82 インフィとは 5
インフィは、白い空間の中に立っていた。
地平も天井も曖昧で、ただ淡い光が一面を覆っている。
音はなく、風もなく──けれど、どこか懐かしい気配が漂っていた。
それが何かは思い出せないまま、彼はひとり、立ち尽くしていた。
インフィは、ぽつりと呟いた。
「……ここは、どこだ」
声は空間に吸い込まれ、反響すら返ってこなかった。
そのとき──
白い光の揺らめきの中から、ゆっくりと影が現れた。
姿を現したのは、フィディア。
下半身は蛇のまま、柔らかな羽衣をまとい、何も語らずにインフィの前へと歩み出た。
変わらぬその姿に、空間は深い沈黙を湛えた。
まるで時間そのものが、凍りついたかのようだった。
その静けさを、破ったのはインフィの声だった。
「……お前は、誰だ」
咄嗟の叫びだった。
その声には、戸惑いと警戒、そして微かな恐れが滲んでいた。
フィディアは、その問いにすぐには答えなかった。
ただ、瞳を伏せ、ゆっくりと唇を動かす。
「私のこと……完全に忘れてしまったのね、インフィちゃん……本当に、全部……」
その声は、細く、ひどく遠く──ひとつの祈りのようにも聞こえた。
インフィは、胸の奥を締めつけられるような痛みに、思わず顔をゆがめた。
けれど、その感情の正体を掴む前に、本能が警告を発していた。
この空間は危うい。
この存在も、知らない。
彼は震える声で言った。
「知らない……ここは、どこだ。君も……知らない」
その言葉に、フィディアの目が揺れた。
まぶたの端から、にじむように涙が溢れ出す。
「もう……私のインフィちゃんはいないのね……」
振り向いた彼女は、低く名を呼んだ。
「レイヴァン……お願い。彼を、取り戻して……」
そのとき、白い空間の一角に静かに現れた影があった。
長身の高級ブランドを身にまとった──レイヴァンだった。
レイヴァンは、ゆっくりと頭を垂れた。
その声は低く、けれど揺らぎはなかった。
「申し訳ありません、フィディア様。
私には……インフィ様を攻撃することはできません」
それは、忠誠ではなく、確信による拒絶だった。
彼にはわかっていた。
──フィディア様は、まだ迷っている。
どこかで、インフィを壊すことをためらっている。
「命令よ。従いなさい」
フィディアは、叫ぶように言った。
だがレイヴァンは、わずかに目を伏せ、静かに答えた。
「それでも……こればかりは、従うことはできません」
フィディアの肩が小さく震えた。
そして、今度はインフィに向けて、絞り出すように声をかけた。
「ねえ、インフィちゃん……本当に、私のこと……思い出せないの?」
インフィは、一歩後ろへ引きながら答えた。
「知らない。……僕の邪魔を、しないで」
その言葉は──かつて彼が何度も繰り返していたものだった。
口にした瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。けれど、それが何を意味するのか、言葉にはできなかった。
フィディアの姿は、思い出せなかった。
名前も、ぬくもりも、すべてが霧の向こうにあった。
フィディアは、視線を落とし、小さくつぶやいた。
「……もう、私のインフィちゃんは、いないのね……」
その瞬間、黒い魔法が静かに編まれ、インフィの身体を覆い尽くしていく。
空間がひときわ重く沈み、闇がその中心を包み込もうとした。
だが──
インフィは、一歩も動かず、ただ右手を軽く掲げるだけでそれを払いのけた。
まるで、霧を裂くように。
「……僕の邪魔をするな」
その声は冷たく、静かだった。
フィディアの表情に、驚愕が走る。
まさか、この魔法すら通じないとは。
息を整える間もなく、今度は強力な拘束魔法を発動した。
無数の鎖が空間から生まれ、インフィを絡め取ろうと迫る。
──けれど、それすらも。
インフィは、ただ静かに指先を払っただけだった。
その一動作で、魔法の構築は霧のように崩れ去り、痕跡すら残らなかった。
まるで、最初から何もなかったかのように。
フィディアは、その光景を見つめたまま、わずかに息を呑んだ。
インフィを倒さなければ、彼を取り戻すことはできない──
けれど、ただ壊すだけなら、まだ再生できる可能性は残っているかもしれない。
そのわずかな望みにすがるように、彼女の心は揺れていた。
破壊と再生、そのあいだの細い綱を、必死に踏みとどまっていた。
そして、彼女は決断する。
完全には破壊せず、ほんのわずかな手加減を残した攻撃魔法を放った。
だが──そのときにはすでに、インフィの姿はそこにはなかった。
気づけば、彼は無音のまま移動し、フィディアのすぐ横に立っていた。
そして──剣を構えることもなく、その横腹へと突き立てていた。
金属音も、風を裂く音もなかった。
ただ、感情のない動作として、それは完了していた。
けれど、レベル28のインフィの剣では──
たとえ正確に急所を突こうとも、フィディアの肉体には傷ひとつ与えることはできなかった。
それでも、インフィは動きを止めなかった。
無言のまま、フィディアの魔法を的確にかわし、剣を振るう。
躊躇も、ためらいも、そこにはなかった。
不可解なほどに──彼にはフィディアの攻撃のすべてが見えていた。
魔力の流れ、詠唱の兆し、わずかな指先の動きさえも。
常に先手を取り、構築される魔法すらも先読みして動いていた。
広域魔法であれば、今のインフィはすでに無効化できる。
その領域に、彼は達していた。
だが、フィディアはまだためらっていた。
──インフィを、完全に消し去ることを。
そのため、戦いは決着のないまま続いていた。
終わりの兆しすら見えない、静かで果てしない消耗戦。
そして──気づけば、先に魔力が尽きたのは、フィディアのほうだった。
彼女はふらりと膝を折り、そのまま、インフィの足元へと崩れ落ちた。
インフィはその姿を、ただ無言で見下ろしていた。
感情の色を失った目で、インフィはただ動かずに立っていた。
崩れ落ちたフィディアを見下ろしながら、その姿に一切の動揺を見せることはなかった。
まるで、それが当然であるかのように。
──そのときだった。
インフィの心の奥底から、ひとつの声が湧き上がった。
《そんなものは──不要だ。殺せ》
それは誰の声でもなかった。
怒りに満ち、冷たく、容赦のない意思が、彼の内側からあふれ出していた。
感情が燃え上がる。
怒りが、痛みが、憎しみのようなものが、混ざり合って渦巻く。
「……僕の心は、僕のものだ。誰が……誰が、僕の心を──邪魔するんだ……!」
インフィは、震える声で叫んだ。
その言葉は、白く沈黙した空間に染み込むように広がっていく。
響きでもなく、反響でもなく──ただ、心の奥に届くような余韻を残して。
やがて、彼はゆっくりと周囲を見渡した。
何もないはずのその世界に、ただ一つ──静かな気配が差し込んでいた。
視界の端に、そっと映る人影。
白い修道服に身を包み、祈るようにまっすぐな瞳でこちらを見つめる姿。
そこに立っていたのは、シャリーネだった。




