4 神のみぞ知る自由
「では殺しましょうか、あの男」
紫上藤花の言った言葉は、あまりにも荒唐無稽に思えた。小学生らしく実に短絡的な発言だ。
俺はこんな奴に、得体の知れなさを感じていたのか。
「あーくだらねー。じゃあ殺してみてくれ。思いきり痛そうなやつで頼むわ」
「ふふ、分かりました。燈さん信じていないようですけど、楽しみにしていてくださいね」
俺は返事する気力もなくし、素っ気なく手を振ると小学生を追い出した。
殺すだとか、殺さないだとか。そもそも気に食わないやつを殺したところで何が変わるのか。
慰めにもならない妄言も大概にしてくれ。
……この時俺は安易にも、そんなことを考えていた。
*
「いらっしゃいませー。何名様でしょうか?」
「ソロです」
「はい、おひとり様ご案内いたします」
いつも通りの日常、変わり映えしない世界。
灰色に澱む檻のような俺の人生。
バイト中、俺はずっとどこか上の空で、先輩や店長からの指示もボーッと聞き流していた。
きっとそれが良くなかったのだと思う。
土曜日は夕方のピークが終わったかと思いきや夜の時間帯に、再度混み始める。
ちょうどそのピークの境目の時だった。
カランコロン、と来客を知らせる呼び鈴が鳴る。
「いらっしゃいませー」
「……あれ、東堂くんじゃん」
俺は思わず目を見張った。
……馬場だ。佐藤茜の『元カレ』。
隣には先日見かけた見知らぬ女を連れていた。
やはり新しい彼女なのだろう。俺は内心でため息をついた。なんだ、元気そうじゃないか。
当然だが、紫上藤花は嘘つきの小学生でしかなかった。いや、俺は揶揄われただけかもしれない。
「何名様ですか?」
「あー2人。なあ東堂くんだろ?懐かしいなー高校の時」
「えー、ゆうくんと一緒の高校だったのこの人?」
懐かしいって、卒業してからまだ1年も経っていないだろう。そう毒づきながらも席に案内する。
「ごゆっくりどうぞ」
「なー東堂くん、知り合い価格でサービスとか頼むわ!」
「あ、確かに!」
そう言って期待に満ちた顔でこちらを見る2人に、吐き気がした。そうしてまた俺は無力感に苛まれる。
「すみません、サービスとかは無理なんで」
「は?いや……使えねー」
「ちょっ、ゆうくん正直に言い過ぎ!」
「いやでもさー、ま、いいやじゃあ。とりあえずこのタコサラダとポテトね。すぐ頼むわ」
「……かしこまりました」
ハンディを打ちながら厨房に戻る。
入った途端、空気がなんとなく悪いことに気がついた。
見ると、店長室の扉越しに怒号が聞こえてくる。どうやら新人の女の子が店長に叱られているらしい。
大塚先輩が俺に近づいてきて耳打ちした。
「なんか一昨日のレジが一万円合わないらしいんだよね」
「ああ、マジすか……」
そこでふと違和感を覚える。一昨日のレジの締め作業をしていたのは、この大塚先輩ではなかったか?
毎日合わなかったら、店長に相談するはずなのに、発覚したのが今日?
俺が黙っていると、大塚先輩はスーッと離れてすぐにキッチンとの境目のカウンターに行って伝票を確認した。
「あ、注文入ったんだ。池田くーん、ポテトお願いね」
「了解っす」
池田はカウンター越しに俺をチラリと見て、すぐに視線を外した。
俺だって、好きでお前と働いているわけじゃない。そう思いながらも俺は冷蔵庫からサラダの皿を取り出して盛り付けを始めた。
「東堂、ちょっと」
……と、すぐに店長から呼び出される。
「失礼します」
店長室に入ると、泣き顔をした新人の子と、怒り心頭の店長が座っていた。
「東堂、忙しいのに悪いな。実は草野がなー、お前にレジの金を取れって言われたって言ってるんだ」
「……は?」
俺が新人の女の子……草野の方を見ると、草野は更に泣きじゃくり嗚咽を漏らし始めた。
「いや、俺そんなこと言ってないです」
「っく、嘘つかないでくださいっ!脅した癖に!」
泣きじゃくりながらも、草野がすごい剣幕でそう言った。俺は心がざわつくのが分かった。
なんだコイツ。こんなゴミみたいな女、生きている価値あるのか。
「俺も見たっす、東堂が言ってるの」
「池田……?」
いつの間にか、池田が店長室の扉の外にいた。
俺は胸が痛かった。そうかお前ら、本当に。
こいつら、本当に腐っている。
店長は困った様子で腕組みをしながら俺と草野を見比べていたが、やがてはあ、とため息をついた。
「悪いけど、俺は全員信じられん。……とりあえず仕事に戻ってくれ」
店長は苛立たしげに俺たちを追い払った。
他の従業員は厨房の端っこに行って、何やらヒソヒソとこちらを見ながら話している。
俺はここから逃げ出したかった。
*
「こんにちは、燈さん」
「……ああ、お前か」
バイト後。
なんとなく家に帰る気にならず、近くのベンチに座っていると、声をかけられた。
見ると、隣にはやはりあの小学生がいた。
「今日は散々でしたね」
「……ああ」
「殺したいと思いました?」
「……ああ」
「ふふ、よかったあ。もうすぐ馬場は死にますよ」
まだそんなこと言っているのか。もううんざりだった。バイト先の連中にも、こいつにも。
「なあ、悪いけど」
「お、いたいたー東堂くーん」
もう関わらないでくれ、そう言いかけたところで、公園の入り口から酔っ払った様子の男が歩いてきた。
馬場だ。店で一緒だった彼女らしき人物はいない。
「おーい、さっきは恥かかせてくれたじゃん。なーんか奢ってよー」
「いや……」
「つーかさ、お前茜のこと好きだったんだってー?悪いなー俺が取っちゃって!」
「……」
馬場は相当酔っ払っているのか、饒舌だった。
胃がムカムカとし始めるのを感じる。
吐きそうだ。そういえば朝から何も食べていない。
「アイツ身体の具合だけは良かったけど束縛やばかったんだよなー、マジめんどくさかったわ!」
にやけづらで、肩に手を回してくる馬場に、俺は何もしなかった。こいつに微々たる反応すら返したくなかった。
「って、おいおい、こんな時間に女の子いるじゃん!しかも可愛い!」
「うふふ、どうも」
藤花が貼り付けたような笑みを馬場に見せる。
馬場は俺から離れると、藤花の隣に座って太ももや華奢な肩辺りを見始めた。
「へー、中学生くらい?俺年下は無理だったけど、君ならいいね!」
「燈さん、そろそろですよ」
藤花は馬場を無視すると、こちらを見て言った。そろそろとは一体何のことだろうか。
「おい、無視すんなよー。東堂みたいな根暗より俺のがいいだろー?」
「3」
「何?何のカウントダウンー?ねー?」
「2」
「お、0になったら何があるのかなー」
馬場はそう言いながら藤花の肩に手を回した。
藤花も特に抵抗する様子はなく、ただ笑顔で座っている。
「1」
「マジでいい匂いするわー、ちっちゃい子って逆に興奮すんな」
そう言いながら、藤花に顔を近づける馬場に俺は何となく嫌悪感を抱いた。
「おい、馬場やめ」
「0」
パンッ。
その瞬間、乾いた音がした。
ベンチには、俺と藤花しか座っていなかった。
いつの間にか枯葉の敷き詰められた地面に、馬場は横たわっていた。
数秒間、ジタバタともがいたあと、口の端から赤い泡を垂れ流して動かなくなった。
俺と藤花はそれをただ見守った。俺はその場に固まって動けなかった。
……なんだ、これ。全てがコマ送りのように非現実じみている。
俺が呆然としていると、藤花は満足げにこちらを見た。
「はあ。やっと死にましたね。気持ち悪、後でシャワー浴びないと」
「なんだこれ、どうなってるんだよ」
「殺したんですよ、私が。これで」
そう言うと藤花は自身の持つスマホの画面をこちらに見せた。
画面にはメールアプリが表示されていた。
送信済み欄にあるメールには、『馬場裕太、23時41分脳血管が破裂して死亡』とある。
送信日時は、今日の10時半。……ちょうど俺が藤花を追い出した頃だ。
「これは予言メール、と私は呼んでます。私が相手に送ったメールは全てその通りになるので、予言です」
自慢げに胸を張る藤花を前に、俺は停止した思考のまま、気付けば口を開いていた。
「あまりに荒唐無稽だ、そんなのはおかしい」
「目の前に死体があるのに、信用できませんか?」
藤花が心底不思議そうに首を傾げる。
俺は改めて横たわる馬場を見た。開いた瞳孔は空を見据え、口や鼻からは血が流れ出て、足はいまだ小刻みに痙攣している。
だが明らかに、死んでいる。
俺は改めて吐き気を覚えた。
醜悪な人間だった。死んでほしいとも思った。だがこんな……こんな形で人が死ぬものか。
「う、おえっ」
思わずえずく。だが何も食べていなかったからか、唾液と気持ちの悪い汗が出るだけだった。
「燈さん、大丈夫ですか?とりあえず燈さんの部屋行きません?」
「なん、で……お前は平気なんだ」
「初めてじゃないですから、人殺し」
こともなげに藤花はそう言った。
ベンチからひょいと降りて立ち上がる。
そしてうずくまる俺を見下ろして言った。
「これで、共犯ですね」
*
「このままじゃ捕まるんじゃないか」
部屋に着いた瞬間、俺は思わずそうこぼしていた。馬場の死体はその場に置いてきた。明日になれば死体が見つかって、犯人探しが始まる。
「大丈夫ですよ。あれは自然死という扱いになるはずです」
「どうだかな……どうあれ最低の気分だ」
「で、次は誰を殺します?」
俺は言葉を失った。この悪魔は、まだ殺そうと言うのか。
藤花は俺を見て楽しげに笑った。
「あら、そんな顔しないでくださいよ。冗談じゃないですか」
「冗談に思えない。なあ、その予言メールとやら何なんだ」
「うーん、よくわかりません、というのが正直なところですね」
そう言うと藤花は予言メールについて教えてくれた。
1.予言メールは相手のメールアドレスと名前を知らないと送ることができない
2.予言メールは送信先の相手がそれを見ないと効果がない
3.予言メールは3日先までの未来を操作できる
4.予言メールは紫上藤花の携帯からしか送ることができない
「今のところ、分かっているのはこれくらいです」
藤花は説明し終えると、ググッと伸びをしてそのまま俺のベッドに倒れ込んだ。
俺は説明を聞きながら、あまりの馬鹿馬鹿しさに頭を抱えていた。
「こんなの、信じられるわけないだろ」
「信じても信じなくても、結果は同じことですよ」
藤花は大真面目な顔をしてそう言った。
確かにその通りだった。現に馬場は死んだ。
このメールで『予言』された通りに。
「これ、結構色々できるんですよ。例えば燈さんに、『東堂燈はお金持ちになる』と送れば、本当にその通りになりますから」
「馬場のメールアドレスはどうやって手に入れたんだ」
「死んだ人のこと、まだ気になりますか?まあいいですけど……」
上機嫌で話していた藤花は一気に不機嫌になる。だが俺は聞かずにはいられなかった。何かの間違いだと思いたかったのかもしれない。
「簡単ですよ。SNS上で彼と同じ高校の卒業生に呼びかけたんです。『馬場裕太と連絡を取りたいからメールアドレス知っていたら教えてほしい』って」
そう種明かしをすると、藤花は興味なさげにスマホの画面を見せた。
確かにSNSのダイレクトメッセージで、複数の同級生からメールアドレスが送られていた。
藤花はネット上では大学生ということになっているらしい。
「かなり手広く遊んでいたみたいですね、あの人。色んな噂を聞いてもないのにみんな教えてくれました。女性を孕ませて堕胎させたとか、お金を貢がせていたとか。悪評は凄まじいですよ」
「そう、か……」
「あ、今死んでよかったと少し思った!思いましたよね?」
嬉しそうに、ぴょんぴょん跳ねる藤花を横目に俺は、一つのことを思いついていた。
「例えば、『東堂燈は今までの記憶を失う』とメールを送ったらどうなる?」
「しませんよ」
底冷えするような声に俺は身を凍り付かせた。
気付けば藤花は無表情でこちらを、じぃと見つめていた。
「私と燈さんはもう共犯ですから。逃げるなんて許しません」
「きょ、共犯ってお前……」
「ああ。さっきの質問の答えですが、私は試す気もありません」
ツンとした表情でそう言うと、藤花は助走をつけて俺のベッドにダイブした。
鈍い音を立ててベッドの木枠が軋む。
藤花はシーツに顔を埋めながら言った。
「……ただ、まあ。それでも離れるというのであれば止めはしませんが」
「……」
俺は悩んでいた。正確には葛藤していた。
これは選択肢ではない。ただ俺がこの女を受け入れるか、そうでないかの話。であるならば、この決断は早々に下すべきではない。
「少し考えさせてくれないか」
「考えるも何も……いえ、分かりました」
不承不承といった面持ちで藤花は頷くと、すくっと立ち上がった。
「では明日。同じ時間に答えを聞きます」
「わかった。その時間には家にいるようにしよう」
「はい。ではこれで難しい話は終わりです!お風呂借りますね〜」
「あ?何でだよ、帰れよ」
「え、いやでももう真夜中ですし」
そう言って藤花が指差した時計を見ると、確かに時刻は1時を越えていた。
「小学生をこんな時間に帰らせるんですか?」
「いや、だが親御さんとか」
「あっそれは心配ないです。じゃ、お先に入りますねー!」
ふんふんと鼻歌を歌いながら、風呂場に消えていく藤花を見送った後、俺は再度頭を抱えるハメになった。
「どうすんだ、これ……」