穏やかな日々
集落の中心近くに広がる小さな広場。草が丁寧に刈り取られ、乾いた土が地面を覗かせている。
屋根も柱もない、ただ空の下に広がるその場所に、子供たちが年齢ごとの輪になって座っていた。
「あ、い、う、え、お。か、き、く、け、こ……」
フランの落ち着いた声が響く。ダルドの妻である彼女が、子どもたちの前に立ち、丁寧に発音を導く。子供たちはそれに続き、声を合わせると、手にした木の枝で乾いた土の上に文字を書いた。
そこは、青空の下の寺子屋。十五歳までの子供たちに読み書きを教える場所だった。
週に二度、午後の数時間だけ。だが、遊牧民の集落では珍しい事である。
インフィもそこにいた。
初めは何もわからなかったはずの彼が、なぜかフランの書く文字を理解できた。読み方も意味も、まるで深い霧の向こうから、言葉がひとりでに戻ってくるようだった。
――なぜ、読めるのか? なぜ、知っているのか?
それは、彼自身にもわからなかった。
***
少し、首長ダルドについて語っておこう。
かつてダルドは王都に仕える騎士だった。若くして将来を嘱望され、栄光への階段を駆け上がる途中にあった男。
その彼が王命を受け、ドラゴン討伐の部隊長に任命されたのは二十二のときだった。
栄誉の任務だった。自信もあった。しかし――若すぎた。
恐怖に足をすくませる部下たち。動かぬ陣形。そして、空からの咆哮とともに、灼熱のブレスが部下たちを焼き払おうとしていた。
その瞬間、ダルドは咄嗟に飛び込む。ドラゴンの片目を貫き、ブレスの軌道を逸らした。
だがその代償に、彼の半身は灼かれた。
その勇姿を目の当たりにした部下たちは、我に返り、連携を取り戻す。こうして、ドラゴンは何とか退けられたのだった。
治療によって命こそ救われたものの、損なわれた体の機能が戻ることはなかった。
深い失意に沈んだ彼は、ただ静かに死に場所を求めて――“忘れられた地”へと彷徨っていた。
その旅の途中、魔物に襲われるフランを救ったことがきっかけで、この遊牧の集落に迎え入れられる。
貧しくも明るい民の暮らし。笑い合い、助け合い、前を向く彼らに、彼の心は少しずつ溶けていった。
――この人たちを守りたい。フランを幸せにしたい。
それが、かつて王都にいた若者の、新たな生きる理由となった。
周囲の遊牧民を取りまとめ、集落を拡げた。魔物や外敵を退ける力を得た。王都の知識を活かし、商人たちと渡り合って交易を有利に運び、集落は次第に豊かになっていった。
二十三で流れ着き、二十四でフランと結婚、三十で首長となり、今では一男一女を持つ、三十八歳の無精髭のおやじである。
学問にも力を注いだのは、そんな背景があってこそだった。
***
寺子屋に戻ろう。
「インフィ、魔法について知ってますか?」
授業の終わり際、フランが問うた。インフィは首を横に振る。
「では、少しだけ魔法の基礎を教えますね」
――その瞬間だった。
インフィの胸にざわつきが走る。鼓動が高鳴る。
魔法……
なぜか忘れていた。
この世界には魔法があることを。
周囲の子供たちは、どこか嫌そうな表情を浮かべていた。
だが、インフィだけは違う。瞳を見開き、話に食い入っていた。
「魔法は、人族であれば誰でも使えます」
その言葉とともに、体の奥が反応した。
目には見えぬ“何か”が、ゆっくりと目を覚ますように、身体の中を流れ始める。
「レベルと同じで、魔力量も生まれつきの才能が大きく影響します。努力で増やすのは難しいとも言われています」
たしかに今、何かを感じている。
魔力。
「でも、魔法が使えるのはレベル十からです」
その言葉に、胸の中でふくらんでいた希望が静かにしぼんでいく。
「レベル十になれば、自分にどんな魔法が使えるのか、自然と分かるようになります」
インフィも静かに問いかけてみた。
“僕は、どんな魔法を使えるの?”
……だが、返ってくるものはなかった。
魔力は、確かに感じるのに。
「魔法で戦えるのは百人に一人。回復魔法は、さらに希少です。ちなみに、男の子の一番人気は魔法戦士、女の子は回復士だそうですよ」
「ちなみに私は、水と火の魔法が使えます。でも、手を洗ったり、薪に火をつけたり、その程度です」
「強力な魔法は、魔法学校で学ばなければ使えません。独学は危険ですから、絶対にやってはいけませんよ」
「この集落で魔法を戦いに使えるのは――そう、首長のダルドさんだけですね」
ここからが問題だった。
「私が魔物に襲われた時のこと……電撃が閃いて、颯爽と現れたダルド。それはもう、あまりにも素敵でカッコよくて、私の心にも電撃が走って――」
「またか……」
子どもたちが一斉にため息をついた。
「お母さん、それ、何回目?」
「惚気禁止って言ったのに……」
こうなると、もはや授業は終了である。
子供たちは次々に立ち上がり、教場を離れていった。
だが――
インフィだけが、最後まで座ったままだった。
まっすぐに、フランの話を聞いていた。
***
――なぜ、インフィは文字を理解できたのか。
――なぜ、レベル十に満たないのに、魔力を感じられたのか。
誰にもわからない。インフィ自身でさえ、その答えをまだ知らない。
けれど、風は確かに春の匂いを運んできていた。草木が芽吹きの準備を始めるように。
柔らかな陽だまりの中。
インフィは、静かに座っていた。
抗いがたい、あの衝動とともに。