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72 インフィの心

窓辺に差し込む柔らかな光が、白いカーテンを透かして室内を淡く染めていた。

その光にまぶたをなぞられるようにして、インフィは静かに目を開けた。


全身には、鈍い重さが残っていた。

シャリーネとの戦い──極限まで高めた攻撃を、半日近くも続けていたのだ。

普段であれば、夜明け前にはすでに目を覚まし、魔塔へと足を向けていたはずだった。

だがこの朝は違った。空はすでに白み始めている。


視線を前へ向けると、シャリーネが静かに眠っていた。

背後では、フィディアが寝息を立てながら身を丸めている。

インフィは二人を起こさぬよう、慎重に布団を押しのけ、そっとベッドから降りた。


足元の感触すら静かに受け止めながら、ふと、いつもの自分との違いに気づいた。

フィディアに対して抱くはずの、忌避の感情──今朝は不思議と、それが湧いてこなかった。

心は穏やかで、どこか澄みきっていた。


昨日の戦いが、静かに脳裏をよぎる。

シャリーネには、全力の斬撃を幾度となく繰り出した。

だが──一度として届かなかった。


フィディアが時折見せる魔力も、手の届かぬほどの高みにあった。

レイヴァンも、自分とは比べものにならないほど強かった。


インフィは、ただ静かにそれを認めていた。

まだまだ自分は弱い──その現実が、すっと胸の内に溶け込んでいた。


今日は、魔塔には行かない。

そう決めたとき、どこかから緩やかな声が届いてきた。


「ケケケ〜(はい)」

乾いた空気の中に響くその調子は、妙にのんびりとしていた。レイヴァンが、温泉で気持ちよさそうに歌っているらしい。


ふと、しばらく風呂に入っていないことを思い出した。

インフィは一切の躊躇もなく、その場で服を脱ぎ始めた。

まだ十歳の少年である彼には、羞恥という感情はなかった。


ゆらめく湯気の向こうから、レイヴァンののんびりとした歌声が聞こえる。

黒く焦げた骨のままだが、その調子はどこか朗らかだった。


その様子を見たインフィは、湯の縁に足をかけ、無言のまま湯に身を沈める。

レイヴァンは驚いたように一瞬だけ動きを止めたが、すぐに「カカカ(はい)」と嬉しそうに笑った。


その様子に、インフィも笑顔で応えた。

湯に浸かりながら、見上げた空は──真っ青に晴れ渡っていた。


心が、ほどけていく。

湯のぬくもりに包まれたインフィは、空を見上げながら、これまでの自分を静かに思い返していた。


──なぜ、自分はあの最果ての地で、レベルゼロとして現れたのか。

遊牧民たちと過ごした、穏やかで静かな日々。

奴隷兵としての暮らしの中にさえ、どこか奇妙な楽しさがあった。

ゼルが、生きていてくれたこと。

ヨパラとの出会い──そして、父のような優しさ。


胸の奥に次々と浮かぶ記憶が、静かに心を満たしていく。

なぜか涙があふれていた。


そして──

「僕はいったい、何だったんだろう。何をするために、ここにいるんだろう」

ぼんやりと空を見上げながら、インフィはそう思いを巡らせていた。


そのとき、湯が静かに波立った。

音もなく滑るように現れたのは──蛇の下半身を持つフィディアだった。

妖艶な羽衣をまとった上半身はそのままに、しなやかな鱗の尾が湯の面をたゆたわせていた。


彼女は迷いなく、インフィの隣へと身を寄せ、そっとその小さな身体を抱きしめる。

その腕はあたたかく、ただ静かに、ぬくもりだけを与えていた。


インフィは、拒まなかった。

ただ、空を見上げたまま、まるで何も感じていないかのように、目を細めていた。


フィディアは──内心、戸惑っていた。

インフィが自分を拒絶していない。

それだけのことが、胸をざわつかせる。


どうして、こんなに鼓動が早いのだろう。

まるで、自分が──恋する乙女にでもなったみたいに。


続いて、シャリーネが湯へと入ってきた。

その姿は、まるで修道女のように──肌をほとんど見せぬ衣で身を包み、慎ましやかに歩を進めてくる。

フィディアと一瞬だけ視線を交わすと、無言のまま火花が散った。だが、それ以上の応酬はなかった。


やがて、彼女は服を着たまま静かに湯船に入り、頬を真っ赤に染めながら、そっとその頭をインフィの肩へと寄せる。


インフィは、ただ空を見上げたまま、何も言わずにそれを受け入れていた。


そこへ、ヨパラがいつものように朝風呂へと現れた。

だが目に飛び込んできたのは──真っ黒に焦げた骸骨・レイヴァン。

その隣には、蛇の尾を湯に揺らす妖艶なフィディア。

反対側には、修道服に身を包んだ清楚な美少女・シャリーネが、頬を染めて少年の肩にもたれている。


そして中央には、空を見上げる少年──インフィの姿。

あまりに異様な構図に、ヨパラは反射的に踵を返しかけた。


「ヨパラさんも、どうぞ」


静かにかけられたインフィの声に、ヨパラは苦笑いを浮かべる。

前をタオルで押さえながら、気まずそうに湯へと身を沈めた。


フィディアも、シャリーネも、彼に視線を向けることはなかった。

まるで、そこにいないかのように。

レイヴァンだけは、たまに一緒に朝風呂に入っているのか、「ケケケ(はい)」と嬉しそうにヨパラを呼んだ。


ヨパラが、隣のインフィに目を向ける。


「最初に出会ったときから、お前はどこか違うと思ってたけど……まさか、ここまでとはな」


笑いを含んだ声でそう言いながら、いつもの癖で頭を撫でようと手を伸ばす──

だが、フィディアとシャリーネの鋭い視線が同時に突き刺さり、ヨパラはそっと手を引っ込めた。


「ヴァルメルに来てから、こんなにゆっくりしたの、初めてかもしれんな……」


湯に肩まで沈めながら、ぽつりと呟いたヨパラの言葉に、レイヴァンが「カカカ(いいえ)」としみじみと頷いた。


どうやら、インフィが眠っている間に──

フィディアとシャリーネの間で、密かに停戦条約が結ばれたようだった。


昨日まで漂っていた殺気や嫉妬は、いまは感じられない。

二人とも言葉にはしなかったが、インフィの変化を、それぞれに喜んでいるように見えた。


こうして、この日は静かな一日となった。

誰もが、心を休めるための時間を、旅館の中で過ごしていた。


夕食の時間になると、インフィは無言で箸を取り、一口、料理を口に運んだ。

その瞬間──涙が、ぽろりと頬を伝う。


「……うまい」


スライムを噛み千切って倒した時の、あの最悪の味が、まだ舌に残っていたのだろう。

それだけに、この温かい食事が、心と体に染みた。


その様子を初めて見たシャリーネは、咄嗟に何かの異変と捉え、魔法の詠唱を始めかけた。

だが、すぐに周囲に制され、事態を理解する。


次の瞬間、場の空気がふっと緩み、湯気とともに笑いがこぼれた。


インフィの心のどこかに、確信のようなものが芽生えていた。

──もっと強くならなければ。

高みに登らなければ、本当の自分には、永遠に辿り着けない──そんな予感が、静かに胸に残っていた。


『インフィは、己と向き合い、歩むべき道を定めていた。その道は、遥かに遠く、険しいものかもしれない──』

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