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1 最果ての地の目覚め

一粒の光さえ届かない。息づかいすら消え失せた、絶望だけが静かに沈殿する闇の底――。


少年は重い瞼をゆっくりと持ち上げた。


まだ夢の続きのような、深い黒に包まれた視界。その暗がりの奥で、ぼんやりと自分の存在を確かめる。


「ここは……どこだろう」


長く、深い眠りからようやく浮かび上がったような、ぼうっとした気だるさと、夢と現のあわいに揺れるまどろみ。


次第に、その暗闇に無数の光の粒が浮かび上がる。


「……きれいだ」


恐怖に飲み込まれそうになった刹那、降り注ぐ光の粒が、冷たい胸の奥に静かに灯りを戻していく。


そこには、終わりなき闇とはまるで異なる、きらめく星々が一面に広がっていた。


背中に感じるのは、冷たく湿ったやわらかな感触。


包み込むような土と草の匂いが、ほのかに青く澄んで漂う。新芽の草の上に、少年は大の字になっていた。


「……どうしたんだろう。わからない」


夢とも現実ともつかない、幻想的で神秘に満ちた光景。


「生きているのか、それとも……もう、死んでしまったのか」


何かを思い出そうとしても、心に浮かぶものは何もなかった。


いま見ているこの景色が現実なのか、それとも死者の見る世界なのか、まるで判別できない。


不意に、胸の奥が痛む。切なく、悲しく、それでいてどこか力強さをはらんだ感情が、じんわりと広がっていく。


手足を動かそうとしても、体は鉛のように重い。


必死に力を込めても、何かに吸い取られていくように、重さだけが残った。


「……動かない」


遠くで、かすかに何かが蠢く気配がする。


危機が近づいている、と本能が告げる。だが倦怠感に抗えず、意識はふっと遠ざかっていった。


胸の奥に鈍い痛みを残したまま、意識は闇に溶けていく。遠ざかる世界の輪郭。その中で、微かな音が鼓膜を震わせる。


「うわっ……!」


叫ぼうとしたが、声にならない。かすかな吐息だけが冷たい空気に溶けていく。頬に触れるのは、朝露に濡れた草の感触だった。


光が瞼の奥に差し込む。世界は一気に、鮮烈な色彩を取り戻した。雲ひとつない蒼穹、広がる大地。光が大気に満ち、目の前の風景が一瞬で広がっていく。


「……立たないと」


前かがみになり、手をついて体を起こす。


足に力を込めて立ち上がろうとするが、うまくいかない。


座り込んだまま、低い草の間から遠くを見渡す。


新緑が陽にきらめき、宝石のように輝いている。


遥か彼方には、白銀の雪をいただいた山々。そのすべてが、まだ夢の続きのように美しかった。


「立たないと。レベルを上げないと……」


胸の奥底から湧き上がる衝動が、淡く震えながら少年を突き動かす。


命よりも切実な焦りが、ほとんど本能のように湧き上がっていた。


それは、まだ名を持たぬ『少年』だった。


年の頃は十歳ほど。身長は一三六センチ、体重は三十キロ。華奢だが、どこか凛とした雰囲気を纏っている。


淡い青銀の短い髪、深く澄んだエメラルドの瞳――その奥には、静かな決意と神秘が宿る。


素朴な顔立ち。無垢さを残しながらも、なぜか記憶に残る印象。


「立てない……」


「歩けない。手と足を交互に動かして進むしか……」


思わずこぼれる独り言。長く話すことは苦手なのかもしれない。


少年は、地面を這うように、朝露に濡れた草の中をゆっくりと進んでいく。


草の冷たさが体に絡みつき、前進をささやかに拒む。


やがて、遠くで何かが動く気配があった。


迷うことなく、少年はそちらへ向かって進んでいく。


太陽が高く昇り、光が草原の上を滑っていく。


少年は時間の感覚さえ失いながら、遠い目標へと身体を這わせていく。


やがて、その奇妙な生き物に辿り着いたのは、昼を遥かに過ぎた頃だった。


たった一キロ――だが、幼い体を這わせて進むには、半日という永遠に近い時間が必要だった。


「何か……奇妙な……生き物。これなら、勝てる」


自分の姿を改めて見下ろす。手には何もなく、粗末な布切れのような服が身を包む。


「武器、ない。道具も……ない。くそっ」


少年は覚悟を決め、奇妙な生き物に体ごとぶつかっていく。


――それはミニスライム。


直径三十センチほどの、冒険者なら誰もが最初に出会う、初心者用の魔物だった。


ミニスライムはぬるりと揺れながら、少年に迫ってくる。


「ポコン、ポコン、ポコン」


地面に伏したまま、拳を振り上げる。けれど、その力は幼い腕に頼りなく、衝撃はミニスライムの弾力に吸い込まれてしまう。


ミニスライムは、少年の攻撃を受けても怯むことなく、体当たりで応えてくる。


その様子は、小さな子どもがペットとじゃれ合っているように、どこか滑稽で、それでいて命の綱渡りのような緊張が漂っていた。


じりじりと押され、体が倒れる。ミニスライムが腹の上に乗り、重さとぬるりとした感触が全身にまとわりつく。


「食われる……!」


必死にミニスライムを持ち上げようとするが、力は入らない。逃げようとしても、体は動かない。


「くそっ。レベルを……上げるんだ。あきらめるか……!」


恐怖と悔しさに満ちた心の叫びが、冷えきった空に消えていく。その時だった――


少年は、腹の上のミニスライムに、思わず頭から噛みついた。


「ガブッ!」


それは、無我夢中の反撃。本能が導いた、唯一の術だった。


「ガブッ、ガブッ……」


苦くて渋い皮膚を、吐き気に耐えながら、何度も何度も噛み続ける。


ついに――


「やった。やった! 倒した!」


ミニスライムの体は崩れ、淡い体液が流れ出す。やがて、透明な殻だけを残して、ゆっくりと消えていった。


「なんか……ゼリーみたいで……少し甘い。お腹……ふくれるかな」


残骸から、ほのかに光る粒が立ちのぼり、少年の胸へと静かに吸い込まれていく。夜が訪れ、気温は急激に下がり始める。


「スヤスヤ……ムニャムニャ……」


少年は、その場に崩れるように倒れ、安堵に満ちた幼い寝顔のまま、深い眠りへと落ちていく。


気温は氷点下に近づいていく。


丸一日の死闘の果てに、得られたものは最弱のミニスライム一体だけだった。


この少年は、いったいどこから来たのだろうか。


『なぜ、この少年は十歳ほどの姿でありながら、レベルがゼロなのか』


『彼の正体は、未だ知れない』


夜の帳の中、風の音と、少年の寝息だけが静かに漂っていた。

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