1 最果ての地の目覚め
一粒の光も見えない。一つの息も聞こえない。絶望しか感じられない、閉ざされた闇。
重い瞼を開ける。
夢が続いているかのような漆黒の闇が、視界に広がっていた。
「ここは、どこ?」
長く、深い眠りから目覚めたような気だるさとまどろみの中、視界が次第に明瞭になる。
「きれい」
無数の光が、漆黒の空間に浮かんでいた。恐怖に囚われる寸前、光の粒たちが静かに降る光景に、心を引き戻された。
そこには、長く続いた闇とは異なる、まばゆく輝く星々が広がっていた。
背中には冷たく湿った感触。柔らかく包み込まれるような感覚と、青く清々しい香り。新芽の草の上に、少年は大の字で倒れていた。
「どうしたんだ、わからない」
まるで夢の中にいるような、幻想的で神秘的な景色だった。
「生きてるのか、それとも……死んでるのか」
何かを思い出そうとする。しかし、何も浮かばない。
この景色が現実なのか、それとも死後の世界なのかさえ、区別がつかない。
ふいに、胸の奥が疼く。切なく、悲しく、それでいて、不思議と力強い感情だった。
手足を動かそうとするが、体は鉛のように重い。必死に力を込めるが、まるで力が抜けていくようだった。
「……動かない」
遠くで、何かが蠢く音が聞こえる。危機が近づいているのを感じる。だが、倦怠感に勝てず、意識が遠のいていく。
***
「うわっ……!」
叫ぼうとしたが、声にならなかった。微かに息が漏れるだけだった。
頬を撫でたのは、朝露で濡れた草の感触だった。強い光がまぶたの奥に差し込み、意識が一気に覚醒する。
雲一つない青空。広大な大地が光に照らされ、目の前に広がっていた。
「……立たないと」
前かがみになり、手をついて体を起こす。足に力を込めて立ち上がろうとするが、うまくいかない。座り込んだまま周囲を見渡す。草は低く、遠くまで見渡せた。
遥か彼方には、白銀の雪に覆われた険しい山々。新緑の草原は太陽の光を浴びて、宝石のようにきらめいていた。
「立たないと。レベルを上げないと……」
言葉が漏れる。心の底から湧き上がる衝動。命よりも重いと感じる感覚。
それは──『少年』。
年齢は十歳ほど。身長一三六センチ、体重三十キロ、細身だが平均的な体格。
淡い青銀色の短髪、深いエメラルドの瞳。それはどこまでも吸い込まれそうな神秘を湛えていた。
顔立ちは子どもらしく素朴で、飾り気はないが、不思議と印象に残る。
「立てない……」
「歩けない。手と足を交互に動かして進むしか……」
独り言を呟く癖もあるようだ。長く話すのは苦手なのかもしれない。
少年は、地を這うように前進していた。朝露に濡れた草が体にまとわりつき、進むのを妨げる。
しばらくして、遠くで何かが動くのが見えた。
少年は、何の迷いもなく、そこへ向かって進んでいく。
時間が経ち、太陽が真上に昇る頃、ようやくその奇妙な生き物に近づいた。
距離はたったの一キロほど。しかし、少年の這い進む速度では、それだけの距離に半日を要した。
「何か……奇妙な……生き物。これなら、勝てる」
自分の姿を改めて確認する。手には何も持っていない。服は粗末な布切れ──いわゆる『ぬののふく』だった。腰にも何もない。
「武器、ない。道具も……ない。くそっ」
少年は、そのまま身を這わせて、奇妙な生き物に向かって進む。
──それは、ミニスライムだった。
直径三十センチほどの、初心者御用達の魔物。ぬるぬると揺れながら、少年に向かって迫ってくる。
「ポコン、ポコン、ポコン」
少年は、地面に伏した姿勢から拳を振るう。だが、力が入らず、攻撃はミニスライムの弾力に吸収されてしまう。
ミニスライムは怯まず、少年に体当たりしてくる。
一見すれば、まるで小さな子どもがペットとじゃれ合っているようにも見える。だが、これは命をかけた戦いだった。
少年はじりじりと押されていく。
「あっ……」
倒れ、ミニスライムが腹の上に乗ってくる。
「食われる……!」
ミニスライムを持ち上げようとするが、力が入らない。転がって逃げようとしても、動けない。
「くそっ。レベルを……上げるんだ。あきらめるか……!」
恐怖と悔しさの中で、少年は叫ぶ。
その時だった。
少年は、腹の上のミニスライムに頭を向け、噛みついた。
「ガブッ!」
それは、必死の抵抗。本能が導いた、唯一の反撃手段だった。
「ガブッ、ガブッ……」
何度も何度も噛み続ける。ミニスライムの皮はざらざらで、苦くて渋い。吐きそうになりながらも、彼は噛み続けた。
そして、ついに──
「やった。やった! 倒した!」
ミニスライムの体が崩れ、体液が流れ出し、やがて表皮だけを残して崩壊した。
「なんか……ゼリーみたいで……少し甘い。お腹……ふくれるかな」
淡い光の粒がミニスライムの残骸から浮かび、少年の胸に吸い込まれていく。
夜が訪れ、気温は下がり始めていた。
「スヤスヤ……ムニャムニャ……」
少年はその場に倒れ、そのまま眠りに落ちた。安堵に満ちた、幼い顔をして。
気温は氷点下に近づいていく。
丸一日の死闘。その成果は、最弱ミニスライム一体のみ。
この少年は、何処から来たのだろうか。
『どうしてこの少年は、十歳ほどの姿でありながら、レベルがゼロなのか』
『彼の正体は、未だ知れない』
夜の帳の中、聞こえるのは、風の音と、少年の寝息だけだった。