第11話 アルノル少年の後天的人間嫌い
これまで特に言及することは無かったが、実を言うとアルノルには前世の記憶のようなものがある。
更に正しく言うなら、前世の記憶を持つアルノルという人間ではなく、こことは別の世界の、日本という国で産まれ育った男が、気づいたら全く知らない地で全く知らない少年に生まれ変わっていたという現象に近い。
はじめにアルノルという人間になっていることを自覚したのは、この身体が3才の時だった。
勿論、最初のうちは夢だと思って過ごしていた。現代の地球において、異世界転生や憑依モノというのは最早誰もが楽しむコンテンツとなっていたが、人体で記憶を司るのは海馬や大脳皮質であるという前提を知っていたため、自らに同様の現象が起こるとは微塵も思っていなかったのだ。
夢の中で夢だと自覚したことは無かったが、実際に見たこともない動植物や言語に溢れた世界の中に身を置くと、妙に五感がリアルなのを頭の隅に追いやってでも、ここが空想の中の世界なのだと結論付けざるを得なかった。
最初のうちは、ただただ興味深かった。中世ヨーロッパに酷似した文化体系に、しかし見かける小動物や虫、植物は見たこともない種類の物ばかり。言語や文字にしても、見たことも聞いたこともない物で、鏡に映る自らの容姿は、地球ではお目にかかれないような美貌と色合いだった。
頭の中に、ライトノベルでお馴染みの”異世界”というワードが浮かんでは、どんどん疑問で満たされていく。答えを尋ねようにも、言葉も通じないので確かめようがないのが難点だった。
しかし、そんな好奇心や探究心も夢だと思っていたからこそ湧いていたもの。それが持続するのは1ヶ月が限界だった。1ヶ月という時間は短いようで途方もなく長い。それだけの日数を幼児の体で過ごせば、相応の精神的ストレスがかかるし、良い加減にこの場所が夢ではないという自覚が生まれた。
現実世界と同様に、空は青く、重力も、引力も存在する。
だが確かにここは元の世界と同じ場所ではないのだ。
自分に優しげな笑みを浮かべてくる乳母らしき女性や、様々な世話を焼いてくれる侍女らしき人たちの口から吐き出される異国の言語が、否が応でもその事実を悟らせてくる。
しかし何よりも恐ろしかったのは、そんな彼女たち自身だった。
花も、鳥も、自分の知る姿とは全く別の姿形を取っている。だが、人間だけは自分の知る形のまま目の前に立っているのだ。この世界の人間も、地球のそれと同じように二足歩行で、手にはそれぞれ5本の指があり、顔には、目、鼻、口と絶妙なバランスで配置されている。
何故地球とは全く違う生態系が築かれている世界で、人間だけが自分の知る人間のままなのだろう。例えば彼らの肌が青色であったなら。若しくは、倫理観や価値観の面で明確な違いがあったなら。自分はこんなにもこの生物に対して恐怖を感じることは無かっただろう。
全く知らない世界で、親しみ深い姿形をとっている彼らは、自分が安心し、頼るべき存在であるはずなのに、自分にとっては宇宙人や侵略者のようなものにしか見えなくなってしまった。
一度、周りの誰にも理解されない恐怖に囚われてしまえば、ふた月も経つ頃には、人間が視界に映るだけで、心臓が早鐘を打ち、天と地が一秒ごとに入れ替わるような眩暈に襲われ、吐き気とともに、臓物を直接素手で掴まれるような不快感を常に感じるようになった。
だが結局のところ、宇宙人は彼らではなく自分なのだ。
自分はこの世界にとっての異物。彼らの視線から逃げ、息を潜めるのをやめた途端に、無数の刃物の先端を突きつけられるような緊迫感を常に感じるようになってしまった。
実際、変に知性的な行動をとる3歳児だった自分は、当初天才児だ何だと持て囃されていたが、この世界に来てからの数ヶ月後に、恐怖心に突き動かされるままに涙腺を崩壊させて、日本語で ”ここはどこだ”、”お前たちは何なんだ” と数時間捲し立てた翌日からは、案の定バケモノを見るような目で遠巻きにされるようになった。
謎の言語を流暢に話す幼児だ。その反応も当然であるし、気味悪がって殺されたりしなかっただけ上々な扱いをされていた。寧ろ、人間を出来るだけ視界に入れたく無かった自分からしてみれば非常に助かる対応だったのだ。
つまり、このようにしてアルノルの人間嫌いは出来上がったわけである。
それからの一年、特に何の変化もなく過ごしたが、体の主であるアルノル少年の両親らしき姿も二度ほどしか見ておらず、自分が育てられているのが別邸とか別荘とか、そういう所なのだろうと想定できた。
そう。別邸や別荘だ。調度品や屋敷の広さ、使用人や執事の存在からも金持ちの家なのだろうと予想はしていたが、想像よりもだいぶ高位の貴族家であるようだった。
といっても、これも推測でしかない。自分は一年経とうとも変わりなく、全方位恐怖症状態だった。いや、変わりないと言うよりも、むしろ悪化していたのだ。
周りの人間どころか、この身に纏う衣類でさえ不快で落ち着かないというのに、この地の言語を習得するはずもなく、全く受け付けない状態だった。
成長しようとも一言も口を開かず、表情を動かさず、使用人とは頑なに視線を合わせない。食事や睡眠、歩行は問題なほどに問題なくこなすのに、言語を解するはずの年齢になっても一向に言語を習得しない子供。
当然だが医者を呼ばれる。しかし名のある医者たちを呼んでも何も解決の兆しを見せないので、使用人たちとの溝も歳を追うごとに深まり、それからの五年間は温室と繋がった自室で誰も寄せ付けずに一人で過ごした。
しかし五年もの月日があれば、いくら情報を頭でシャットアウトしようにも、日常会話程度なら聞き取れるようにはなっていた。一人で過ごすとはいっても、こちらが自力で衣食住を用意できない子供である以上、どうしても周りの使用人の出入りはある。こちらは人に対して置物のようにうんともすんとも言わないのだが、アルノルの元に残った使用人のうちの数人は基本的に善で構成されているらしく、めげることなく和かに会話を試みようとしてくる者たちもチラホラといたのだ。
そして、転機となったのはもうそろそろアルノルの身体が10歳を迎えるかという頃。
特に理由もなく何となくだが、たまたま見つけた抜け穴を通って敷地の外に初めて出てみた。
治安は想定より随分と良く、高級な材質だがシンプルに仕立てられている衣服も、抜け道を通ったことで良い具合に汚れがついて、これといった苦労もなく街に馴染める。
この時ばかりは恐怖にも鈍感になり、不安も目的もなく、焼けた肉の匂いに誘われるままに、神殿らしき素朴な建物の横を通り過ぎて舗装された白い道を歩いていった。
寝起きだったからか、横を通り過ぎていく人並みにも特に何の感情も抱かず、ぼうっと映像越しの光景のように視界に収めながら、フラフラと肉とタレの匂いに向かって歩みを進める。
ゆっくりと数分歩き、元いた屋敷からそれほど離れていない位置に、露店が並ぶ広場を見つけた。
しかしすぐに近づくなんてことはせず、露店よりも手前に鎮座するシンプルな造りの噴水の端に腰掛け、一番手前にある肉串を売っている店を観察する。
二分ほど待ち、列が一時的に捌けた様子を見計らって、タイミングなら今だろうかと立ち上がり、数ヶ月前に拾った大銅貨を右ポケットから取り出す。先客たちの会計を見た感じでは、これで問題なく購入できるはずだった。
小さな掌の中で貨幣を撫でつつ、息を吐き出し足を進める。
ぶわりと肉の匂いが広がる露店の前に立ち、並ぶ湯気を放つ肉串たちに目を滑らせると、陳列棚の上から見下ろすようにして恰幅のいい女性店主が身を乗り出してきた。
『おや、可愛らしいお客さんだね。丁度今、焼きたて出来てるよ』
愛想のいい顔で笑みを向けられる。
自分は結局のところ、この世界に来てから一度もこの地の言語を喋ったことはなかった。しかしたまに日本語を口に出したり、一人でいる時に歌を歌ったりしてはいたので、喉が引き攣ることもなく声は出すことができるはずである。
緊張に震える肺を強く撫で付けるように深く呼吸をして、握り込んだ大銅貨を差し出す。
『…これ、を1本…ください』
頭の中で数上とシミュレーションした言葉は、吐き出してみれば案外どうということはなく、弛緩した肺には、朝のひんやりとした空気が流れ込んで来た。
女性店主の『はいよっ』という元気のいい声と共に熱い肉串を受け取り、おつりの小銅貨も6枚返ってくる。
異世界の空気は思っていたより冷たくて肉の匂いだったが、けっして自分を阻害しようとするものではなかった。
この世界に来て、ちゃんとした"呼吸“が出来たのは初めてな気がする。
結局、この事をきっかけに自分は一転して人間と会話をする事を始めた。
屋敷に帰り、一時的に姿が見えなくなっていた上に、衣服を汚して帰ってきたアルノルに屋敷の者たちが驚いた様子で集まってきたが、気分が改善されていた自分は何か悪戯心のようなものが湧いていたので、彼らに普通にこの世界の言葉を話してみると、目ん玉が飛び出そうなほど驚く者や、悲鳴をあげて涙を流す者、普段失敗などしないくせにその日一日は皿を落としまくる者など、様々な反応を返されて少し面白く思ったものだ。
それからは、10歳になったことで社交界への進出が始まり、貴族の子弟が多く在籍する学園での生活も迎えた。
今までは勉学や社交関係のマナーなどの類の授業は一切受け付けていなかったのだが、中身は成人を迎えた男性だというプライドも少しばかりはある。授業の進行をスタートして数ヶ月と経たないうちに遅れていた分を取り戻し、さらに年齢に見合わない先の課程まで授業を進めていると、やはり使用人や教師連中には天才だ逸材だと騒がれた。
しかし、恐怖や孤独感は改善されようとも無くなってはいない。
この世界に目を向ける努力をしたことで外側を取り繕うことは覚えたが、相変わらず表情筋は意識して動かさないと死んでいるし、口調も自然と突き放すようなぶっきらぼうなものになってしまう。
そこで自分がハマったのが色事だった。
ハマったというか、ハマらされたというか。きっかけは学園で5つ上の学年に在籍していた女子生徒だった。日本にいた頃の感覚ではアウトな気がするし、この世界の倫理観でも別にセーフというわけではないのだが、貴族社会では年齢差とか性事情的にはよくあるものらしい。自分には抵抗する気力とか抵抗しようという思考力が不足していたので、アルノルの整った容姿に目をつけられ空き教室で喰われたというのが事の次第だ。
相手が恋愛対象になるような人物ではなく、自分自身元の身体では沢山の経験を積んでいたこともあって、最中は何というか無感動なものだったが、思いの外見事にハマってしまった。依存してしまったと言い換えてもいい。
自分にとって人間は圧倒的に恐怖の対象なのだが、救いになったのもその人間で、セックスは恐怖による肉体的精神的なストレスを発散できる手軽な手段であり、尚且つ相手の肉体や感じる重力に気を向けている間は、自分がこの世界の一員になっているような錯覚に陥った。
勿論、成人前の子供と体を重ねる事に、良心の呵責に苛まれなかったわけではない。そのため自分から誘うことはせず、あくまでも相手から求められた場合にのみ、相手を選んでそれに応じる事にした。
そうやって性交に依存して数年と経たず、相手は女性だけでなく男性にまで広がったが、男に揺らされていても同様の効果が得られたし、問題なく自分の日常になっていった。
そんな乱れた青春時代だが、まあ友人と呼べそうな連中も数人はできた気がする。
自分と同様に盛りに盛った日々を送っていて、タンパク質ばかりとっていそうな男や、記憶力が化け物級に良い親戚になった女、図書室で会う無駄に顔の整った男。
自分は意図的に一線を引いて、人に踏み込ませないような態度をとっているが、それを気にも留めず近くに居座る変な奴らだ。
この時点では既に、自分が元の世界に戻ることができる可能性は相当に低いと理解していた。この先その予想通りに自分もこの世界で時を重ねていくのならば、この者たちとはきっと長い付き合いになるのだろう。
いつか、この世界を、彼らを真に受け入れられる日が来るのか。
人間に対する変わらぬ恐怖心を胸の内に抱えつつ、まだ見ぬ未来の中で、そんな光景も見てみたいと思った。