17 タム兄の初めての冒険
ウルラン高原に遅い春が訪れる。花が咲き、ミツバチが飛び、虫たちが蠢き、鳥が春の訪れを告げる。草原は命に満ちた新緑で染まり、小花の群れが浮島のように広がっていた。
「それでは、皆、行くぞ。アント塚だけは見逃すなよ! 各自の持ち場は分かってるな。迷子になるなよ、末代まで笑われるぞ。ハハハ」
ダルドの掛け声と共に男たちが馬へまたがる。一班五名、四班に分かれ、新たなゲルの設置場所と放牧地の安全を確認するため草原を駆ける。
「インフィ、俺たちも行くぞ。お前なら大丈夫そうだから連れてってやる。俺の言うことは守れよ」
タムがインフィを肘で小突きながら言う。
タムは、大人には負けていないという自負があった。実はタム自身も気づいていないが、インフィに負けたくない、強さを見せて自分が上だと証明したいという幼い感情があった。
インフィも、これまでの魔物退治で気が緩み、見回り程度ならタムと一緒でも問題ないと判断して頷いた。
おごり、慢心、虚栄、背伸び。成長の過程で芽生える感情だった。
遊牧民にとって馬は欠かせない。十歳頃から乗馬を始め、大人に認められれば若馬を与えられる。それが生涯の相棒となるのだ。
タムとインフィも自分の若馬に乗り、草原を駆けていた。
「タム兄、急ぎすぎだよ。もっとゆっくり行こうよ」
「お前は、馬の扱いもまだまだだな。そんなにのんびりしてたら日が暮れるぞ。塚を見つけてやる」
初めての冒険に浮かれているタム。インフィに強さを見せたい気持ちが勝り、インフィの言葉は耳に入っていなかった。
アント塚。それは遊牧民にとって最大の脅威。アントルンという魔物の巣である。体長5cmほどのレベル2の魔物で、子供でも踏み潰せるが、集団で家畜を襲い、骨も残さず喰らい尽くす。
「おい、インフィ。あれはアント塚じゃないか。よし、見つけたぞ!」
前方に、高さ数メートルの巨大な塚が見えた。
ヒヒーン、ヒヒーンと馬がいななく。
「おい、暴れるな。どうしたんだ、こら。うわっ!」
タムの馬が暴れ出し、タムは振り落とされてしまう。馬はそのまま逃げ去った。そこは既にアントの縄張りの中だった。
「痛い、痛い! 嫌だ、死にたくない!」
アントがタムに群がる。タムは落馬と痛みにより冷静さを失い、パニックに陥る。
インフィも馬から降りて駆け寄り、タムの首筋を噛もうとしていたアントを払いのける。抱きかかえ起こすと、タムから魔物が離れていった。
「なんだ、アントじゃないか。こんな雑魚、踏み潰してやる!」
インフィに助けられたタムは、我に返り、蟻を踏み潰しながら強がって見せた。
「いつまで抱きついてるんだ。お前は臆病だな。離せよ」
そう言ってインフィから離れると、再びアントが蠢き始める。
「痛い、痛い! 逃げるぞ!」
タムはアントに再び噛まれ、全力で逃げ出す。インフィも必死に追いかける。
「もう大丈夫だな。インフィ、お前、本当に足が遅いな。そんなじゃ生きていけないぞ」
満足げなタム。しかし――
「あ、馬がいない。ああ、どうしよう……怒られる……」
現実に戻り、泣きそうな顔で落ち込む。
「アント塚は見つけられた。馬もたぶん帰ってる。怒られない。帰るぞ」
そう言いながらも、無言で歩き出す。
インフィの若馬もアントに驚いて逃げたようだった。インフィが触れていた物にはアントが襲いかからないように見えた。
二人は、春の草原を背を丸めて歩いていた。
しばらくすると、インフィは鳥肌が立つような感覚に襲われた。
「タム兄、急ごう。なんかまずい」
「え、なんだよ……お前、本当に臆病だな。俺がいるんだ、心配するな。でも、急ごう」
タムは強がりつつ、速足で進み出す。インフィも必死に走ってついていく。
インフィの違和感は増していく。次第に、その原因が見えた。
「ウルラーだ……あそこにいる……まずい!」
タムにもそれが見えた。ウルラー。レベル15。森林に住む狼型の魔物。平原に現れることは稀。
タム(LV8:13歳)とインフィ(LV4:8歳)では到底敵わない。
「ウルラーが、なんでこんな所に……勝てるわけない、逃げるぞ!」
タムは叫び、逃げようとするが立ち止まる。インフィの足では逃げ切れないと判断したのだ。
「俺がやる。お前は逃げろ。助けを呼んでこい。何してる、早く行け!」
足を震わせながら、声を振り絞って叫ぶ。
タムは、自分が兄として守るべきだと本能的に感じていた。
インフィは動かない。瞳が輝いていた。
ウルラーは距離を取りつつ、じりじりと近づいてくる。獲物の強さを見極めているようだった。
やがて――
「グゥオォォオオオオオオォッ!!」
インフィが雄叫びを上げて前に出た。その声は、まるで魔物のような咆哮だった。
ウルラーは一瞬怯み、後退する。
「タム兄、僕がやる。戦える。助けを呼んできて!」
「そんなことできるか! 俺が戦う!」
「僕には防具がある。タム兄じゃ防げない。大丈夫だよ」
タムの装備は簡素な皮防具。インフィも青兎のレベル5でランク2の防具しかないが、インフィはタムを守りたかった。
ウルラーが再び近づくと、インフィが短剣を構え、再度雄叫びを上げる。魔物はまたも尻込みした。
このにらみ合いが、小一時間も続いた。
ついにウルラーが耐えきれず、インフィめがけて飛びかかってきた。
インフィは全神経を集中させ、迫りくるその巨体の喉元へ向けて、渾身の力で短剣を突き出した。
しかしウルラーは、わずかに顔を逸らし、刃はかすめて外れた。インフィはそのまま吹き飛ばされ、血に染まり地面に倒れ込む。
すべてが終わったかに思えた、その刹那。
すぐ背後にいたタムが、迷いなく渾身の力で剣をウルラーの口内へ突き刺した。そう、インフィを食らおうと大きく開かれた口へ、鋼の剣が牙の隙間を貫き、鈍い音を立てた。
インフィは意識を失っていただけだった。あたりに飛び散っていた血は、魔物のものだった。
「インフィ! 大丈夫か、やったぞ! 俺がやったぞ!」
魔物は唸り声を上げながら、まだ動いていた。
タムとインフィは力を振り絞り、攻撃と防御を繰り返す。
ついに、ウルラーは動かなくなり、地面に崩れ落ちた。
「ハアハア、ゼエゼエ……やった……倒したのか……」
二人は傷だらけだったが、笑顔を浮かべていた。
そして、救援の馬の音が聞こえた。
……
「このバカヤロウが! どれだけ母さんが心配したか、バカ息子!」
ダルドの怒声が響き渡る。
二人の馬だけが戻り、騒ぎを察した守り手が捜索してくれたのだ。
インフィとタムは二日間寝込んだが、順調に回復していた。
三日目の朝、ダルドの雷のような説教を浴びている。
インフィは叱られながらも、心の中が温かくなっていた。
その後、雄叫びの再現を求められたが、インフィはうまく叫べず、皆に笑われて終わった。
あの雄叫びは、もう出ることはなかった。
ウルラーからは2本の牙がドロップしていた。二人の勇気と絆の証として、首から吊るされることになる。
そして、タムはインフィを、ただの子分ではなく、対等な仲間として認めていた。
『少年は、なぜあの雄叫びを上げられたのか』
『なぜ強大な魔物が、子供の叫びに怯えたのか』
春の香り、蜜蜂の羽音。小さなゲルから、遠くで雷鳴がこだまし、それはやがて、あたたかな笑い声へと変わっていった。
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