戦闘人形
薄暗く光のない部屋。糞尿と血の匂いが入り混じり、腐敗臭が漂っている。悲しく、冷たく、思いやりとは無縁の場所──そこに、インフィは鎖に繋がれ……
……そんな劣悪な環境ではなかった。
インフィは一人だけ、鉄格子で施錠された、ごく普通の部屋にいた。
奴隷一人を正規に購入するには、現代でいうところの百万円ほどが最低価格とされている。貴重な商品を粗末に扱う商人はいない。もっとも、貧富の差が激しいこの世界では、その百万円すら、一部の富裕層にとっては一万円程度の感覚にすぎない。
「おい、どういうことだ。なんでチビが一人だけなんだ?」
盗賊の親玉は、必死に言い訳していた。今回の計画が成功すると見込んで、手持ちの奴隷を売り払い、この商人に多数の奴隷を渡す約束をしていたのだ。
「まったく……。お前がそんなヘマをするとは。こちらにも都合がある。こいつだけは引き取っていくぞ」
王国は現在、戦闘奴隷を集めている。男の奴隷は、軍関係の奴隷商人に優先して見せなければならない決まりだ。軍に引き取られれば、利益にならない価格で買い取られるが、逆らえば王国に睨まれる。
親玉は、苦々しい顔を浮かべながらも、承諾するしかなかった。最高級の回復薬まで使っておきながら、大損を被っている。だが、その姿に同情の余地など、微塵もなかった。
*
インフィは手枷と足枷をされ、何日も馬車に揺られていた。気づけば、ウルラン高原から遠く離れた南の地──ロリア領の新兵訓練所に到着していた。
「着いたぞ。さっさと降りろ」
数百名の奴隷とともに、連れて来られた。
奴隷契約書には、インフィの年齢は十六歳と記されていた。戸籍制度が存在しないこの世界では、年齢不詳の者は多い。ただ、成人か否かだけは判別できる。魔物を討伐し、魔元素──あの光の粒を吸収すれば、それは成人の証だった。
この施設は、戦闘経験のない奴隷たちを兵士に仕立て上げる訓練所。通称『地獄のロリア訓練所』。
「くそ、ロリアか……。最悪だ……。嘘だろ……。嫌だ……。おかあちゃん……」
馬車から降ろされた奴隷の一人が、絶望に満ちた声を漏らす。
「黙れ。誰が喋っていいと言った? お前たちは人ではない。命令にだけ従う人形だ。わかったか!」
二メートル超の筋骨隆々とした司令官が、怒声を上げる。教官たちは、口を開いた者、不満そうな顔をした者、立ち姿の悪い者、何もしていない者──全員を殴り飛ばしていた。
奴隷たちは、この場所の恐ろしさを嫌でも理解させられた。
だが、インフィだけは別だった。絶望の渦中にありながら、どこかうきうきとした様子さえ見せていた。悲壮感など微塵もない。むしろ、彼の心を満たしていたのは──《ここならレベル上げができそうだ》という期待だった。
「いいか、人形ども。お前らに意志など必要ない。命令だけを聞いていろ!」
数刻後、奴隷たちはまるで軍人のように整列し、不動で並んでいた。そして、また殴られる。
誰一人倒れることなく、前を見据えていた。……インフィを除いて。
地面に転がるほど吹き飛ばされたのは、インフィただ一人だった。
殴った教官は思わず目を見開く。
他の奴隷たちは皆レベル10である。インフィだけはまだレベル5のままだった。
「よし、訓練場を百周だ。走れ。走れなかった者は夕飯抜き!」
集められた奴隷たちは、十六歳から三十歳までの男ばかり。全員レベル十。この世界では、十六歳になると自然にレベル十になるが、魔物を倒さなければそれ以上にはならない。
その晩、誰も夕食にはありつけなかった。レベル十でも、百周は無理だった。
思考を停止させ、逆らう意志を奪い、命令に絶対服従させる。人を洗脳するには、考える暇を与えず、極限状態へ追い込むのが最も効果的なのだ。
こうして『地獄のロリア訓練所』では、人形のような奴隷兵が短期間で育成される。
それから一月が経った。
皆、骨と皮ばかりに痩せこけ、目の輝きは消え、虚ろな視線で整列している。だが、その動きは機敏。一糸乱れぬ動作を見せていた。
その中で、ただ一人。
インフィだけは、目の奥に強い光を宿していた。
「よし、人形ども。今日から班を組んでレベル上げ訓練に入る。わかったか!」
「サーッ!」
一斉に叫ぶ中、一人だけ「うおぉ!!!」と叫び、殴り飛ばされていた。
インフィにとって、この一ヶ月はまさに地獄だった。この世界の男は、十六歳──すなわち成人になる頃には、体つきががっしりとし、力も格段に強くなる。だがインフィの体は十歳のそれであり、レベルもまだ5。走るにも、跳ぶにも、持ち上げるにも、何もかもが周囲に劣っていた。教官も最初は何かの間違いだと疑い、魔物を使って検証を試みたが、魔元素はしっかりと吸収されていたため、成人であることに納得するしかなかった。
軍隊の本格的な訓練に、十歳の子供がひとり混ざり、他の大人たちと同じ内容を課される──そんな状況を想像できるだろうか。だが、ここはそれ以上に過酷で、容赦もなかった。
それでも、インフィは歯を食いしばり、泣きたい気持ちを必死に堪えていた。
ただ──本当に堪えていたのは、そうした厳しさではなかった。
インフィには、無尽の持久力と不可思議な防御膜、そして達人のような体幹が備わっていた。見た目こそボロボロだが、本人はそれを辛いとすら感じていない。
確かに殴られれば痛い。だが、スライムや雪虫との死闘を生き抜いてきた彼にとって、この程度の精神的な抑圧など、苦痛とも思えなかった。
彼が本当に耐えていたのは──溢れ出そうな感情だった。
『レベルを上げたい』
『レベルを上げるんだ……』
その欲求を必死に押さえ込みながら、日々を耐え抜いていたのだ。
司令官の「レベル上げ訓練」の言葉で、ついにその堤が決壊した。
「ゼル、カイラ、ダリル、サギ、インフィ。お前たちは九十六班だ。ゼルが班長、カイラが副長」
ゼル:三十歳。レベル十。商売に失敗し、借金で奴隷に。
カイラ:二十二歳。レベル十。農家の三男。年貢が払えず奴隷に。
ダリル:十六歳。レベル十。奴隷の子。性自認が曖昧で忌避され奴隷に。
サギ:十六歳。レベル十。素行不良で親に捨てられ奴隷に。
インフィ:十歳? レベル五。不思議少年。
心を持たぬはずの人形たちが、インフィの方をじっと見つめていた。
教官でさえ、どこか憐れむような目を向けている。
この班は、最終番号。もっとも落ちこぼれが集められた班だった。
そして軍には、規律を徹底させるための《連帯責任》という決まりがある。
誰かひとりが失敗すれば、全員が罰を受ける。
──この班に、未来はない。
*
少し前、巨漢の司令官と部下の会話──
「今回の奴隷たちの教練はどうだ」
「順調です。反抗的な者も減り、死亡者も出ておりません」
「ふむ。だが何かあるな?」
「はい。一人だけ……目の光が消えません。落ちこぼれで教練は厳しいのに、むしろ輝きが増しています」
「インフィ、か……。あれはわしにもわからん。だが、注意だけは怠るな」
「了解しました」
部下が去った後、司令官ガゼルは、ふと笑みを浮かべた。
『奴隷として売られた少年──』
『軍へと送り込まれた、ひとりの少年──』
『この過酷な試練を、生き抜くことができるのか──』
整然と並ぶ戦闘人形たちのあいだを、秋風が静かにすり抜けていく。心の灯を失った者たちを、どこか憐れむように──そっと吹き抜けていった。
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