29 対人訓練
真っ青な空。雲一つない澄んだ空。 日はまだ高くないが、冷たく凛とした空気に、柔らかく優しい日差しが静かに差し込んでいた。
その静けさを破るように、教官の怒号が響き渡った。
「今日からは、対人訓練だ。死ぬ気で掛かれ。最下位班は、晩めし抜きだ!!」
規律正しく整然と整列する奴隷兵たちの目が血走る。
「晩めし抜き」──娯楽ひとつない生活において、食事だけが唯一の楽しみだった。常に空腹と隣り合わせの奴隷兵たちにとって、それは命を削る宣告と同じだった。だが、ひとりだけ目を虚ろにさせたまま、何の反応も示さない少年がいた──インフィだ。対人訓練では経験値が得られないのだ。
乱闘事件からしばらくが経ち、魔物討伐を重ねた仲間たちは皆、レベル11に達していた。
「1班と96班。2班と95班。3班と94班……」
班の番号が読み上げられる。上位班と下位班が一対一で対戦する仕組みだ。各々が戦場に散り、複数の班が同時に戦闘に入る。戦っていない班は作戦立案や休憩、観戦に回る。
「くそっ、遅れた……! 間に合わねえ、やられる……!」
九十六班は、わずか数分で一班に撃退されてしまった。
インフィの目に光はなかった。いつものように無口で、動きも鈍い。
「班長殿、指示をお願いします。下を向かないで。こちらを見てください」
副長のゼルが、困った顔をしながらインフィに問いかける。インフィはぼんやりとした返事を返すだけだった。
「次、1班と62班。2班と63班……9班と96班」
上位班と下位班が対戦するこの形式は、全体の戦力バランスを測ると同時に、下位班の奮起を促し、上位班の実力に近づけるための施策だった。
だが、九十六班は連敗中だった。インフィが沈黙を貫いていたため、ゼルが代わって指示を出していたが、戦力差は歴然。四対五の不利に加え、相手は実力上位。結果は毎回、一方的な敗北だった。
「おいおい、ありゃ酷ぇ……あんな連中と一緒に出陣か? 冗談じゃねぇよ、肉壁にもなりゃしねぇ……」
周囲からは容赦ない罵声が飛ぶ。対人戦は結束向上や競争意識のために組まれているが、それは同時に奴隷兵たちの憂さ晴らしの場でもある。ヤジや嘲笑も、訓練の一環とされていた。
九十六班は、疲れ切った顔で円陣を組み、何とか状況を変えようと試みていた。
ゼルがふと顔を上げ、インフィに話しかける。
「隊長殿、教官から通達がありました。成績の悪い班は、当面ずっと対人訓練になるそうです。そうなれば、魔物討伐に行けなくなります。」
その言葉に、インフィの顔から血の気が引いた。口を開けたまま、言葉にならない音を漏らす。そして、深く濃いエメラルド色の瞳をぎらりと輝かせると、顔を上げた。
「ゼルとカイラが盾となって、自分を守れ。自分の左後ろ六十センチにダリル、右後ろ一メートルにサギ。ゼルとカイラが敵を止めた時、自分が隙を突く。ダリルは上から大きく剣を振り下ろせ。同時に、サギが下から踏み込んで突け。その後、敵がこう動いたら……カイラはこう抑え──」
「班長殿、長すぎて覚えきれません。細かすぎて理解できません、サー」
仲間たちの目が丸くなる──いや、もはや鳩の目ですらなく、薪をくべすぎた焚き火のように目を細めて苦笑していた。
「あ、わかった、やってみよう、続け!」
その時、次の対戦開始の合図が響いた。
「次、二十一班と九十六班、二十二班と九十五班……」
指示通りに陣形を組もうとするが、体がぶつかり、足が踏まれ、唾が飛ぶ。陣形も整わぬうちに敵に弾き飛ばされ、またもや敗北。さらなる罵声が浴びせられる。
「勝者、二十一班、二十二班……。次は……」
九十六班は、再びインフィを中心に円陣を組んでいた。
晩飯抜きという恐怖と、魔物を狩れない恐怖──その波長が、今や完全に重なっていた。
「今のは、カイラが前に出過ぎた。ゼルは完璧、でも、体がブレないように軸足に重心を……。サギは、いいタイミングだった。ダリルは……目を閉じちゃだめ。」
「え、瞑ってたの分かったの? 前見てたのに……」
インフィは、周囲の罵声など聞こえていないかのように、冷静に指示を出し、動きを修正していく。
その様子は、小さな少年が大の大人を率いているというより、熟練の指導者のようだった。
信頼は、そこにあった。
しかし、現実は非情だった。
多少の改善は見られたが、結局、十戦全敗。
「よし、終了。全勝は一班、三班、五班、七班……」
「全敗は、九十六班、九十五班、九十二班、八十七班……。貴様らに、貴重な食料は必要ない! 帰還!」
九十六班の全員が、直立不動のまま、静かに涙を流していた。
空腹の夜を想像して。
インフィも──魔物を狩れなくなる未来に、打ち震えていた。
寒さが増し、赤々と燃えていた山々は黒くすすけてゆく。晴れていた空には雲が垂れこめ、男たちの汗の匂いが染みついた兵舎に、腹をすかせた呻き声が響く。
「どうすれば……どうすれば……」
亡霊のようにさまよう声が、夜の底にいつまでも漂っていた。
【補足:対人訓練について】
訓練時の装備は、日頃の粗末な革鎧と革盾をそのまま使用。
ただし、剣は訓練用の特殊なものに限られる。
形も重さも実戦用と同じだが、刃は無く、一定以上の衝撃で電撃が発生し、当たった者は立てなくなる。
この仕組みにより、安全に、そして実戦に近い感覚で戦える。
防御すれば感電しないが、当たれば激しい電撃が走り、痛みも強烈。
だが、身体に異常は残らない。
訓練用剣は、実戦用と同様の重量と大きさ。
レベル11の成人には扱えるが、レベル7の十歳の少年──インフィにはあまりに重く、大きすぎた。
よろめき、振り切ることすらできない。
インフィには、この訓練において戦力としての要素が、最初から存在しなかったのだった。