3.人魚姫
すいとの出会いは、中学生の頃までさかのぼる。
小さい頃の自分は、水泳はもとより、体育の授業は下から成績を数える方が早かった。
そんな自分はいつもクラスでは蚊帳の外だったし、小学生の頃には"どうして運動が下手なの"と聞かれることもよくあった。
「だったら強くなろうよ!」
こうやって声をかけられても、いじめられっ子が揃って空手やボクシングを学んだりするだろうか。
できてもできなくてもいいじゃない。
子供心にこんなことを言ってみたかった。でも、クラスのカースト的な雰囲気の前ではそんな意見もはばかられてしまって、健康ならば行事に参加しなければならないことが悲しかった。
友だちってなんだろう。
いきなり100人作れと言われても、僕にはよくわからない。
小学生の朝礼でよく"見ず知らずの生徒であっても、友だちと思おう"と言われても。僕の耳に届く言葉は同調圧力でしかなくて、どうすればよかったのだろうか。
友だちが少ない自分にと親が勧めてくれたのが英会話教室だった。
意識してくれたか分からないが、同じ学校の子が居ない時間帯の教室に入ることになった。そのことがとても嬉しくて、意気揚々と出かけて行ったのをよく覚えている。
閑静な住宅地にひっそりとたたずむ交差点。
目立つスポットではないこの場所を、ふんわりと舞う桜吹雪が彩っている。
足を止めて信号が変わるのを待っていると、その向こう岸に少し背の低い女の子がいた。
彼女がすいだった。
すいは交差点の角で立ち止まったまま、いろんな方角を向いてきょろきょろとしていた。
その姿は誰がどう見ても困っていると思うだろう。だから、こちらの信号が渡れるようになると小走りに走っていき彼女に声をかけた。
「ちょっと、だいじょうぶ?」
「え? だいじょうぶ、だよ......」
「ほんとうに?」
「う、うん......」
これほどに言葉を重ね合わせてみても、視線すら合わさずにだいじょうぶと言ってしまう。その表情は、不安の顔色が隠しきれていなかった。
これはどうしたものか。
でも、僕だってもう行かなきゃいけなかった。
「ごめんね、僕は塾に行かなきゃだから」
そう言ってこの場から歩いていこうと思っていた。でも、僕の足はその場からひとつも動かすことができなかった。
彼女の手が、僕のシャツを握りしめていた。
「え、塾ってどこに行くの?」
その上目遣いの瞳はまるで希望を見つけたようにきらめいていた。
「いらっしゃい、結城さん!」
塾の扉を開けると、机に座っていた女性が立ち上がって拍手をした。塾講師の先生だった。
そう、交差点で出会った僕は、すいが新入生であると知る。その流れで自分が連れてきた形になった。
「ここはおうちみたいにゆっくりしてくれていいのよ。さあ、いらっしゃい」
「よ、よろしくお願いします......」
先生のあたたかい歓迎を受けて、すいは塾の教室へと足を踏み入れた。
「英語の挨拶をしてみようか。自分の下の名前を言うのよ、"My name is Sui"言えるかな?」
「ま......、My name is Sui!」
「How many siblings do you have?」
先生の次なる質問に詰まったすい。ここで自分は救いの手を入れる。
「兄弟や姉妹がいるかってことだよ」
「えっと、だれもいないから......No!」
よくできました! 先生は拍手をしてすいを迎え入れた。
彼女の頬は緊張しつつも、喜びの表情が浮かんでいるようだった。
それからしばらく経った日。
塾では小規模なテストのプリントが返されていた。
「みんな、良く出来ていたわね。それでも湊はいちばん成績が伸びているよ。みんなも自分のために次もがんばるのよ」
塾の生徒の視線を浴びつつ、僕はちょっと恥ずかしい気分に浸ってしまう。
そして、先生は復習を兼ねて何枚かのパネルを見せた。
「えっと、......リンゴじゃなくてアップルだ!」
いつの間にか教室の雰囲気に溶け込んでいるすいは意気揚々と答えていた。
「すい、答えるの早いよー」
「っていうか、この絵の雰囲気を覚えてるんじゃないかな」
ほかの生徒に茶化されても、すいは明るくごめんと頭を下げる程度で学校みたいな煩わしさは感じられない。
「いいのよ、英単語を覚えている証拠なんだから。さあ、次のゲームをはじめるわよ」
先生の誘いに乗って、皆は長机の上に広がるノートやプリントを片付けた。
「ほら、みんな早くこっち来てよー」
すいはいつの間にか長机から飛び出して隣のスペースに置かれているテーブルに移動していた。
はいはい、今行きますからね。
英会話の塾とはいえ、ゲーム形式で英文法や読み書きを学ぶ授業が主体だった。そのため、塾の教材とは別に先生が手作りしたプリントやカードがたくさんあった。
下の名前で呼び合うだけのルールしかなかった。だから僕はすいと呼ぶし、彼女も湊くんと呼ぶようになった。
それ以外にも宿題は毎回出ないし、日常的な会話でも英語で話すことを強制しないし。生徒が皆楽しんで取り組む雰囲気が作られていた。
塾が終わり自転車に乗ろうとしたところで、すいに声をかけられた。
「湊くん、すごいよ! さっきのプリント満点だったじゃない」
両手でガッツポーズをしつつ腕を振る彼女に合わせてショートカットの髪とスカートがゆれた。
どうしてそんなに頭がいいのと聞かれても、恥ずかしくなって困ってしまう。
「いや、そんな大したことはないよ」
これだけ答えてすぐに帰ろうとしたが、すいは立ち止まったまま瞳をこちらに向けて微笑んでいる。その瞳はまるで羨望のまなざしだ。
それじゃあと、自転車を押しながらゆっくり歩いていこう。
「それにすいだって、パネルを出たらすぐに答えてすごいじゃない」
「そうかなあ。だって絵があるだけだし、なんていうかさ......」
まあ、なんとなく分かる気もする。英単語だけできても、文法ができないと困るだろう。
今日この日から、ふたりで一緒に帰るようになった。
「わたしがプリントでつまづいたら教えてね」
「うん、いいよ」
隣を歩くすいはあれらこれらと会話を紡いでいく。彼女がつくる無邪気な笑みを夕日が照らしていて、とてもきれいに見えてしまった。
毎日が楽しいから。
こう思えるだけで日々が彩りをもってくる。
その気付きを教えてくれたすいに好意をもつようになっていく。
・・・
すいとの関係は塾を卒業したら終わるだろうと思っていた。
それが、まだ続くなんて誰が想像しただろう。
高校の入学式の日。校舎の入り口のところに、決められたクラス割がボードに貼り出されていた。
その前に立って、自分のクラスはどこだろうと探しているところだった。
隣に小さい背をした女子生徒が並んだ。彼女も自分が行くべき教室を探しているようで、ひっきりなしに首を動かしていた。
僕は彼女の姿をそっとだけ視界に収めると、校舎の中に入っていく。まさか、そんなことはないだろう。心の中にそっと浮かんだ思い出を秘めながら。
はじめて入る教室には、まだ数名の生徒しか集まっていなかった。
彼らはまだ緊張しているようで、お互いに話すことはなく静かに座っていた。
ああ、自分もそっと過ごす感じが良いんだな。そうやって自分の席に腰を下ろしたところだった。
静寂を切り裂くような音は、廊下を必死に走る足音。
何気なく廊下の方に目をやると、足音は近くで止まったようだった。教室の入り口で膝に手をついて息を整えている生徒がこちらに向けて顔を上げる。
......僕たちの視線が、お互いの姿に気づく。
すいだった。いつも塾で見ていた女の子がここにいるなんて。
顔を真っ赤に染めた彼女が、そそくさと教室の中に入っていく。その姿を目で追う僕も、どこか恥ずかしかった。
それから、入学式はつつがなく進んだ。ホームルームが終わると、近くの生徒たちはお互いに声を掛けて挨拶をし合っていた。
皆の様子を横目に見つつ、僕は席を立った。クラスメイトと仲良くなるためには、もっとゆっくりで良いだろう。
抑えた気持ちを抱えながら僕は教室を出ていこうとする。その時、僕の肩を叩く手があった。
すいだった。彼女はにっこりと笑うと、こちらの顔を見て頷く。僕も微笑みを返すと、ふたりして学校を出て行った。
路地裏を歩く僕とすいの間に爽やかな空気が流れているみたい。
「ねえ、湊くんは何が楽しみ? わたしはどんな授業も早く受けてみたいなあ。あ、部活にも入らないとね」
すいはあれこれとこれからの希望を楽し気に話す。彼女の様子を見ながら、僕は自然と硬い表情になっていた。
「きみったら、そんな暗い顔しちゃだめだよ。たしかに、来年も十年先だって分からないじゃん。明日何があるのかだってさ。だからさ、日々を精一杯過ごそうよ!」
毎朝起きた時に、今日は何が起こるのか考えたい。こういう考え方に今までに出会ったことがなかった。やっぱりすいは素敵な感じがする。
「ねえ、すい?」
「なに、湊くん?」
言いたいことがあるなら、一緒に声を出して言おう。せーのってタイミングをそろえて。
「スイーツを食べに行こう!」
これからの生活がどんなものになるのか分からない。けれども、ふたりでいることが大切なんだ。