4 雪虫との死闘 前編
夜の帳が明け、東の山岳峰から光があふれ出す。
後光のような神々しいオレンジ色の輝きが空を染め、朝焼けの色がゆっくりと大地を包み込んでいく。
少年のまわりでは凍えた空気が照らされ、ダイヤモンドダストとなって静かにきらめいていた。
悠久の時を超えて繰り返されてきた、雄大で力強い自然のドラマがそこにある。
少年は、昨日と同じ場所に横たわっていた。
その体は粉雪に覆われ、顔は青白く、まるで凍ったように固まって、昨日と同じ姿のまま眠っている。
すべての雑念やざわめきを忘れさせる清らかな雪が、あたり一面を包んでいた。
「うわっ……助けて!」
少年は飛び起きざまに叫んだ。
全身がびくりと震え、胸の奥が激しく波打つ。目を見開き、荒い息を繰り返し、冷たい空気を必死に吸い込む。心の奥で安堵と混乱が絡まりあう。
死んでいなかった。
雪虫に覆われ、瞬間冷凍される恐怖の中で、気絶していたのだと知る。
意識をはっきりさせるため、少年は自分の頭を軽く叩き、周囲を見回した。
あたりを確かめ、自分の体をゆっくりと確認していく――どこにも異常は感じられない。
「……夢だった? ひどい夢だったな。ありえない……」
服に目を落とすと、「ぬののふく」には昨夜の雪虫の痕跡がいくつも残り、布は痛んでいた。
「スライムと戦っても平気だったのに……岩で擦れても大丈夫だったのに」
そう、ただの「ぬののふく」なのに、不思議ととても丈夫な服だった。
「……夢じゃなかったんだ。体は何ともなさそうだけど……さぶ……冷たっ」
少年の体は、人とは違っていた。
五感は人間そのものだが、体温調整はまるで変温動物のようで、周囲の温度に適応し命をつないでいる。
また、皮膚や触れているもののまわりに、見えない防護膜のようなものを纏っているようだった。
見ることも、触れることもできないが。
謎に満ちた、不思議な少年である。
「まずい……どうしよう……あんなの倒せるわけない……くそ……でも、絶対にあきらめない!」
少年は、昨夜の激闘を思い返していた。
「殴っても駄目……石でも、歯でも駄目……鋭利な石か? 一撃で倒さないと硬化する……鋭利な刃物があれば……剣、落ちてないかな」
少年はあたりをきょろきょろと見回す。
――だが、鋭利な短剣など落ちてはいなかった。
「無理か……どう考えても無理……あんな凍える恐怖はもう嫌だ……見つからないように移動しよう。……ぼく、天才かも」
不安の中でも、小さく笑みを浮かべる。遥か彼方の峠らしき場所を目指して、また登り始める。
幼児の歩みで、ひたすらゆっくりと。
やがて、目前の山の険しさがはっきりと目に映る。
「あれは……登れそうにないな……あれ? 道のようなものがあるぞ」
崖を蛇行するように登っていく細い道が見えた。
「なんか……嫌な予感が……ところどころが……エメラルド色……あれ、もしかして」
周囲を警戒しながら、少年はゆっくりと足を運ぶ。そもそも速くは進めないのだが、その慎重な歩みがいっそう遅くなる。
「……何か音がしたような。何もない? 後ろ? 来てる!」
振り返ると、数百メートル彼方に、エメラルド色の集団が迫っていた。
咄嗟にあたりを見回し、逃げ道を探そうとする。しかし崖道までは渓谷のように切り立ち、登れそうな場所はどこにもなかった。
「くそっ、昨日と同じじゃないか……ぼく、バカかっ!」
少年は雪の中から、先の尖った石を拾い上げて、必死に逃げだした。
雪虫の動きは魔物としては遅いものの、それでも大人の歩く速さと同じ。幼児の歩みではすぐに追いつかれてしまう。
「くそっ、絶対にあきらめるか!」
深く濃いエメラルド色の瞳を輝かせながら、少年は叫んだ。
――そして、結果は、歴然としていた。
拾った石で叩いても、傷をつけることすらできない。
数多の雪虫に群がられ、何もできないまま倒されていく――
再び、少年の体は雪虫に覆われていく。
「冷たい……冷たい……凍える……凍え死ぬ!」
昨日と同じ状況。何もできないまま、意識がまた遠ざかりそうになる。
「大丈夫……死ぬより凍えてるけど……たぶん、死なない!」
咄嗟に、カチコチに固まった雪虫を握りしめた。
体に張り付いた雪虫は取れなかったが、二重、三重に重なった固体は驚くほど軽く、簡単に持ち上げることができた。その軽さに少年は、息をのむ。
「ガツン……パリン……ガツン……パリン!」
凍った雪虫を、同じく凍った雪虫に叩きつける。
砕ける音が雪原に響き、光の粒がふわりと舞い上がる。
雪虫が砕けた――それは、少年にとって奇跡のような出来事だった。
思わず目を見開き、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
手のひらには、砕けた雪虫の破片。その感触を確かめるように握りしめ、口元がゆっくりとほころぶ。
「倒した……倒せた……!」
歓喜が、心の奥底から沸き上がる。しかし、喜ぶ間もなく、次の雪虫たちがすぐに体を覆い尽くす。
少年は全身を雪虫に包まれ、手を上げることもできなくなった。
「冷たい……凍える……死ぬ……冷たい! 凍える! 死ぬ!!」
脳が生命の危機を叫び、警報のように意識の奥で鳴り響く。視界が暗くなり、感覚が遠のいていく。
しばらくして、雪虫たちは何事もなかったかのように谷間を蠢き、崖へと進んでいった。
雪虫の行列が消えたあと、谷間にはただ、風の音だけが残されていた。