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2 神の不在に醜き虫は繁茂する

 


 大学1年生の冬。クリスマスが近づくにつれ、カップルが街中でも目立つようになっていった。

俺は彼らを遠目に見ながら、死んだ顔で毎日電車に乗り、大学に向かう。

講義を聴いてノートを取り、終わればまた電車に乗って家に帰る。

その味気ないルーチンを繰り返していた。


 世間では大学生は人生の夏休みと呼ばれているらしい。だがそんなものなどない。

モラトリアムなんて微塵も感じない。むしろさっさと働き始めて、自分だけが辛いわけじゃない環境に身を置きたかった。

仕事が、社会が辛いから俺はこうなのだと、自分と周囲を納得させる理由が欲しかった。


 だが現実は無情だ。新型ウイルスの流行で、新たな友人関係を構築することができず、大学でも私生活でも孤独を極めていた俺には、外に出る事自体が苦痛になりつつあった。


「ただいま」


 軋むアパートの扉を開けて、真っ暗な部屋に向かって一人呟く。両親はいない。俺が大学に入ってから一人暮らしを始めたからだ。居たとて特にコミュニケーションをとる訳でもないが、一人暮らしを始めてから想像以上に両親の存在が大きかったことを悟った。


 だが、実家に帰ろうとは思わなかった。二度も受験に失敗した俺に、両親は失望しているのか、実家の居心地は最悪に近かった。だからこそ一人暮らしを始めたのだが。


「さてと、やりますか……」


 大学帰りに買ってきた野菜と肉をキッチンに並べながら独り言をボソボソ言った。


 最近独り言が増えた。恐らく孤独を紛らわすための、防衛本能でも働いているのだろう。人間は社会的動物、群れで生活する。そして群れから逸れた人間は、楽に生きてはいけない。俺は一匹狼なんて大層なものではないが、孤独であり、社会性を喪失しかかっている現状の自覚はあった。…まるで天涯孤独、孤独死寸前の老人みたいだ。

 洒落になっていない分、笑えなかった。


 質素な夕食を終えると、俺はいつものようにシャワーを浴びてそのまま布団に篭る。

そうして何をするでもなく横になっているうちに朝を迎えるのだ。

常に不眠気味で、俺はしばらくまとまって眠った記憶がないことに最近気付いた。

 多分、限界が近いと思った。


 *


「……」


 電車は好きだ。窓から見える街の風景は、どこか模型のような、非現実的な、そんな空気を帯びている。

かといってずっと乗っていたいかというと、そうではないのだが。ただ電車に揺られている間だけは何も考えていなくていい。何もすることができないから安心するのだ。


 夕方の車内はそれなりに混んでいて、帰りの電車の時間を一本遅くしたことを少しだけ後悔する。まあいいか、とドアの窓から再び街の風景を眺めようとして……俺の視線が止まった。


 反射した窓ガラス、つまり俺の立っているドアの向かい側の座席に思わず目が釘付けになる。

白髪のおばあさんの目の前に同い年くらいの、いや、同い年の男が座っている。

馬場だ。佐藤茜の、彼氏。

 今時の大学生らしく、黒のカジュアルシャツに、ベージュのガウチョパンツを穿いている。

そして隣の女性と親しげに話していた。佐藤茜、ではない知らない女性。

二人は腕を絡め、手を繋いでいる。

どう見ても付き合っている男女だ。


「……どうして」


 思わず声が漏れた。隣のサラリーマンが怪訝な目でこちらを一瞬見た。だがそんなことはどうでも良かった。胸中に広がるのは怒りと悲しみ。……ただその二つだった。


 いや、分かっているのだ。学生時代の恋愛は長続きしないのが常である。そんなことは、分かっている。それに、佐藤茜があの時選んだのはアイツだって、分かっている。分かっている、けれど。


 俺の初恋をそんな簡単に捨てるなよ。


 すぐ別の女と付き合ってんじゃねえよ。


 肩が無意識にブルブルと震えていた。涙が何故か止まらなかった。必死にハンカチで目を押さえる。


 くやしいくやしいくやしいくやしい。

 すべてが許せなかった。馬場の軽薄さも、佐藤の見る目のなさも、……そして俺のみじめさも。

 お前と佐藤が付き合っていなかったら、俺は。

 車内アナウンスがぼやけて聞こえる。


 ドアが開くと真っ先に電車を降りて、ホームをふらふらと蛇行するように歩いた。

 当然、ホームを足早に歩いている人たちには舌打ちや罵倒を受けた。

 だがもうすべてがどうでもよかった。

 これ以上下なんて、あるか。ショートした脳みそじゃ想像出来ない。もう幸せになんて、きっと一生なれない。


「あ、そっか」


 死ねば楽になるか。


 タイミングを見計らったかのように、ホームに通過電車を知らせるアナウンスが流れた。

足が吸い寄せられるように、ホームの端に歩いていく。

 ……回顧すると、長いようで短い人生だった。良いことはこの七年間ほとんどなかったけれど、その辛さからももうすぐ解放される。自殺に踏み切る二度目の動機がこんな些細なことなんて思いもしなかったが。

 最後にあれだけ疎んでいた両親へ、申し訳ないという気持ちだけが湧いてきた。


 ごめんなさい。

 産んでくれて、ここまで育ててくれて、本当にありがとうございました。


 電車の警笛音が激しくなる。先頭車両のライトが眩しく感じ始めた時、俺はホームから線路へ


「ダメっ!!」


 飛び降りようとした所で、何者かに後ろに引かれて、その場に倒れ込んだ。

 足先数センチのところを、列車が轟々と音を立てて通過していく。

 死のうと思っていたけれど、その音と早さを目の当たりにして、思わず後退りする。背筋がぞくりと震えた。

 ……もう飛べない。


 無知の翼は無情にも折られ、残ったのは誰にも相手にされない、みっともない虫だった。誰が飛ぶのを邪魔したんだろう。俺の人生に責任なんて一つも取れないくせに。偽善的でその場しのぎの、愉悦に浸りたいだけのエゴにまみれた———


 憤りに満ちたまま、俺の手を引いた人間をみてやろうと振り返る。

 それは、今時珍しく赤のランドセルを背負った女の子だった。ぱっちりとした目を潤ませながら、それでも俺の袖口がくしゃくしゃになるくらい、強い力で握って今も離さない。


「し、死んじゃダメですよ」


 自分に言い聞かせるように彼女はそう言った。

 俺は思わず毒気を抜かれ、一瞬茫然としてしまった。

 だがすぐにこの世への憎悪と罪悪感とがないまぜになった、許容し難い感情が俺を支配する。ぱっくりと、何かが開いた。


「ふざけんな、お前何してくれてんだよ。離せよ。欺瞞って言うんだそういうの。俺の人生何も知らないくせに、上辺だけの正義振りかざしてんじゃねえよ」


 頭から何かが突き抜けるかのように、罵倒の言葉が次から次へと口を通り過ぎる。

 止めなきゃ、止めないと。だって俺はまたここから社会に適応しなければいけないから。


「気持ち悪いんだよ、なんで死んだらダメなんだよ。俺の人生に対して何の責任もとらないお前が口出ししてくることじゃねえんだよ。ならお前助けてくれんのかよ……助けてくれないだろ……」


 倒れ込んだ俺と小学生の彼女の周りに、ガヤガヤと人が集まってくる。

 当然だ、側から見れば大学生の俺が一方的に小学生の女の子を罵倒して、傷付けている。

 女の子は何も言わない。ただじっと俺を見ながら、俺が話しているのを聞いている。まだ、手を離さない。袖口が彼女の手汗でじっとり湿っているのが分かった。

 それに気付くと、途端に気勢が削がれていった。

 大義が彼女にあることくらい、誰でも分かる。

 彼女は自殺を止めた素晴らしい小学生で、一方の俺は自殺を止めてあげたにも関わらず、小学生を口汚く罵倒するロクでもない人間だ。


 案の定、30代くらいの女性がサッと俺と少女の間に入って俺を睨んだ。他にも中年のサラリーマンや、高校生のカップルなどが、倒れ込んだままの俺と彼女を囲むようにして立っていた。みんな俺をまるで異常者を見るような目で見ていた。


 ……そうか、こうなるのか。


 ある種の諦観を抱き始めていた。俺にはどうにもならない。衝動的な自殺行動は確かに安直だったと思う。

 この人達にとって俺のこれまでの人生、この自殺未遂の背景に何があるかなんて何一つ関係ないのだ。いや、むしろたった今自殺未遂したということさえ知らないまま、俺を睨んでいる人だっているかもしれない。

 無責任で、押し付けがましい、クソみたいな奴ら。


「……全員、しんじまえ」


 思わず漏れた声は、誰にも咎められる事なくどこかへ消えた。


「あなたねえ、小学生の女の子を捕まえて何言ってるの!頭おかしいんじゃない!?」


 女性が俺をそう罵る。いつの間にかスマホを周りから向けられていた。

 不思議とそれが怖いとは思わなかった。

 もう何が憎いとか、嫌いだとか許せないとか、そんなことすら思わなかった。好きにしてくれ。

 むしろこうして糾弾された方が楽なんじゃないかとすら思う。逮捕でも何でもやれよ、どうでも良いって。


 ぐい、と首根っこを掴まれる。カップルの彼氏が俺を捕まえたようだ。制服のジャケットのような感触が俺の頬をかすった。


「こいつ駅員に引き渡してきます」

「ええ、ありがとうございますお願いします」

「怖かったね、大丈夫?」


「ちょっと、ちゃんと立てよ」


 体に力を入れる気力もなく、ずるずると身体を引きずられる。靴の踵の部分がガリガリと音を立てた。

 駅のホームを忙しなく行き交う人たちの好奇の目線が注がれているのが分かった。

 何かが俺の中で暴れ出しそうだった。それをどうにかして必死に押し留めていた。それはこの世の理不尽を厭ってとかそんな合理的なものではなく、もっと原始的な何か、理性と本能がせめぎ合うような葛藤だった。


「あのっ違います、からっ!」

「怖かったでしょう?もう大丈夫よ」

「そうだよ、辛かったよね。でもちゃんと捕まえたからね」


「だから違いますっ!」


 一瞬、周囲が静まり返った。見ると小学生の女の子が肩をわなわな震わせながら立ってこっちを見ていた。


「え、何この子……」

「ちょっと、あまり大きな声は…」


 女性や高校生カップルは、小学生の女の子にも何かおかしいものを見るような、そんな視線を向けていた。


 だが、女の子は知ったこっちゃないと言わんばかりに俺の方に歩いてくると、腕をぐいっと引っ張って立たせた。そうした後に、俺を捕まえているカップルの彼氏にぺこりと頭を下げる。


「すみません、お騒がせしました。でも大丈夫ですから」

「え、え……?」


 カップルの彼氏は目を白黒とさせたまま、俺が小学生の女の子に引っ張られていくのを見送っていた。

 俺にも何が何だか全く分からなかった。



 *


「……」

「……」

 無言で俺の手を引っ張りながら、歩く小学生。周りの通行人から特に不審がられることもなく、彼女は堂々と進む。

 逆だったなら、色々止められるんだろうが。


 駅の改札口をもたつきながら通る。なおも掴まれたままだ。少し歩くと、人の往来が少ない路地に入っていった。

 ……やはりよく知らない駅で降りてしまったようだ。まったく見覚えがない風景に戸惑いながら、少女に声をかけた。


「……同情か?」


 すると、彼女はピタッと立ち止まって、こちらを向いた。

 少し吊り目がちな猫のような目と、細い眉、それに真一文字に結んだ唇は、さっきも思ったことだが、まさに「気の強い女の子」の顔だ。

 目を細めて彼女はおもむろに口を開いた。


「……それ、どっちのことです?」

「いや、どっちもだけど」

「ええっと、ではどちらもエゴです、とお答えします。あ……でも目の前で死のうとしてる人がいたら、助けるに決まってるじゃないですか!ま、まあその後のアレは二次被害みたいなものなので、助けないといけなかったですし」


 少女は少し頬を紅潮させながら、捲し立てるようにそう話した。


「……ああ、そう」


 少女が言葉を発するたびに、反対に俺の心の芯は冷たく、凍りついていく。そうだった、こいつの欺瞞のせいで俺は今も生きていて、この社会にどうにかして溶け込もうとしなければいけないんだった。


「ありがとう、助かったよ。お礼はこれでいいかな、じゃあこれで」


 早急に話を切り上げようと、財布にあった1万円札を3枚全て少女の手に押し付けると、掴まれている方の腕をぐいと引っ張った。

 少女がそれに引っ張られてたたらを踏む。


「ちょっ、うわ、急に何ですか!」

「人助けできてよかったじゃないか。楽しい日常に戻ってくれ」

「あの、さっきも思ったけどどうしてですか?なんでそんなに酷いことばかり言うんですか?」


 一瞬で彼女の目に大粒の涙がたまる。ああ、まったく名女優だな。だが俺はその涙に一層強い苛立ちを覚えた。


「お前こそ、何なんだよ。中途半端な正義感が、一番人を辛くするって分からないのか。俺は死にたかったんだ。だけどお前の無責任なエゴに邪魔されたんだ。いいよ、気持ちよく帰れよ。そして二度と俺に関わらないでくれ」


 そう吐き捨て、背を向けて歩き出そうとすると、ぐいっとまたコートの袖口を引っ張られた。ポロポロと涙をこぼしながら、少女が俺の腕に追い縋っていた。


「む、無責任なんかじゃないですっ!責任っ、責任とります!」


 彼女の半ば捨て鉢になったような発言にうんざりする。軽率に助けるような人間が、たかだか10歳前後の小学生が、責任なぞ取れるはずもない。


「はあ、どうやって……」


 言い切る前に、少女は俺の言葉に被せるようにして言った。


「わ、私が助けます。あなたの……あかりさんのこと、絶対に……幸せにしますからっ」


 そうして、ニコリと、涙の筋を幾つも顔に作りながら笑ったのだった。


 その笑顔の意味不明さに、悪寒がした。

 何か致命的な違和感を見落としたような……そんな感覚。


「……お前、怖いよ」

「……え?」


 掴む手を改めて振り払い、振り返らないまま逃げるように歩いた。

 彼女は追ってはこなかった。


 ただ、彼女はおそらく今笑みを浮かべているのだと直感で分かった。




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