあどけない笑顔を浮かべていた。
彼の胸にあるのは、いつもの思い──
すぐにあの小さな魔王城へ戻り、再び魔物を倒し高見を目指すという意思だけだった。
インフィは、すでに「レベル上げ」という呪縛から解き放たれていた。
もはや、自分の強さを数値で測ることに意味を見出していなかった。
──本当の自分は、まだ取り戻せていない。
そんな想いを、彼はどこかで感じていた。
だからこそ、彼はただ己を、より高みへと鍛え上げるために──
修練の一環として、自分より高いレベルの魔物を倒し続けているのだった。
そのころ──
シャリーネは玉座の間の片隅で、どこか狂気を帯びた微笑を浮かべながら、すべてを満足げに見渡していた。
その姿を、なぜかフィディアが少し妬ましげに見つめていた。
「私が一番、頑張ったのに……シャリーネばかり目立ってる」
そうつぶやきながらも、“インフィの国”が誕生したことを、内心ではとても嬉しそうに見守っていた。
こうして──
インフィ聖国の国旗には、「I」と「F」の文字が交差する紋章が採用された。
各地には、インフィの──どこか凛々しく整えられた──銅像が、次々と建てられていくことになる。
……ああ、忘れてはならない。
かつて帝国の頂点に君臨していたザガルノスは──
シャリーネの秘術によって魔力を吸い取られ、言葉すら失い、今や下着姿で労役に就かされていた。
「……あれが、あの皇帝ザガルノスか」
「下着姿って……哀れだな」
「いや、自業自得だろ」
「俺は……絶対に、ああはなりたくないな……」
民たちは囁き合いながら、遠巻きに元皇帝の姿を見つめていた。
その視線には、もはや恐れも怒りもなかった。あったのは──ただ、冷めた哀れみだけだった。
アステリオン大陸に点在する諸国の多くは──
突如として誕生した「インフィ聖国」の存在を、素直に歓迎してはいなかった。
その理由は、国ごとにさまざまだった。
自国の民が聖国に憧れ、流出してしまうことを恐れる者。
ドランザーク帝国の瓦解に乗じて、他国を侵略しようと目論む者。
あるいは──ただその存在が、自らの権威を脅かすと感じる者。
さまざまな「欲と恐れ」が、密かに蠢き始めていた。
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