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きらめく水面に、思い出は棲む  作者: 卯月ゆう
第2章 二度目の青春
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5.湊

 じゃあ歩いてみようか。

 すいはそう言って、僕の手を引いて歩きだした。

「湊くんはすぐ泳ごうとしちゃうから、ゆっくりと慣れたらいいんだよ」

 もちろん自分も引かれたままついていく。

 目指すのは25メートル先の向こう岸だ。

 あまり意識したことはなかったが、実際歩いてみると思ったより大変だった。

 水が重いという表現はたぶんはじめて使うだろう。自分の動きに合わせて生まれる水流が体に絡みついて、手足を動かしづらい。

 前を進むすいは、少しずつ歩いては止める動作を繰り返している。

 ゆっくりと歩を進めるのは、一気に行くと大変だろうからと気づくのは時間がかからなかった。

 小さな感謝が伝わったかどうか、すいは振り返って教えてくれた。

「こういう体にかかる力を、抵抗(ていこう)って言うんだって。けっこう力を込めないといけないって分かればだいじょうぶ。最初だから、足を滑らせないようにだけ気を付けてね」

 などといろいろ解説してくれる。

 

 まずは向こう岸まで歩けた。

 その感想といえば、なかなか疲れるということだった。

 腕も足も最初の頃と比べて重い気がする。

「よくがんばりました!」

 すいは微笑みながら、小さな拍手をして褒めてくれた。

 すると、「えいや」っと壁を蹴ると潜水して元の方に戻っていく。少し泳いで、数メートル先のところで顔を出した。

 こちらを向いて言うことは、

「今度はこっちまで歩いてみようか。わたしの腕にタッチしてみてね」

 もし怖くなったら縁に手を付けていいよと付け足してくれる。

 さっきまで歩けていたからだいじょうぶ、そう自分に言い聞かせて歩き出してみた。

 せっかくだから、もう少しチャレンジ精神を取り入れてみよう。プールの縁には手を付けないで進んでみる。

 実際何事もなく歩くことができて、もうそろそろすいの手のひらにタッチできそうだった。

 でも、すいは形よく口角を上げるとまた泳いでしまった。

 ああー、ひどい。

 彼女はまたすぐに顔を出したが、ゴールは遠のいてしまった。にこにこと笑うすいは、こっちだよと手を鳴らしている。

 まるで子どもの遊びで誘導される鬼のよう。

 また少し歩いて、やっとのことで触れられそうだ。それなのに、すいはまた泳いでいってしまう。

 ああー、これではお笑いで出てくる天丼のよう。また同じことが繰り返されて、困ってしまう。

 少し休もう。足を止めてその場で膝に手をついた。

 すいはどこまで泳ぐんだろう、いつの間にか25メートルの半分近いところまで進んでいた。

 しばらく呼吸を整えて、また新しい一歩を踏み出す。

 こうなったら絶対に捕まえてやるんだ。

 だけど、その意気込みは空回りしてしまった。気持ちが先走ってしまい、足元には注意が及ばなかった。

 慌てて転びそうになったところを、すいが駆けつけて支えてくれる。

「だいじょうぶ?」

 うん。足は立つし、呼吸が整うのを待てば問題はなさそうだった。

「じゃああと半分過ぎてるから、あとはふたりで行こうか」

 ゆっくりでいいからね。そう言ってすいはまた自分の手を引いて歩き出した。

 

 少し下がった日差しがふたりを照らし、空に浮かぶ雲が影を作っていた。

 すいはぽつりと話し出した。

「ごめん、ごめん。わたしつい楽しくなっちゃって」

 その声は少し湿っていて、それが謝罪だと気づくのには時間がかからなかった。

「いや、僕の方こそごめん」

「ううん、わたしの方が」

 もう水中での歩き方は慣れてきていた。

 でも、だからといってお互いに会話をする雰囲気ではなくて。ただスタートラインに戻るだけなのに、それはとてつもなく長い時間のような気がした。

 前を向いたまま、すいが語り掛けた。

「......ねえ。前にもふたりで手をつないで歩いたことなかったっけ」

 こちらに振り返った表情は切なくはにかんでいた。なんだか、大切な思い出を感じていたい、そんな気持ちを感じる。

 あれはいつのことだっただろうか......。

 

 そんなことを考えていたら、思わずよろけてしまう。

「うわっ!」

「たいへん!!」

 急いで歩くのを止めたすいは自分の体を引き寄せるように手首を掴んだ。そして、姿勢が安定するようこちらの腰に手をまわした。

 気が付けば、ふたりプールの中に立ち止まったまま。もう少しじっとしててねというすいの問いかけに、僕は首を縦に振った。お互いの体が近いのも忘れて、ずっとその体勢を維持していた。

「まあ、合格にしようか......」

 上目遣いのすいが告げる。

 お互いの鼓動が聞こえそうな距離に、ふたりは無言のままだった。


 ・・・


 水泳の練習では、こまめに休憩をしないといけない。

 屋外でも室内でもかかわらず、なかなか体力を消費するものだ。それに水の中にいると実感しづらいものだから、想像以上に水分を摂りたくなってくる。

 ふたりは足湯をするみたいに、プールの縁に座って足を水につけていた。

「気分悪くなってない? 顔色はいつも通りみたいだけど、なにかあればすぐ言ってね」

「うん、だいじょうぶだよ」

 僕はとなりに座っているすいの方に顔を向けてみる。

 よほど心配していたのだろう、弧を描いている眉がさらに丸まっているような気がした。

 空は夕日が差し込み、少し冷たい空気が流れていた。見上げるとハトが空を飛んでいた。平和の象徴が出現したことで、お互いに安堵の気持ちがこみ上げてくる。

「今日はここまでにしようか」

 すいはそう言いながらも、こちらに向けた視線を外さない。

「......ね、聞いちゃっていいのかな。湊くんって、......どうしてなんだろう」

 どうしてなんだろう。こんな場所でその質問が意味するところはひとつしかなかった。

 すいの顔にピントを合わせてみると、彼女の表情はみるみる変わっていく。

 一瞬真顔になって。すぐに顔を赤くして。

 しまいには慌てながら身振り手振りで取り繕うようになった。

「ほら、湊くんここまで歩けるし水怖がらないし。......なんで、泳げないのかなって」

 どうして尋ねる方が恥ずかしいのだろうか、どんどん小声になっていく。

 それは別に隠したいわけではないけれど、忘れられない出来事だった。


 ◇◇◇


 まだ小学生に入る前の年、僕は家族でプールに来ていた。

「あんまり遠くに行かないでね」

 母親に言われて、すぐ近くを浮き輪で浮かんでいた。

 周りを見てみると、楽しそうに遊んでいる姿が目に映った。

 ボールを投げている子も、泳いでいる子も。みんな日常を忘れて精一杯遊んでいる。そんな彼らを太陽が照らしていて、キラキラときれいに思えた。

 

 そういえば、小学校からプールの授業があるんだっけ。あの子たちみたいに泳げたらいいなあ。

 

 そんなことを考えているうちに、いつの間にか家族とはぐれてしまった。

 あたりは人ごみにあふれて、ずっと先を見通せない。

 おまけにこの辺りは足の届かない深いところだった。お母さんって呼び掛けてみても、はしゃいでいる声たちのせいですぐにかき消されてしまう。

 

 そうだ、泳いでみたら家族のところに戻れるのかもしれない。

 慌てて足を動かしてみる。

 どちらに行けば良いのだろうか、そんなことを考える余裕もなくただ見ている方向へ向けて泳ぎだしてみる。

 でも、浮き輪をつけたままだから、身体ひとつで泳ぐのと訳が違うなんて分かるはずもない。腕を伸ばしても泳ぐ姿勢になんてならないし、足を上下に動かしても前に進むことができなかった。

 しだいにひとり慌ててしまい、全身に力が入ってしまった。

 やがて、どんな姿勢になったのかにまったく気づけず、浮き輪が外れてしまう。

 

 これで身軽になれる......はずもなく、プールに沈んでいく。

 

 もうあっという間だった。

 うっすらと目を開けてみた。どの方角を見ても、薄暗い水色たち。その閉じ込められた世界に孤独を感じてしまう。

 楽しかった幼稚園も、待ちわびていた小学校も。

 水の中へ堕ちて、終わる。

 

 ある一角が光ったような気がした。

 こちらへ向かってやってくる、一筋の光。その姿は人間のようで、人間ではないようで。まるでこの世のものとは思えないほどにきれいだった。

 ......人魚姫?

 だけども、僕の瞳はここで閉じられてしまった。

 

 意識を戻した僕の瞳に映るのは、見知らぬ女の子だった。

「......ここは?」

「水飲んでないみたいだね、よかった」

 同い年くらいの女の子がこちらをのぞき込んでいる。その表情は心配しているのが浮かんでいた。

 それから、溺れているところをお母さんと一緒に助けたと教えてくれた。

 体を起こすとまだ苦しい感じがする。

「まだじっとしててね。今お母さんがタオル取りに行ってくれてるから」

 内向的な性格だったから、これから話を紡ぐことはできなかった。それでも、たったひとつ伝えるべき言葉がある。大切はことは、幼い心にも刻まれていた。

「ありがとう」

「うん、どういたしまして!」

 女の子がにっこりと微笑むとともに、ショートカットの髪が揺れた。

 もうちょっとしたら一緒に家族を探そうね。それは一日だけの冒険になるのだった。


 ◇◇◇


 すいは時折頷いて話を聞いてくれた。話の終わりに小さなため息をつく。

「そうなんだよね。小さい頃のトラウマって克服できないものでさ。それなのに授業で泳がなきゃいけないのかわいそうだよね」

 それから、サラダに乗っかってくるキュウリを食べてくれないかな、などとつぶやいている。ただ苦手な食べ物なのでは? あまり聞かないであげよう。

 すいはくすりと笑うと、体を滑らせるようにまたプールに入っていく。そして少しだけ潜水すると、立ち上がるように体を起こして語ってくれた。

「でもさ、授業とか関係なくただ泳ぐだけってのも楽しいけどね。できないことができるようになると、楽しみが増えるから。わたしはそのために教えてあげるんだ」

 そう言ってにっこりと笑った彼女に、自分も微笑みを返す。

 だけども、すいの姿を見て慌てて視線をそらした。

 彼女はいつの間にか人魚姫の姿になっていて、こともあろうことかワンピースが透けているのだ。

 すいはまったく気づいていなかった。

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